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亜希は、昼前に研究室に来た。
いつもは9時過ぎに来るから、3時間近くの遅刻だ。
俺のキスがそんなに嫌だったのだろうか。
午前中はそればかり考えて、実験が手につかなかった。
ただ、来たからと言って、声をかけるわけにはいかない。
それとなく様子を窺うと、亜希は物思いに耽っているようだった。
昼を過ぎてしばらく経った頃、俺が食堂に行くために廊下に出ると、すぐ前を、亜希と准教授の恭子さんが歩いていた。
彼女らも今から昼食だろう。
ラボに女が少ないこともあって、亜希と恭子さんは親しく、よく一緒に食堂で昼食を取っている。
普段は昼前に出て行くのを見かけるけど、今日は亜希が遅刻したから、俺が食堂に行く時間と被ったのだろう。
そう考えて、研究室に戻りかけた。
亜希が俺の声を聞いてしまうリスクを増やしたくないし、俺の顔を見て嫌な気持ちになることを恐れたのだ。
でも、踵を返そうとした時、亜希が不自然に飛び退くのが見えた。
何事かと思って彼女の視線を辿ると、前方からアオイが歩いてくるところだった。
亜希は、明らかに怯えているようだった。
恭子さんは、不思議そうにしながらも先に歩いて行った。
「どうしたんですか?」
アオイは、戸惑ったように、薄く笑いを含んだ声で亜希に話しかけた。
そこで彼女が聞こえないことを思い出したのか、尻ポケットからスマホを取り出している。
アオイがスマホを操作している間、亜希は逃げ場を探すように周囲を見渡して、後ろに立っている俺に気づくと、ますます怯えた顔をした。
「ああ、真野さん」
アオイもこちらに気づいて、声をかけてきた。
「あ、勘違いしないでくださいね。俺、橋本さんに体調を聞こうとしただけッスよ。ほら、今日、来るの遅かったから」
冤罪だと言わんばかりに、両手を上にあげている。
俺は何も言い返せない。
ここで声を発したら、亜希を興奮状態にさせてしまう。
彼女も、俺が困っているのに気づいたのか、
「ごめん、恭子さんが待ってるから」
とアオイに告げて、廊下を駆けて行った。
何だ?
一体何があったんだ。




