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僕がまだここにいるということ  作者: 目田 不識
世界が嘘に見える
19/20

まだ、ここにいる

朝の光が、白い壁をゆっくりと滑り落ちていく。

その光の中に、ほこりが浮かんでいる。

何も起きていないのに、

それだけで少しだけ世界が動いている気がした。


僕はもう、夢を見ることがなくなった。

眠りは深くも浅くもなく、

ただ時間をやり過ごすための装置になっている。

それでも、朝が来るたびに、

「また今日が始まった」と思う。

その感覚が、まだ僕を世界につなぎとめている。


吐き気は、少しずつ弱まった。

胃の奥の痛みは残っているが、

あのどうしようもない嘔吐感は遠のいていった。

代わりに、何も感じない時間が増えた。

悲しみも、怒りも、

すべてが無音のまま流れていく。

まるで、世界の音量を下げたみたいに。


窓の外では、人が笑っている。

通学路を歩く学生たちの声が、かすかに届く。

その声はもう、

遠い国の言葉のように聞こえる。

それでも、完全に聞こえなくなったわけではない。

どこかで、僕の中の“まだ生きたい”という微弱な電流が、

その音に反応しているのが分かる。


夜になると、机に向かう。

ノートを開いて、また何かを書こうとする。

けれど、言葉が出てこない。

考えようとしても、思考が空回りする。

それでも、ペンを持つ。

手を動かすことが、

まだ“僕”を保つための最後の行為だから。


「存在証明」なんてものは、

もはや他人に見せるためのものじゃない。

書くという行為そのものが、

僕のなかで“まだここにいる”という証になっている。


時々、ふとした瞬間に彼女のことを思い出す。

笑う顔も、沈黙も、

最後に握った手の感触も、

もうほとんど霞んでいる。

けれど、彼女の言葉のひとつだけは、

今でもはっきりと覚えている。


――「あなたの香り、好きだった」


その言葉が、

あの夜のすべてを封じ込めていた。

それは幸福の記憶であり、

同時に喪失の匂いでもあった。

あの瞬間の“生”は確かに存在していた。

それを思い出せる限り、

僕はまだ、世界に属している。


街を歩いていると、

風の匂いに季節の変化を感じることがある。

秋の終わり、冬の匂い。

その冷たさの中に、

ほんの少しだけ懐かしさが混じっている。

生きることは、

失われた匂いを探す旅のようだ。


時折、死にたいと思う。

ふとした瞬間に、

このまま眠って、

目を覚まさなければいいと思う。

でも、同時に思う。

“それでも”という言葉が、

なぜか頭の中に浮かぶ。


それでも、

この世界にはまだ色がある。

薄くても、曖昧でも、

確かに光が存在している。

それでも、

痛みを感じる体がある。

心臓が鼓動を打ち、

肺が空気を吸い、

それが僕を“ここ”に留めている。


世界が嘘に見える夜でも、

痛みだけは本物だ。

その痛みが、

僕を現実に縫い止めてくれる。


僕は、まだ壊れていない。

完全には。

ひびの入った器のように、

ぎりぎりの形を保ちながら、

この世界に残っている。


誰もいない部屋の中で、

僕はゆっくりと息を吸い込む。

肺の奥に冷たい空気が入り、

それが血の中に混ざっていくのを感じる。

その瞬間、

かすかに世界が“真実”を取り戻す。


すべてが嘘のように見えても、

この呼吸だけは確かだ。

この痛みだけは、誰のものでもない。

僕がまだ、ここにいるということ。



生きることは、真実を取り戻す作業なのかもしれない。

それがどれほどゆがんでいても、

世界が僕を拒んでも、

僕は今日も息をしている。


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