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この星には大気を汚す文明が備わっていないせいか、吸い込んだ空気は驚くほどに美味しい。田舎の空気、なんて目じゃない。普段、汚れた空気を取り込んでいる身体が、一瞬にして洗練された気さえする。
広がる景色は一面の緑豊かな大地。小鳥の囀りや風で揺れる木々の音が聞こえるくらいで、都会の喧騒とは程遠い静寂が広がっていた。
あああ。
何だか、産まれてきてすみませんでしたと謝りたい。私の吐く息ですら、この世界を汚してしまいそうだ。こんな俗物に塗れた私が居るべき場所ではないのだ!
木村さん、早く帰って来て!そして私を、あの汚れた俗世に帰して!
私は地面に跪ずき…いや、膝を抱え込むように突っ伏して言葉にならないうめき声を上げた。
「お前はさっきから何をしているのだ」
「己の罪に苛まれているのですよ!」
「…そうか」
ラグラスは理解不能とばかりに、腫れ物に触れるような声音でそう言った。君もこの自然に感謝するといい!と思ったが、これが日常にあるのなら、そんな気も起きないだろう。
ああ、でも。
そうして地球も汚れていったんだよなぁ。
「ねぇラグラス」
名を呼ぶと、短い金髪を風に靡かせて彼は振り返った。太陽が落とす光がキラキラと彼の金髪を輝かせており、室内で見るよりずっと綺麗だ。
ほんと、ケチの付けようがない美形で嫌になる…
「ラグラスは仕事しなくていいの?」
「ああ…」
彼はそう言ってごろりと寝転がった。
「…ニート」
「は?」
「えーと、いやなんでも」
「そのような物言いたげな顔をして否定をするな」
「やーほら、えっと…色々聞いても良いかなーと思ったんだけど」
彼は胡散臭そうにこちらをじっと見据え、まあいい、と嘆息した。
「何が聞きたい」
「この世界について。昨日は半分以上聞き流しちゃったから」
「半分以上…」
呆れ果てた、と彼は呟く。
そりゃあまぁ、悪いかなぁと思ったのだけど、夢オチだろうと半分以上は思っていたし、何となく直ぐに帰れると思っていたから。
基本、前向きな私。
今朝、生理的欲求が満たされると、頭は随分とクリアーになり、疑問やら好奇心やらがむくむくと芽生えた。
こんな経験、もう二度とないだろう。
「えっと。まず、ラグラスは何してる人?里帰りって木村さん言ってたけど、ラグラスの自宅はここじゃないって事だよね」
おっちゃんとただならぬ関係だとしても、仕事を何もしないというのはちょっとどういう身分だと突っ込みたくなる。囲われた愛人か?
地球ではニートで通っても、こういう原始的な世界でニートがまかり通るとは思えなかった。貴族の御子息だとしても、剣の稽古とか、そういうものがあるんじゃないのだろうか。
ラグラスは眉根を寄せて綺麗な顔を歪める。
「修業中だ」
「なんの?」
「…この世の理について」
「何か壮大過ぎて釈然としないんだけど」
「納得しておけ」
「家は?」
「ここではない」
さあこれで終いだ、と彼は言った。よっぽど言いたくないらしい。
うーん。これ以上粘って機嫌を損ねてもまずいし、これは隙を見て木村さんに聞いてみよう。
「じゃあ次。この国は平和みたいだけど、他の国はどうなの?」
「この山脈を越えた裾野にバキア国とニゲラ国があるが、この二国は常に国境を争っておる。ここ数年は睨み合いが続いているが、賢王と名高いバキア国王が老齢だからな。代替えで戦が起こるだろう」
「ふぅん…他には?」
「……ロベリア国という軍事国家がある。ニゲラ国海岸沿いだ」
「軍事国家?」
「そうだ。他の国にはない、火器を使用し…圧倒的な武力を持っている」
「ちょっと待って。火器って…銃とかってこと?」
「ああ」
ちょっと待て。
この星にはそんな文明があるのか?というかその国だけ持ってるって…
「まさか木村さんが伝授した、とか言う?」
「そのまさかだ」
「ちょおおおお!」
駄目だ!そりゃ駄目だよ木村さん!
