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耳鼻科を出ると、知ってる顔にぶつかって、『げ』と思った。
ひとりで今後のことを考えたかった。
それまでは、誰にもこのことを知られたくなかった。
「〜〜〜」
話しかけてくるけど、さっき電話で話した時と同じように、さっぱり聞き取れない。
というか、こいつは私を待ち伏せしていたのだろうか。どうして私が耳鼻科にいることが分かったのだろう。
あの電話で私の耳の聞こえを疑ったのだとしたら、そこまで馬鹿ではないのかもしれない。
アオイは、犬みたいな奴だ。
去年うちのラボに入ってきて、なぜか私に懐いた。
基本的には鬱陶しいのだけど、何でも雑用を引き受けてくれるから、私もつい、いろいろと頼んでしまう。
私がひと言も喋っていないにも拘らず、アオイは喋り続けている。
この場を適当に切り抜けるのは難しそうだ。
そう思って、仕方なく、さっきスマホに入れた文字起こしアプリを立ち上げた。
「ねえ」
アオイに、スマホの画面を突きつけた。
「何でか分かんないけど、私いま、人の話が聞き取れないの。私に用があるなら、これに向かって喋って」
そう言ったら、アオイは一瞬虚をつかれたように目を見開いたあと、ニヤリと笑って何かを呟いた。
スマホの画面を見ると、
『強かですよね、橋本さんって』
と入力されていた。
馬鹿にしてるのかと思って怒ろうとしたけど、アオイは私のスマホを持つ手をグイッと引き寄せて、また何やら喋った。
『それじゃ不便でしょ。買い物とか付き合いますよ。ちょっと待っててください』
「いや、別にいいーー」
私が画面から目を上げて断ろうとした時には、アオイは既にこちらに背を向けていて、スマホを耳に当てたところだった。
アオイが私から2、3歩遠ざかったから、文字起こしアプリが反応しない。
近づいていって盗み聞きするのも憚られて、かといって勝手に帰ることもできなくて、その通話が終わるのを待った。