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プロローグ

僕がまだここにいるということ。

それが何を意味するのか、うまく言葉にできない。

生き延びたことを証明したいわけでも、死ななかった理由を探したいわけでもない。

ただ、いつからか――世界の色が少しずつ薄れていった。


赤はくすみ、青は灰に近づき、音は距離を失って遠ざかっていった。

言葉が意味を失ったのではない。

その前に、世界が僕から意味を奪っていったのだ。


殻に籠ったのがいつからなのか、僕にはわからない。

六月の夜のあとだったのか、二年前の躁と鬱の往復のなかでだったのか、

それとももっと前――まだ僕が“俺”だった頃かもしれない。


“俺”は、生き延びるための言葉だった。

強がりと虚勢のあいだに作られた仮の名前。

友人の前ではそれを使い、教師の前では“自分”と名乗った。

けれど、どちらの言葉も僕を守りきれなかった。


“僕”は、その後に残った。

それは最初からあったわけじゃない。

壊れた日々の残骸の中から、かすかな声のように立ち上がった。


だから、これは“俺”ではなく、“僕”が書いている。

書くという行為の中でしか、僕は僕になれない。

まだ輪郭は曖昧で、時折“俺”がその影を横切っていくけれど、

それでも僕は、この言葉たちを通して、

“ここにいる”という事実を、もう一度確かめようとしている。


世界の色は、少しずつ戻り始めている。

それが希望なのか、それとも錯覚なのかは、まだわからない。

けれど、今はただ――この「僕」が、確かにここにいる。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


僕は新しい世界に放り込まれたような気がする。

昨日と同じ部屋にいるはずなのに、あらゆるものが微妙に違って見える。

まるで、誰かが僕の記憶を数分前に書き換えたかのようだ。

時計の針も、ノートの罫線も、わずかに歪んでいる。


机の上には、大学院の英語試験に向けて書き散らしたノートが開いている。

ぐちゃぐちゃに引かれた下線、不完全な訳、訂正の跡。

「reason」「validity」「truth」――その単語たちは、意味よりも痕跡のように並んでいる。

ペンのインクがかすれた場所には、考えが途切れた瞬間がそのまま残っていた。


かつて“俺”は、こうしたノートの隙間を埋めようと必死だった。

何かに追われるような焦燥感。

期待に応えなければならないという圧力。

自分が賢く、強く、正しく見えなければならないという思い込み。

嫌なことも飲み込み、成果という名の鎧を身につけて歩いていた。


けれど今の僕は、その鎧をもう着られない。

いや、着ようとしても身体が拒んでしまう。

理解したり、分析したりするよりも、

ただ“感じ取る”だけで精一杯なのだ。


感じ取ること――それはかつての“俺”が最も軽視していた営みだ。

しかし今の僕には、それしか残っていない。

目に映る色、手のひらの温度、呼吸の音。

それらがようやく、世界と僕をつなぐ細い糸のように思える。


秋の朝の空気は、澄んでいて、少し冷たい。

遠くの空で鳥が鳴き、木々の葉が乾いた音を立てて風に揺れる。

その匂いの中に、どこか甘い香りが混じっていた。

それはついこの間まで、僕の隣を歩いていた誰かの香りに似ていた。


少し甘くて、少し切ない。

手をつないで歩いた帰り道のような匂いだった。

髪に残る香水の香りか、それとも彼女が好んでいた柔軟剤の匂いか――もう確かめることはできない。

けれどその香りが風に紛れて届くたび、

僕の中で、色を失っていた世界が一瞬だけ明るくなる。


恋愛は、僕の大学生活には欠かせないものだった。

それは、孤独の中で唯一「僕」を世界に結びつけてくれる糸のようだった。

一緒に過ごした時間よりも、

その人と共有した“感覚”の方が今も鮮明に残っている。


たとえば、秋の午後の光。

彼女が笑いながら目を細めるとき、頬にできた小さな影。

それらの記憶が、まるで香りのように胸の奥で息づいている。


だからこそ、世界の色を失った今も、

その匂いを嗅ぐと、ほんの少しだけ“生”を取り戻せる気がする。

恋というものが幻であっても、

その幻を通してしか僕は世界を感じられないのだ。


その瞬間、胸の奥で小さな痛みが跳ねた。

僕はそれを、懐かしさと呼ぶべきか、恐れと呼ぶべきか迷う。

けれど確かなのは、その痛みこそが、

まだ僕が世界に属している証拠だということだ。


僕という存在は、一つの線ではない。

デデキントが切断で数を定義したように、

ライプニッツが連続の中に無限の点を見たように、

僕もまた、断片の集合としてしか存在できない。

記憶の欠片、言葉の残響、痛みの断層――

それらが擦れ合い、偶然に形を成している。


だから、僕は書く。

文字の列が、途切れながらも続いていくように。

不完全でも、断片でも、

この世界のどこかに僕がまだいるという事実を、

書くことで確かめていたいのだ。

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