5-1
「うお?」
ディスプレイに表示された珍しい文字に、私は一人声を上げた。
こちらから掛けることはあっても、掛かってくる事はほとんどない。何事だろうか。
「もしもし?」
「元気?風邪ひいてない?」
「うん、元気だよ」
「もう冬休み入ったのよね?いつ戻って来るの?」
「えーっと、週末までバイトが入ってるから、来週かな」
こんな事を気にするのは珍しいなぁ。私は首を傾げてテーブルに置いてある手帳を開いた。
週末にはバイトと--面倒だけど、わがまま王子に逢いにいかなくてはいけない。行かないとこっちに来て、更に面倒な事になるので仕方ない。
「じゃあ」
妙に勿体振って間を取って、言葉を続けないことにも首を傾げる。ずばっと物を言う普段の素振りからは考えられない。
「綺麗な彼氏も、勿論一緒よね?」
その言葉に私はあんぐりと口を開き、勢い良くローテーブルに額を打ち付ける。
力の抜けた指から滑り落ちた携帯がごとりと音を立てた。
長い、長い間、私は気を失っていた--のなら良かったのだけど。
残念な事に意識はしっかりと床に落とした携帯に向かっており、だらだらと流れる冷汗を何とか拭った。落とした衝撃で通話が切れたら、むしろ携帯が壊れたら良かったのに、私の名を呼ぶ聞き慣れた声が響いている。
覚悟を決めて携帯を拾い上げると息を吐いた。
「あい?!」
「はい!なんでしょう母さん!」
「凄い音がしたけど、どうしたのよ」
「ちょっと手が滑っちゃって…」
ついでに額をしこたま打ちました。瘤が出来るんじゃないかというくらい痛いです。
「母さんは耳が痛いのだけど」
「ごめんなさい…えーと、で?彼氏って?」
綺麗な、が付いた時点で誰の事だかは判断出来るのだが、ちょっとしらばっくれてみようとかいう悪あがきだ。
「何を恍けてるの?桂から聞いたわよ。父さんに知られる前に、ちゃんと紹介しておくべきだと思うわ」
こちらの反応を楽しむ母親の声音は実に弾んでいる。
うううう。口止めするのを忘れていた。
桂くんは自分からべらべら喋る人間ではないが、聞かれた事には嘘を付かない。特に、母さんに嘘をついても直ぐにばれてしまうので、基本的に小松家では母親に嘘をつく事はない。いや、出来ないが正しい。
因みに、父親には面倒だから黙っておく、という選択はしょっちゅうだが。
きっと「あいは彼氏の一人も出来ないのかしら」とかいう母親のぼやきに、桂くんは何の含みもなく「綺麗な彼氏を連れてた」とか言ったに違いない。
「…都合聞いてみる」
無職と変わらない家出王子に都合なんてあるとは思えないけども。
「楽しみにしてるから!」
母さんの弾んだ声とは裏腹に私の心はずぶずぶと沈んでいった。
「…木村さん?木村さん?」
私の言葉に木村さんは完全に固まってしまった。
手には煎れたてのインスタントコーヒー。それを唇に着けたままに固まってしまっている。
ラグラスを家族--というか、母親に紹介したい、と言った瞬間に固まってしまった木村さんは瞬き一つしない。
…生きてるよね?
不安になるほどに微動だにしないものだから心配になってきた。
「き…」
「駄目無理駄目駄目!」
うお。びっくりした。
いきなり両目を見開いて、コーヒーが入ったカップを置いた木村さんはずいと身を乗り出してくる。
「駄目三回も言ったねぇ」
「最近、ギリアに政府から接触があったの!大人しくしとけって言われたばかりなのよ?!」
「あーそれは大変ですねぇ」
「何を人事のように…バレたら困るのは小松ちゃんよ?!政府に連れてかれるんだからっ」
「いやぁ。出来れば平凡な人生を過ごしたいのですが」
「無理無理無理無理!」
「そんな力いっぱい否定しなくても」
へこむんですが…
「とにかくあの子を会わせる訳にはいかないわ!どんなボロを出すか…」
「母さんになんて言おう」
「そこは大丈夫よ。私が行けばいいの」
「え?」
ううーんと腕を組もうとした瞬間。
にこりと妖艶に微笑む美女が、きらきらと輝く金髪美人へと変化した。
そうか。その手があった。
緩く微笑む美人は本物のそれより柔らかでえもいわれぬ色気を感じる。中身が美女?だからだろうか。
僅かに持ち上げられた薄い唇は意地悪く笑みを作る。
「…木村さんが行ってくれるの?」
「ああ」
当然だけど声も変化してる!
