5-2
「あいちゃん!」
「ぎゃあああ!出たぁ!」
実家まで後数分。幼い頃に遊び馴れた近所の公園前で、出会ってはいけない物体Xと遭遇してしまった私は絶叫した。小さな子供を遊ばせていた奥様集団が危機を感じて子供の身を確保に走っている。えーっと、申し訳ありません。
「そんな害虫でも出たかのように…」
私と変わらない、男性にしては小柄で細身の身体を竦めれば、Xは更に小柄に見える。
何だか可哀相だからと仏心を出してはいけない。こいつは、こういう仕種が自分の魅力を如何に発揮し、人を手管する術を知っているのだ。
「害虫以外の何者でもあるもんか!帰れ!家に帰れ!」
「僕をストーカーみたいに言うの?」
「ストーカーより質が悪いっ。父さん味方に付けたって無駄だって、いい加減気付きなさいよね。ほんっっっと質悪い!」
うちの家長は建前父親だが、実は、もなにも、一番の権力者は母親だ。誰も逆らう事が出来ないのを親しい人間なら誰もが知っている。
こいつがその母親ではなく父親に取り入っている理由はただ一つ。父親と一緒になって、私に近付く異性を排除するためだ。
私が嫁に行くのを絶対許さないと言っている父親だが(産まれた時からどころか、性別が分かった時から言っていたらしい。流石の私もドン引きしたわ、と母さんは言っていた。私も勿論ドン引いた)この害虫のことは認めている。婿養子に入って、実家から出ないと約束しているからだ。こちらの気持ちも都合も考えず、勝手な男どもだ。
「っていうか、どうして私が帰ること知ってるのよ!盗聴でもした訳?!」
私が声を荒げると、遠巻きに様子を窺っていた奥様集団が、ストーカー?ストーカー?通報する?と囁き合う声が聞こえてきた。まずい、騒ぎ過ぎた。
「違うよ!おばさんから聞いたんだ。あいちゃんが美人の彼氏を連れてくるから、いい加減諦めろって…」
母さんか…!
「でも、僕……」
しゅんとうなだれた彼は、大きな双眸を潤ませて上目使いにこちらを見遣る。まさに愛してくれと訴える子犬。
普通の女の子なら母性を擽られきゅんきゅんしそうな仕種だが(こいつの場合、男も手玉に取る。恐ろしい子!)私には産まれた時から備わっている強力ワクチンがあるのだ。
ふん、と鼻を鳴らすと、ばしっと脳天にチョップをかましてやる。
「あんたと結婚することも無ければ、付き合うことも無い。絶対に、何が起きても、死んでもない」
「あいちゃあぁん」
欝陶しく、私の腕に縋り付こうとした彼を、誰かの手がひょい掴んで投げた。ずべし、と崩れ落ちた彼を痛そうだなぁと見下ろす。
強烈な登場でラグラスの存在をすっかり忘れてた。
「何なのだ、これは」
綺麗な顔をちょっとだけ引き攣らせ、ラグラスは彼を見下ろしていた。何だか汚いものを見るような目つきなのは、まあ、これ相手なら仕方ないと思う。
「従兄弟の健太郎」
「は?」
怪訝に歪められた美貌は、何度か私と彼の間で視線をさ迷わせると、うむ、と低く唸った。
健太郎は予想を超えるラグラスの美人っぷりに呆然としているといったところか。
「確かに、よく似ている」
男のこれと似ていると言われるのは複雑だが、私が父親似だから仕方ないのだろう。似ていると言ったラグラス自身もどこか複雑そうなのは何故だ。
「健太郎の父親とうちの父親、双子なの」
「ほう」
「私も健太郎も父親似だから、似てて当然というか」
「桂殿は似ておらぬが、母上似か」
「そうね。そっくりってほどでもないけど、基本母さんに似てる。ラグラスはお父さん似だっけ?」
「ああ」
お姉さんもそうだよなぁ。いやぁ、やはりこの美貌は女性のものであるべきだ。勿体ないラグラス。残念ラグラス。
しみじみと残念がっているとむにぃと頬を摘まれた。
「何やら失礼な事を考えておるだろう」
「んひゃここなひ」
何で分かるんだ!エスパーかっ!
ラグラスの能力は底知れないというか、王族ならではらしい読心術が恐ろしい。
「あいちゃんに酷いことするな!」
ラグラスの腕を払おうと飛び掛かった健太郎を、彼は私の身体を抱き込む事で避けた。
すかっという音がしそうなくらい空を切った健太郎はそのまま地面に突っ伏してしまう。痛い…これは痛いぞ。
「あいちゃん…」
「そんな眼で見るなっ」
顔を上げた健太郎は可愛い顔を泥だらけにしてこちらを恨めしげに見詰める。だから、そんな捨て犬視線をしても無駄だから!
抱き込まれたままに冷ややかな視線を落としていると、健太郎はわぁっと大袈裟な鳴き声を上げた。
「あいちゃん…そんな顔だけ男が良いだなんて……!」
「いや、別に良いとかじゃなくて」
「酷い!僕はずっとあいちゃんしか見てないのに!」
「違う女の子と歩いてるのを五回は見たけど?」
「それは、あの、ほら、ね?」
「どの娘も私によく似てたらしいね?」
「それはほのの」
何だほののって。じっとりとした視線を落としたまま、私はきっぱりとした口調で言ってやる。
「この、変態」
「違うんだぁああああ!」
爽やかな土曜の午前。
健太郎の泣き叫ぶ声が公園に響き渡る。それを指差す子供に、見てはいけません!と子供の両目を隠す奥様方。
通報されないうちに帰れよ、と言い残し、私とラグラスはその場を後にした。
「何だったのだ、あれは」
騒ぎ疲れた私たち(正確には私だけ)は近所のコンビニで飲み物を買い、その裏にあるこじんまりとした神社の境内で休んでいた。
空気は冷えるが風は吹いてこない。
火傷しそうなくらいに熱い缶のカフェオレをちょっとずつ口にしていたラグラスは、今更ながらに当然な問いを投げた。
「単なる馬鹿。私と結婚するとか豪語しておいて、他の女の子と付き合えちゃうような馬鹿」
あいつがどことなく私に似た彼女を連れているのに何度遭遇したか…それだけではなく、その光景を見た友人知人に『あんた彼氏出来たんだ』なんて迷惑な勘違いを何度されたか。
別にそれで傷付いた事などはっきり言ってない。
気持ち悪いと思う程度だ。
だが、殺意さえ覚えた事が一度だけある。
それは忘れもしない。あいつの家に家族で遊びに行った中三の夏。あいつの部屋で、私によく似た女優が出演しているAVを発見した時だ。しかも同じ女優のばかり六本も。
(多分、出てるやつ全部だったのだろう)
私はDVDをばっきり折ってやろうとしたが怒りに震えて力が入らず、代わりに長兄の大くんがばっきりとやってくれた。桂くんは残骸を笑顔で不燃物に放り込み、健太郎も粗大ごみ扱いで放り出したっけな。
今となってはしょっぱい思い出だけど、思春期の私には相当な打撃を与えた。それ以来、健太郎は害虫扱いである。
「アイも迷惑な血縁者を持ったのだな…」
「そうだねぇ」
何か同情されてる。
この場合、君は健太郎に嫉妬とかすべきなんじゃないかな?とか思ったけど、されても困るし何と言っても馬鹿馬鹿しい。
実家に着く前からこれじゃ先が思いやられるよ。
私たちは、同時に深く息を吐いた。