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「知らなかったんです」
俺の胸の中で、亜希は震える声で言った。
「戸塚さんの名前も、祖母が戸塚さんから慰謝料をもらっていたことも、自分が入った大学の理事長だってことも」
慰謝料ーー。
そうか、それで爺さんから慰謝料をもらっていたのか。
これは、亜希が頑なに言わなかった真相だ。
「私がこの大学に入って真野さんのいるラボに入ったのは、戸越さんの遺産目当てじゃありません。私はただ、母のような人を救うために、聴覚の研究がしたくてーー」
これ以上、聞きたくない。
最後まで聞いたら、ここにいる理由がなくなる。
本当のことを話せば解放すると、俺は約束した。
そんな浅ましいことを考えながらも、亜希が話すのを止めることはできない。
「去年、祖母が亡くなって、遺品を整理していたら、私宛の手紙が出て来ました。それを読んで初めて戸塚さんのことを知りました。
ショックだったけど、母に何があったのか知りたくて、戸塚さんの入院先を訪ねたんです」
俺が亜希を目撃したのはその時だったのだろう。
思えば、亜希はあの時、思い詰めた表情をしていた。
「戸越さんは何も教えてくれませんでした。ただ、謝るだけで。母は私のことを愛してたのだと、そう繰り返すだけで。
私の知ってる理事長時代の堂々とした戸塚さんとは全然違って、見るからに弱ってて。それ以上は聞けませんでした」
そこまで喋って、亜希は深く息をついた。
「これが、私が知ってる全部です」
俺の胸にそっと手を当てて、見上げてくる。
「やっと、真野さんに言えた」
やっぱり、俺が言ったことを覚えていて打ち明けたのだ。




