春の終わりに
四月の風は、どこか静かだった。
桜が散り、街が新しい光を帯びていくころ、
僕の時間だけが、まるで別の速度で流れていた。
三年続いた恋が終わった。
喧嘩もなかった。泣き声もなかった。
ただ、話す言葉が減り、
沈黙のあいだに別れの形ができあがっていった。
最後に会った日の空は、薄い灰色で、
雨が降るでもなく、晴れるでもなく、
何かを待つような中途半端な色をしていた。
その日から、部屋の空気が変わった。
机の上にはノートとペンが並び、
隣には冷めたコーヒー。
以前はそこに、彼女の笑い声があった。
夜になると、部屋が少しだけ広く感じられた。
失うとは、静寂が増えることなのだと思った。
彼女の名前を出すことは、もうやめた。
その名を発音すると、
音の中にまだ温度が残っているようで、
それが痛かった。
僕はただ、“一人分の空間”という形だけを残した。
大学院の試験が近づいていた。
ノートには、意味の断片が並んでいく。
「reason」「belief」「freedom」「necessity」――
それらの単語は、どれも空虚で、
それでもどこか祈りのようだった。
「judgment」「truth」「value」――
どの語も、僕にとっては
“世界とつながるための鍵”のように見えた。
けれど、鍵穴はもう閉ざされていた。
書くという行為だけが、
かろうじて僕を形として保っていた。
世界の秩序が壊れても、文法だけは裏切らない。
その安定の中に、僕は避難していた。
夜になると、ノートの文字がにじんで見えた。
それが涙なのか、疲労なのかもわからなかった。
ただ、世界と自分の境界が少しずつ溶けていくようだった。
四月の終わり、風が少しあたたかくなった。
窓を開けると、湿った空気と土の匂いが流れ込んできた。
その匂いを吸い込みながら、
僕はようやく“季節が変わった”ことを知った。
けれど、心の中の季節はまだ冬のままだった。
恋を失ったあとに残るのは、痛みではなく、空洞だった。
痛みはやがて和らぐ。
けれど空洞は、時間が経つほど深くなる。
僕はその空洞を埋めるように、
一日中、ノートを開いていた。
それでも、誰かの名前を呼びたい夜があった。
声に出さず、心の中でだけ。
その声が誰の名だったのか、自分でもわからなかった。
たぶん、もう誰でもよかったのかもしれない。
“愛されたい”というより、
“誰かと生きたい”という祈りに近かった。
そして、そんな思いが芽生えたこと自体が、
次の六月へ――
あの夜へ――
ゆっくりと僕を導いていたのだと思う。




