吐き気と透明な世界
十月の半ばを過ぎたころから、
胃のあたりが重く、鈍い痛みに変わった。
最初は食べすぎかと思っていたが、
やがて吐き気が日常になった。
一日に二度、三度。
何も食べていなくても、胃が反射的に波打った。
吐くと少しだけ楽になる。
けれど、その「楽」は安堵ではなく、
体が現実を外に押し出しているだけのように思えた。
胃の奥で何かが拒絶している。
食べ物ではなく、生きることそのものを。
病院に行くと、医者は淡々と言った。
「ストレスでしょうね」
それで済むものなら、こんなに苦しくはない。
薬を渡されても、
根拠のない安心感しか残らなかった。
夜、吐いたあとに鏡を見た。
青白い顔、乾いた唇、
そのどれもが自分のもののようでいて、
どこか遠い。
目の奥が空洞のように沈んでいて、
「僕」という存在が映っていない気がした。
世界の輪郭がゆるみ始めていた。
窓の外の街灯も、
スマホの画面も、
すべてが一枚の薄い膜に覆われているようだった。
音は遠く、匂いは曖昧で、
空気が身体に触れている感覚さえぼやけていた。
それでも、煙草を吸った。
五月の終わりから吸うようになったこの習慣だけが、
自分の中に残された唯一の“現実”だった。
煙が喉を焼き、肺に沈んでいく感覚で、
かろうじて生の輪郭を掴むことができた。
煙を吐き出すと、
部屋の中にゆっくりと白い靄が広がる。
その揺らめきを見ていると、
自分がどこにいるのかさえ曖昧になっていった。
夜の帳が下りるころ、
机の上のノートをめくった。
「reason」「existence」「truth」「death」。
かつては思索の糸口だったそれらの単語が、
今はただの黒い痕跡として散らばっていた。
思考が働かない。
感情も動かない。
ただ、体の奥から“吐きたい”という衝動だけが残る。
吐くことが、生きることの代わりになっていた。
身体が存在の証拠を求めるように、
何かを外へ押し出そうとしていた。
僕は思う。
この体は、本当に僕のものなのだろうか。
痛みは確かにここにあるのに、
その痛みを感じている“僕”がどこにもいない。
痛みと意識がずれて、
世界の中で同じ場所にいられない。
街に出ても、
人の声が泡のように浮かんでは消えていった。
笑い声が、意味のない音に聞こえる。
みんなが現実の中で動いているのに、
僕だけが別の層に閉じ込められているようだった。
スーパーの棚に並ぶ野菜の色も、
教室の蛍光灯の明かりも、
どこか偽物に見えた。
世界が“演じられている”ような気がして、
息をするたびに胸が冷たくなった。
ある晩、吐き気で目が覚めた。
胃の中は空っぽなのに、
体が何かを必死に外へ出そうとする。
床に手をついて、
呼吸のリズムが乱れるのをただ数えた。
ふと、頭の中に浮かんだ。
――これは、罰なのかもしれない。
愛されたこと、
愛そうとしたこと、
どれも本当ではなかったのかもしれない。
僕が感じていた幸福も、
ただの錯覚だったのではないか。
世界が嘘に見える。
けれど、吐き気だけは本物だ。
体が正直に拒絶している。
僕が作り上げた“現実”の嘘を。
夜が明けかけるころ、
ベランダの外に薄い光が見えた。
朝日が上ると同時に、
空の青さが痛みに変わった。
世界が再び動き出す音が、耳の奥に響いた。
その音が、
まるで僕を置き去りにしていくように思えた。
僕だけが、
まだ夜の中に取り残されていた。
⸻
吐き気は、世界と僕をつなぐ最後の線だった。
それがある限り、僕はまだ“生きている”と信じられた。




