設計の誤りとしての僕
僕はときどき思う。
もしこの身体が機械のように設計されたものだとしたら、
僕の中のどこかに、致命的な欠陥があるのだろうと。
生きようとすればするほど、
何かが軋み、ずれていく。
眠れば休まるはずの心が、
眠るたびに壊れていくような感覚。
笑おうとしても頬が動かず、
言葉を出そうとしても喉が塞がる。
僕は、設計の誤った存在だ。
意志と感情と肉体が、
それぞれ別の方向に進んでいる。
理性は「生きろ」と命じるのに、
感情は「もうやめよう」と囁く。
身体はその間で引き裂かれ、
どちらにも寄り添えずに立ち尽くしている。
世界が嘘に見えるのは、
たぶん僕の方が壊れているからだ。
正確に言えば、
僕が“真実を受け取る装置”として欠陥を抱えている。
他人の笑顔も、
朝の光も、
愛の言葉も、
すべて歪んで届く。
音がわずかにずれて響くように、
世界は少しずつ、狂って見える。
僕は、人間としての基本設計を間違えた。
共感する能力を持ちながら、
同時に恐れている。
愛されたいと思いながら、
愛される瞬間に逃げ出したくなる。
優しさに触れると、
心が静かに悲鳴を上げる。
なぜだろう。
人の温もりは、
僕にとって“生の証”であると同時に、
“壊れる予告”でもある。
誰かに触れれば、
その分だけ失う恐怖が迫ってくる。
まるで、幸福という構造のなかに、
最初から崩壊のコードが埋め込まれているようだ。
愛も、希望も、理性も、
僕の中ではいつも対立している。
同じ方向を向いたことがない。
それぞれが勝手に動き、
やがて互いを摩耗させて消えていく。
そのたびに、
僕という設計図の線がぼやけていく。
大学で哲学を学んだとき、
カントが言った「理性の自律」を信じたかった。
理性的であること、
義務によって自分を律すること。
それが“人間として正しい在り方”だと思っていた。
でも今の僕には、その理性が重い。
義務はもう、痛みの別名のように感じる。
世界の秩序を理解するよりも、
ただ自分の呼吸を確かめることの方が難しい。
思考と感情のあいだに、
裂け目がある。
その裂け目を埋めようと考えるほど、
深く落ちていく。
考えれば考えるほど、
自分の存在が論理の外に追いやられていく。
ときどき、こう思う。
もし“神”が設計者だとしたら、
僕はその試作品だったのかもしれない。
一度組み立てられ、
動作の不具合を見つけられて、
それでも廃棄されずに放置された機械。
世界の片隅で、
正常に動くふりをしているだけの存在。
だが同時に思う。
この欠陥こそが、
僕を僕たらしめているのかもしれない。
理性のズレ、感情の歪み、身体の脆さ。
それらの不完全な結び目が、
僕という存在の輪郭を描いている。
僕は完全ではない。
でも、欠けているからこそ感じられる痛みがある。
吐き気、孤独、焦燥――
それらは僕がまだ“生きている”ことの証拠だ。
世界が嘘に見えるのは、
もしかすると、
世界ではなく“僕の設計図”が透けて見えているからかもしれない。
僕という構造が、
この現実のなかで正しく適合していない。
そのずれが、世界を歪めて見せている。
それでも、
この不完全な設計のまま、
僕は今日も息をしている。
痛みを抱えたまま、
誤作動を繰り返しながら。
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僕の中の歯車は、もう正確には噛み合わない。
それでも動いているという事実だけが、
僕の“存在”を証明している。




