静かな崩壊
六月の夜だった。
風はほとんどなく、部屋の空気は少し湿っていた。
窓の外では、遠くの街灯がぼやけて見えた。
何も特別なことは起こらなかった。
ただ、呼吸をするたびに胸の奥が重く沈み、
世界が少しずつ遠ざかっていくような気がした。
机の上には、英語のノートが開いたままになっていた。
大学院の試験に向けて訳していた一文――
“Reason is the faculty of principles.”
ペン先にはまだ黒いインクが残っている。
書きかけの文の横に、僕の手の跡が乾いていた。
指先の感覚が鈍い。
文字の意味を追っても、単語が音の塊にしか思えない。
「理性」「原理」――そのどちらにも、今の僕は関われそうにない。
窓の向こうから、風鈴の音が聞こえた。
誰かが夏の始まりを待っているのかもしれない。
だが僕の時間は、すでに六月のどこかで止まっていた。
日付も曜日も思い出せない。
ただ、今日が「終わり」に近いという予感だけが、
体の奥でゆっくりと膨らんでいった。
死にたいとは思わなかった。
それは、もっと無音の、もっと色のない感覚だった。
「消えたい」というよりも、「もう続けられない」に近い。
息を吐いても、吸っても、
肺の奥に溜まった空気が外に出ていかない。
自分の体が自分のものではなくなったようだった。
スマートフォンの画面が光っていた。
誰かからのメッセージ。
けれど開かなかった。
言葉を読むことが、もうできなかった。
「大丈夫?」という文字が並んでいるような気がしたが、
確かめることができなかった。
その優しさが、かえって痛みを呼び起こすからだ。
僕は立ち上がって、台所に向かった。
水を飲もうとしたが、
コップを持つ手がわずかに震えていた。
冷たい水が喉を通る感覚だけが、
現実の最後の証のように思えた。
何かを決意したわけではない。
ただ、この静けさの中で、
すべての音が遠のいていくのを見届けたいと思った。
机の隅に置いていた薬の瓶を手に取った。
中身を数えることもなく、
ただ指先で軽く振ると、
乾いた音が一つだけ響いた。
それは僕の中の何かが壊れる音に似ていた。
けれど、その音さえも、すぐに世界の静寂に吸い込まれた。
ベッドに横たわると、
天井の影がゆっくりと揺れていた。
部屋の明かりを消すと、闇が音を奪っていく。
耳の奥で、血の流れる音が聞こえた。
世界のすべてが自分の呼吸に合わせて
膨らんだり、縮んだりしている。
僕は目を閉じた。
何かを思い出そうとしたが、
どの記憶も、途中で映像が切れた。
人の顔、教室の窓、海の匂い――
すべてが薄い膜の向こうにあった。
「これが終わりなのか」
そう呟いたかもしれない。
けれど声は、喉の奥で消えていった。
最後に、光が一度だけ揺れた。
その瞬間、
世界がほんの少しだけ透き通って見えた。
痛みも、恐れも、何もなかった。
ただ、静かに――
すべてが「妥当である」(gültig)ように思えた。
僕がいなくても世界は続く。
だからこそ、この静寂が美しいと感じた。