こんな美しい星に、簡単に血を流す武器なんて持ち込んじゃ!
「何考えてんの?!」
「己の欲望しか考えておらんな、あれは」
うううう。否定出来ないのが残念だ。
「その国はここには攻めて来ないの?」
「ルピナスから距離があるからな。しばらくは、その心配はないだろう。アレが余計な知恵を与えねば」
「まさしく元凶ですねぇ」
ラグラスが毛嫌いする理由がもう一つ理解出来た。木村さんのせいでこの星に争いが増えたのだ。
後でとっちめて、理由を聞き出してやる。
「平和って素晴らしいね…」
地球でも、今現在もどこかで内戦は続いている。平和とは言い難い世界だけど、日本はいたって平和なもんだ。
死体が当たり前に転がっているような日常は経験した事がない。幸せなことだと思う。
「お前の国はそんなに平和か」
「そうだね。そりゃ貧富の差はあるけど、概ね平和ですよ」
「そうか…」
その後に言葉は続かなかったが、彼の表情はどこか淋しそうに見えた。
「…殿下」
「煩い。帰らぬと言っておろうが」
あの後、何となく質問も出来ない雰囲気になり、庭でごろごろとしていたらうっかり眠ってしまっていた。
ぼそぼそと話し声が聞こえて来て、目を覚ましたのだが、怖いくらい冷たい声音に起き上がる事も出来ない。
四十は過ぎただろうと思われる、渋い男の声。切羽詰まった真剣な声は、辛抱強くラグラスを口説き続けていた。
「お願いします。陛下ももう長くはございません。殿下にお戻り頂かないと、国は指導者を失います」
「くどい!帰らぬと言ったら帰らぬ!」
声を張り上げてからまずいと思ったのだろう。こちらに視線を向けた気配がしたので、私は必死に寝たふりを続けた。は、鼻がぴくぴくする…
「陛下の跡を受け継げるのは、アベル様しかおりません」
「帰れ」
それははっきりとした拒絶。
男はまた参ります、とだけ残して、静かに草を蹴って行った。
「起きているのだろう」
ばれてる。
物凄く気まずいが、起きるしかないだろう。ゆっくりと身体を起こすと、彼はぞっとする程冷ややかな眼差しで男の背を眺めていた。
「…えっと…王子様?」
「ああ」
「さっき言ってた、王様が亡くなりそうだっていう国の?」
「いや。そうだったらどんなに良かっただろうな」
彼の声は怖いくらいに冷たく、暖かい陽射しの下に居るというのに背筋が凍る程に寒気を感じる。
「俺は、ロベリア国の後継者だ」
軍事国家。木村さんが火器を、知識を与えた国。
ラグラスが彼女を嫌う最大の理由が分かった気がした。
何とも言えない、気まずい沈黙が続いた後、彼はゆっくりと立ち上がった。い、息が詰まるかと思った。ただでさえ、沈黙苦手なのに。
「屋敷を案内しよう」
「あ、うん」
差し出された手を掴むと、力強く引き上げられた。
「……何をしている」
「よしよし」
「…お前の国では、こういう事を平気でやるのか」
「え、ううん」
アメリカじゃあるまいし。
引き上げられた手の先を辿るように見上げてみれば、伏された長い睫と揺れる双眸が捨てられた子犬のように見えたラグラス。
思わずぎゅっと抱きしめてしまった。残念ながら、私の頭のてっぺんはラグラスの顎下ぐらいなので、抱きしめてあげるというよりは、抱き着いているだけなのだが。
何とか届いた後頭部を優しく撫でてやる。さらっさらの金髪は指の間を滑るように落ちてゆく。
な、何と素晴らしい触り心地!実家のわんこが美容室に行った後のようだ。
「誤解されぬようにな」
「え?なに?」
「何でもない」
「ん?まあいいや。元気出そうね」
「お前と居ると、全てが馬鹿馬鹿しくなってくるな」
「何故かよく言われる」
ほんと、なんでかさっぱり分かんないんだけどね。