午前の光の下で
朝、目を覚ましたとき、世界はまだそこにあった。
しかし、それは昨日までの世界とはどこか違っていた。
窓から差し込む光はいつもより白く、
壁の色も、机の影も、わずかに濁って見えた。
現実が微妙にずれている。
そんな錯覚の中で、僕はしばらく呼吸の仕方を思い出せなかった。
天井を見上げると、視界の端がにじんでいた。
涙ではない。
ただ、意識の底で何かが微かに震えている。
夜の記憶は断片的だった。
飲み込んだ薬の数も、倒れた時間も曖昧で、
確かなのは「目を覚ましてしまった」という事実だけだった。
枕元のコップには、飲み残した水が半分ほど残っていた。
その透明さが妙に腹立たしかった。
何も混ざっていない。何も濁っていない。
それなのに、自分の身体だけが異物のように思えた。
ゆっくりと上半身を起こす。
喉の奥が焼けるように痛い。
胃のあたりが重く、呼吸をするたびに鈍い痛みが波のように押し寄せた。
ベッドの端に座り、足を床につける。
冷たい感触が皮膚を刺した。
ああ、まだ生きている――
その事実が、痛みのように伝わってきた。
机の上には、昨夜開いたままのノートがあった。
英単語がいくつも並んでいる。
「exist」「vanish」「remain」――
同じ単語が何度も書かれている。
それは勉強というより、呪文のようだった。
何かを覚えようとしていたのではなく、
何かを“繋ぎ止めよう”としていたのだと思う。
ペンのインクがかすれた場所には、
思考が途切れた時間の跡があった。
まるで生と死の境界線をなぞるように、
言葉が不規則に並んでいた。
窓の外では鳥の声がしていた。
その音が遠く、透明で、どこか現実味がなかった。
耳を澄ますほどに、世界の方が遠のいていくようだった。
僕は立ち上がり、カーテンを開けた。
初夏の光が一気に部屋に流れ込む。
白すぎる光。
それが網膜を焼くように刺さった。
世界がまるで無数の粒に分解されて、
僕を通り抜けていくようだった。
その中でふと、自分の手を見つめた。
細い血管が浮き、皮膚の下で脈が打っている。
それは、機械のように正確なリズムで続いていた。
僕の意志とは関係なく、生は進行している。
「生きる」という行為が、
こんなにも受動的なものだったのかと思う。
冷蔵庫を開けても、何も食べる気がしなかった。
パンの袋を握りしめたまま、
いつの間にか涙がこぼれていた。
悲しいからではなく、
ただ「動作」として溢れ出しただけの涙。
それでも、その涙が頬を伝う感覚に、
ほんの少しだけ安心した。
昼近くになって、部屋の空気が温んできた。
僕は窓を開け放ち、
遠くで鳴る救急車のサイレンに耳を傾けた。
それは昨日の自分を迎えに来た音のように聞こえた。
でも今の僕には、その音をただ“遠くの出来事”として聞く余裕があった。
世界は動いている。
僕が止まっていても、時間は進む。
それがどうしようもなく不公平で、
それでもありがたかった。
机のノートに視線を戻す。
余白の下に、
震える字でこう書かれていた。
――「まだここにいる」。
それは昨夜の僕の字だった。
意識が朦朧とする中で書いたのだろう。
「いる」という言葉が、少し歪んで滲んでいる。
だが、その歪みこそが、
今の僕を繋ぎ止めているように思えた。
僕は深く息を吸い込んだ。
肺に入る空気が冷たくて、
その冷たさに身体が反応した。
生きているということは、
こうして“反応”を続けることなのかもしれない。
カーテンの隙間から射す光が、
部屋の壁をゆっくりと移動していく。
それを眺めながら、
僕はぼんやりと時間の流れを感じた。
時計の針は確かに動いている。
その音が、
微かに胸の奥をくすぐった。
夕方、空が少しだけ赤く染まり始めた。
窓の外を歩く人々の声が、
ぼんやりと耳に届く。
そのすべてが、自分のいない世界の出来事のようで、
それでも確かに“現実”だった。
僕は机のノートを閉じ、
深く息を吐いた。
死にきれなかったことを、
今さら後悔する気にはなれなかった。
むしろ、その不完全さが、
わずかな温度となって胸の奥に残っていた。
――もう少しだけ、
この世界を見ていよう。
それは決意ではなかった。
ただ、消えそこねた自分が、
微かな声でそう呟いたにすぎない。




