朝の光
まぶたの裏に、白い光が滲んでいた。
最初は、それが朝なのかどうかもわからなかった。
目を開けると、薄いカーテンの隙間から、
光が細い糸のように床をなぞっていた。
埃がその中で静かに漂っている。
どれくらい眠っていたのだろう。
時間の感覚はもう壊れてしまっていた。
喉が痛かった。
唇は乾き、舌が自分のものではないように動いた。
机の上には、昨夜のままのノートとペン。
ページの上で滲んだインクが、
眠る直前に考えていたことをかろうじて形にしていた。
「truth」「reason」「value」――
文字が歪み、意味を失いかけている。
けれど、その痕跡だけはまだそこにあった。
ゆっくりと体を起こす。
世界は少し傾いて見えた。
耳鳴りが遠くで鳴っている。
その音が、まだ生きている証のようにも感じられた。
死ねなかった――その事実を、
恐怖としてではなく、現実として受け止めた。
窓を開けると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
街の音が、遠くでかすかに動き始めていた。
鳥の声、車のエンジン、
どれも昨日と同じはずなのに、まるで別の世界の音に聞こえた。
僕はその音の中に、
もう一度世界が呼吸している気配を感じた。
風に混じって、どこかで花の香りがした。
それは、彼女の髪に残っていた香りとよく似ていた。
少し甘くて、少し切ない。
恋人の肩に顔を埋めたときのような匂い。
香りだけが、遠い記憶からふっと立ち上がる。
もういない人のぬくもりを思い出すと、
胸の奥に小さな痛みが走った。
でも、その痛みは、どこか安らかだった。
僕は、愛されることを恐れていた。
――いや、正確に言えば、愛されたいのに、信じることができなかった。
僕は惚れっぽい。
人の笑い方や、声の震え、
ふとした沈黙の仕方に心を持っていかれる。
誰かと手を繋ぐこと、名前を呼び合うこと、
その全部が、生きている証のように感じられる。
けれど、愛されたいと願うほど、
その反対――拒絶や喪失の予感が先に来る。
愛されることは、同時に失うことを意味していた。
だから僕は、手を伸ばす前に扉を閉めてしまう。
傷つく前に、自分を守る。
それは臆病な優しさだったのかもしれない。
それでも、僕は人を愛したい。
自分のことをどうしても愛せないからこそ、
誰かの目の中に、自分の輪郭を見つけたかった。
その目に映る“僕”だけが、
確かに世界の中に存在しているように思えた。
けれど、伸ばした手の先で、
世界はいつも少しだけ遠かった。
机の上のペンを取る。
インクは乾いていたが、
力を込めて押しつけると、紙の上に黒い痕が残った。
「僕がまだここにいる」という事実を、
その線が静かに証明してくれた気がした。
意味なんてなくていい。
文字が続く限り、僕はまだ呼吸している。
窓の外で風が強くなり、
カーテンがゆっくりと膨らんだ。
その向こうの空は、淡い灰色から薄青へと変わっていく。
止まっていた時計の針が、
ひとつ、音を立てて動いた。
カチ、というその音が、
世界の始まりのように響いた。
僕は深く息を吸い込んだ。
肺が焼けるように痛かった。
でもその痛みを、もう恐れなかった。
痛みがあるということは、
まだ“生”が僕の中に残っているということだ。
世界は、僕のいないままでも続く。
けれど今は、その中に、
ほんの少しだけ僕が混ざっている気がした。




