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ノートと窓辺

朝の光は、部屋の隅を淡く染めていた。

カーテンを透かして入る光は白く、

まるでこの世界のどこか別の層から滲み出てきたようだった。

その光がノートの上を滑り、

昨日書いた文字の上で静かに止まった。


「existence」「limit」「failure」「hope」。

どれも手の震えた跡が残っていて、

筆圧のかすかな違いに、その日の心の波が刻まれている。

意味よりも、その不安定な線の方が、

よほど僕の“現実”を語っていた。


コーヒーの匂いが冷えて、

空気の中で混ざり合っていた。

カップの底に残った黒い輪が、

時間の痕跡のように見えた。

僕はその跡をじっと見つめながら、

何かを取り戻そうとしていた。


窓の外では、風が通り過ぎていく。

枝の揺れる音、鳥の声、

遠くで走るトラックの低い唸り。

どの音も、ガラス越しに少しだけ遅れて届く。

世界が遠くで呼吸している。

その呼吸に、自分のリズムを合わせようとしても、

どうしてもズレてしまう。


あの日から、僕の時間は世界と同じ速度では流れなくなった。

誰かと話しても、

その声が届く前に意味が散ってしまう。

耳ではなく、心が聞く力を失っていた。

でも、それでも――

僕はまだ世界の音を嫌いにはなれなかった。

風の音も、遠くの生活の音も、

どこかで“まだ生きている”ことを知らせてくれるからだ。


昼過ぎになると、光が少しだけ黄みを帯びる。

ノートの上にその色が落ち、

文字の影が濃くなる。

「truth」「solitude」「forgive」。

その言葉を書いたとき、

僕は誰を赦したかったのだろう。

彼女か、自分か、それとも――“世界”か。


時々、ノートを閉じて、窓辺に腰を下ろす。

ガラスに触れると、

冷たさと温かさが同時に指に伝わる。

世界はまだそこにあって、

僕がそれを感じ取れるだけの身体を、

まだ持っているということを教えてくれる。


それでも、外に出ようとは思わなかった。

世界はあまりにも眩しく、

まるで傷口に光を当てられるような痛みがあった。

殻の中にいることが、僕にとっての“呼吸”だった。

息苦しくても、それが僕の安全圏だった。


夜になると、風の音が少し強くなる。

窓がわずかに鳴って、

部屋の空気が微かに震える。

その震えに合わせて、

僕の胸の奥も小さく波打った。

まだ、どこかが動いている。

その感覚が、恐ろしくもあり、

少しだけ救いのようでもあった。


その夜、ノートを閉じるとき、

僕はふと、

「もう一度、人に触れたい」と思った。

それが恋なのか、孤独なのかもわからない。

けれどその思いが、

再び六月の光へと僕を導いていくことだけは、

どこかで知っていた。

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