風の通う午後
六月の光は、どこか甘くて、危うい。
雨上がりの街に、夏の前触れのような湿気が漂っていた。
それは、長く閉じていた世界が、
ほんの少しだけ開いたような午後だった。
傘をたたむ音が、アスファルトに微かに響く。
空気の中には、土と水と若い緑の匂いが混ざっていた。
僕はその匂いを吸い込みながら、
自分がまだ世界の中にいるという感覚を、
かすかに取り戻していた。
彼女と初めて言葉を交わしたのは、
ゼミの帰り道、校舎の影が長く伸びる夕方だった。
彼女は分厚い本を抱えていて、
それがカントの『判断力批判』だと知ったとき、
胸の奥がかすかに震えた。
同じ文を、同じ速度で読んでいる誰かがいる。
その事実だけで、
長いあいだ閉じていた心の扉が軋むような音を立てた。
「最近、何を読んでるの?」
彼女がそう尋ねたとき、
僕は思わず言葉を探した。
その問いに答えるだけの“自分”が
しばらくいなかったからだ。
「……ロッツェを。」
そう答えたとき、彼女は少し驚いたように笑った。
その笑いが、あまりに自然で、
まるで春の終わりの風のように柔らかかった。
その瞬間、僕は久しぶりに
「話す」という行為に意味を見いだした気がした。
それから何度か、彼女と話すようになった。
講義のあと、図書館の前、キャンパスの坂道。
どの会話も短く、曖昧で、
それでも僕にとっては一つひとつが
世界と再びつながるための呼吸だった。
六月の風は、よく通り抜ける。
教室の窓から吹き込む風が、
プリントを揺らし、髪を撫でていく。
その風の中に、彼女の声が混ざって聞こえる。
言葉の内容はもう覚えていない。
覚えているのは、
彼女の声が風と同じ方向から届いたということだけだ。
午後の光が差し込む教室で、
彼女がノートに何かを書き込む仕草を見ていた。
指先がペンを追い、髪が頬に落ちる。
その何気ない動作のひとつひとつが、
僕には静かな祈りのように思えた。
彼女は世界に属していて、
僕はその世界を外側から見ている。
それだけの構図なのに、
どうしようもなく胸が温かくなった。
僕は、恋をしたかったのかもしれない。
けれど、それ以上に――
「人に触れたい」という衝動の方が強かった。
ただ誰かの世界の片隅に、
自分の存在を置いてもらいたかった。
それは所有でも、承認でもない。
ただ「共に在る」ということの
かすかな現実を、もう一度確かめたかった。
帰り道、校門の前で立ち止まる。
風が通り抜け、木々の葉が光を跳ね返す。
彼女の背中が遠ざかっていく。
その姿を見送りながら、
胸の奥で何かが微かに痛んだ。
痛みの正体はわからない。
でも、それが“生きている”という感覚そのもののように思えた。
夜、部屋に戻ってノートを開いた。
昼間の会話を思い出しながら、
いくつかの英単語を無意識に書き連ねた。
「existence」「feeling」「relation」「distance」。
その単語たちは、まるで
彼女との会話の残響のように並んでいった。
意味よりも、音の方が大事だった。
筆圧を通して、自分の心の温度を確かめる。
その行為が、
“世界に触れる”ということの代わりになっていた。
窓の外では、風がまた吹いていた。
夜の風は少し冷たくて、
どこかで雷の気配がしていた。
その音を聞きながら、
僕は奇妙な安心を感じていた。
外の世界が動いている。
風も、光も、人の声も、まだどこかで続いている。
その中に、僕が微かにでも触れている。
それだけで、
この夜をやり過ごせるような気がした。
そしてふと、思った。
――もし、彼女ともっと話せたら、
もう少しだけ、世界の中で呼吸ができるだろうか。
風がカーテンを膨らませ、
机の上のノートをわずかにめくった。
その白いページの向こう側に、
明日の自分がかすかに透けて見えるような気がした。
僕はそのままペンを握り、
何かを書き始めようとした。
けれど、文字になる前に言葉が溶けて、
ただ静かな風の音だけが部屋を満たしていた。




