11月の夜
十一月のはじめ、空気は急に冷たくなった。
昼間の陽射しはまだやわらかいのに、夜の風にはもう冬の匂いが混じっていた。
その日、僕たちは映画を観に行く約束をした。
待ち合わせの場所に彼女が現れたとき、
コートの襟に触れる指先が少し震えていた。
その仕草さえも、どこか儚く見えて、
僕は胸の奥がひどく静かになった。
映画の内容は、たぶん覚えていない。
暗い劇場の中で、隣に彼女が座っているという事実だけが、
現実よりも鮮明だった。
スクリーンの光が彼女の頬を照らすたび、
その横顔を見ないようにしては、また見てしまった。
上映が終わり、館内が明るくなると、
まるで夢から引き戻されたような感覚に襲われた。
外に出ると、冷たい空気が頬を刺した。
それでも、彼女は笑って言った。
「もうちょっとだけ、歩きませんか?」
僕たちはショッピングモールを歩き、
何気ないものを見ては笑った。
どの瞬間も、特別なことは何も起こらなかった。
それなのに、世界の重さが少しだけ軽くなったような気がした。
夜、居酒屋でお酒を飲んだ。
彼女はあまり強くなかったが、ゆっくりとグラスを傾けた。
アルコールが入ると、言葉の距離が少しだけ縮まる。
彼女の話す言葉の一つひとつに、
僕は注意深く耳を傾けた。
終電を逃したのは、たぶん偶然だった。
店を出ると、夜風が一層冷たくなっていた。
「どうしよう」と彼女が言い、僕は笑って「歩こうか」と答えた。
街灯の下、舗道を照らす光がぼんやりと揺れていた。
途中の公園で立ち止まった。
ベンチの金属が冷たく、息が白くなった。
遠くで犬の鳴き声がして、空には雲ひとつなかった。
「寒いですね」と僕が言うと、彼女はうなずいた。
そのとき、
僕の心の中で、何かがゆっくりとほどけていった。
ずっと閉じていた扉が、
静かに開きかけるような感覚だった。
僕は言葉を選びながら、
それでももう抑えられずに、口を開いた。
「好きです」
声に出した瞬間、
世界がほんの少しだけ静止したように思えた。
彼女は驚いた顔をして、それから目を伏せた。
「ありがとう」と小さく言って、しばらく沈黙が続いた。
返事はなかった。
でも、それでいいと思った。
夜の空気の中に、
まだ温もりの残る言葉が漂っていた。
歩き出すと、冷たい風が頬を撫でた。
街の灯りが遠くにぼんやり揺れて、
二人の影だけが地面に寄り添うように伸びていた。
「寒いですね」
彼女がもう一度そう言った。
僕は頷いて、「うち、近いから。少し温まっていきませんか」と言った。
一瞬のためらいのあと、彼女は静かに頷いた。
部屋に戻ると、外よりも少しだけ暖かかった。
湯気の立つマグカップを手に取りながら、
僕たちはまた、取りとめのない話をした。
恋愛と哲学、幸福と孤独、
どれも答えのない話ばかりだった。
時計の針は気づけば夜明けを指していた。
東の空が少しずつ明るくなり、
部屋の中に薄い光が流れ込む。
その光の中で、彼女はふと立ち上がり、
「そろそろ帰ろうかな」と言った。
僕はその言葉を、
どこか遠くの出来事のように聞いた。
まだ帰ってほしくなかった。
「もう少しいて」と、思わず口にしていた。
彼女は少し考えるように僕を見て、
ゆっくりとベッドに横になった。
僕は「下で寝るよ」と言ったが、
「いいよ、一緒に寝よう」と彼女は言った。
その瞬間、
胸の奥に広がったものを、
うまく言葉にすることができなかった。
嬉しさとも恐れとも違う、
ただ静かに世界がひとつになったような感覚だった。
夜と朝の境界の中で、
僕たちはひとつの温度を共有した。
それは愛というにはあまりに儚く、
けれど確かに“生きていた”という証拠のように思えた。
昼の光がカーテンの隙間から差し込むころ、
彼女は「ありがとう」と言い、
僕の部屋を出て行った。
ドアが閉まる音がして、
世界が再びひとりの世界に戻った。
残された空気の中には、
彼女の香りがまだ微かに残っていた。
それは甘くて、静かで、
どこか痛みを伴う記憶のようだった。
⸻
あの夜の温度は、まだ僕の中で消えていない。
それが愛だったのか、それとも錯覚だったのか、
もう確かめる術はないままに。