意識して作っているのだろうけど、面白そうに私を見下ろす青い双眸に宿る光はラグラスのそれと同じに見えた。
すっと伸ばした長い指で私の頬を撫でて、小さく首を傾げる。薄い唇は勿体振ってゆっくりと開かれた。
「お前の為ならば」
その声に思わず撃沈した。
木村ラグラスは物凄い破壊力を持っている。敵う気がしない。
「どうどう?!仕種とかはラグラスっていうか、ロベリアを参考にしたんだけどねー」
「ラグラスのお祖父さんだっけ?」
「そうー!凄く色気があったでしょ?」
「っていうかさ木村さん。その姿でその喋りは勘弁して下さい」
どこか楽しそうな木村さんに、私はうんざりと言い捨てた。
「お前何か隠しておるな?」
「うえ?!」
人の顔を見るなりそう言ったラグラスに、私は驚愕に顔を歪めた。ちょっと待て。私どこか変だった?!
木村さんは私と同じように顔を引き攣らせていて、思わず顔を見合わせる。
「ほう。二人で企んでいるという訳か」
鎌をかけるというよりは確信を持っていう彼に私は恐怖すら感じてしまう。何なんだ、この王子は。
「何それ」
木村さんはしらばっくれるつもりらしい。腕組をして高慢に顎を上げた。
「顔見るなりなに言ってくれてんの?何?企むって。訳分からないんだけど」
「その表情だ。俺に黙っていたい事、騙そうとしておる事があるだろう」
「な、なんで?エスパー?!」
「ちょっと小松ちゃん!黙ってなさい!」
しらばっくれる気満々の木村さんは私の口出しを禁じようとしている。とりあえず、私はぐっと唇を引き結んだ。黙っていても顔に出るタイプなので、あまり意味はないと思うのですけど。
「何を企んでおる」
「企んでなんかいないわよ。まあ、そのうち教えてあげるから、今日のところは我慢なさい」
「お前に指図される謂れはない」
「可愛くないわねぇ。良いのよ?今すぐ小松ちゃん連れて帰っても」
「お前だけ帰れ」
「んもぉ可愛くない可愛くない!」
「煩い、帰れ」
木村さんをうざったそうに押し退けて、彼は私を見下ろした。感情の見えない綺麗な青は私を罪人に仕立て上げている。
「ごごごごめんなさい!」
「小松ちゃん?!」
「だって、だって木村さん!私、嘘つくの苦手で」
「嘘じゃないわ。終わるまで黙ってだけ」
「だってぇーこの、人を殺せるような視線!っていうか、なんで企むとか」
「落ち着いて!この子は人の変化に敏感なのよ。ちょっと視線を逸らしただけでそういう事言うんだから」
言われて、逸らしていた視線ちらりと上げる。
何かも知っている、全てを見透かした青は奥深く揺らめいていた。「王子」という肩書の言葉だけですっかり忘れていたのだけど、彼は人の上に立つ人間である。全てを受け入れる、と言わんばかりのその表情。
その迫力に私は床に膝を付いた。
「うえぇえぇーん!ごめんなさい!」
「小松ちゃん!」
だって無理だよ!こんな事なら、実感に帰るまで来なければ良かった。言わなきゃ気付きもしないはずだったのに。
ふと。目の前にサラサラ金髪が揺れた。こちらを覗き込む青は先程とは違い柔らかく緩んでいる。
ふわり、と微笑むそれはあまりに甘やかで神々しい。緩く抱き寄せられ、私は彼を見上げた。
「話せば楽になろう」
「ありがとう、ラグラス…」
「騙されちゃだめよーーーー!」
私はあっさりと陥落した。
背後では木村さんが何やら叫んでいたのだけど、私の耳には届かなかった。