1.非現実な週末
恋愛に発展するまで時間がかかります。
気長にお付き合い頂けると嬉しいです。
「え、あ、な?」
我ながら間の抜けた声を上げたと思う。
だが、この状況で私が出来る事と言えば、意味不明な声を上げて半狂乱になるか、無言でうろたえるかくらいしかない。
それならばどちらも、と、意味不明な声を上げてうろたえてみたのだ。
こんな事考えてるって事は余裕があるのかも知れない。うん、きっとそうだ。
目の前に広がるのはトイレのはずだった。扉を開けたままの状態で固まってしまった私はぎこちなく笑う。
薄暗い室内はレンガ造りのようで、ずらりと見慣れぬ器具が並んでいるし、嗅いだ事のない化学物質的な匂いが漂っている。
間違ってもトイレじゃない。
ここの住人らしき中年男性がぽかんとこちらを凝視している。
彼と視線を合わせたまま、私はへらりと笑って口を開いた。
「こんばんは。ここ、お手洗いじゃないですよね、うん。分かってます」
それでも口にせずにはいられなかったのだ。
小松あい、十九歳。
女子短大に入学した私は、今の今まで大学の敷地内にある寮に居た。
敷地内に寮があるって便利なんだが、気が抜けまっくた寮生は若い女の子ではない。
講義ぎりぎりまで寝てたりすっぴんのままジャージで講義にでたりと、教師は中年男性ばかりで着飾る対象が居ない女子だけの空間は無法地帯そのものだったりする。
「木村さーん。借りてたDVD持ってきたよー」
「面白かったでしょー」
入寮から、たったの数日で仲良くなった管理人木村さん。
三十代前半に見える彼女はその実四十代らしいのだが、本人は笑顔で何も答えてはくれない。人当たりのいい癒し系だが裏の顔がありそうでちょっと怖い。
背中まである艶やかな黒髪に、はっきりくっきりとした二重が印象的な和風美人だ。
「新しいお菓子買ったんだけど、一緒に食べない?」
「こんな時間に恐ろしい誘惑ですねぇ」
新商品や限定物に弱い木村さんは、目新しい物を見付けては手を出してしまい試食を勧めてくる。せっかくだから一人で食べれば良いのにと思うが、パッケージ裏の栄養成分表を睨みながらカロリーが怖いじゃないと言っていた。勿論、私も怖い。
後二時間もすれば日付が変わる時間帯にお菓子。しかもチョコレート菓子。
「遠慮します!って言いたいとこだけど、CMで見て食べたいなーって思ってたんですよそれ」
「じゃあ、お茶淹れるから入って入って」
にこにこと管理室に招き入れる木村さん。
お言葉に甘えてお邪魔することにした。
木村さんの部屋は私たち寮生のものより僅かに広いくらいだ。大きな違いと言えば、私たちの部屋には無い小さなキッチンがあるくらいか。
明日は土曜日でバイトも休みだ。世間話しに花が咲き、私が見逃したお笑い番組を見せてもらったりと、ついつい長居をしてしまった。
「木村さーーん!またシャワーおかしいの!助けてーー!」
ノックもせずに飛び込んで来たのは同じ科で二つ隣の住人、戸津田だ。
確か、一昨日からシャワーの温度が安定しないとかで、空気が冷えてきたこの時季に水を浴びて風邪をひいたと言っていたなぁ。
戸津田は濡れた頭にタオルを被り、慌てて着込んだらしいジャージ姿だ。風邪が酷くならなきゃいいけど。
「またぁ?昨日修理して貰ったのに、あの業者…」
木村さんは嘆息一つして腰を上げた。
工具箱を取り出しながら、眉を寄せてこちらを振り返る。
「ちょっと待っててね。それ見終わったらそのまま帰っても良いし」
「んー待ってますよ」
にっこりと笑って、じゃあ、すぐ戻るからねと言う彼女は何だか可愛い。私の倍以上生きてるなんて信じられない程だ。
冷えた紅茶を飲み干すと、トイレに行きたくなった。
主が居ない時に勝手に拝借するのもあれだが、自分の部屋に戻るのは面倒である。何度か借りた事もあるし、そんな事で怒る木村さんではない。
「勝手にお借りしまーす」
木村さんは不在だが、律義に声にしてから腰を上げた。
私たち寮生の部屋はバス・トイレが一緒だが、流石に管理人室は別にしてある。いいなぁ。
ドアノブを回した瞬間にキュインと機械音がした気がする。
はて。DVDの予約開始でもしたかな?
そのまま足を止めればよかったのだが、私は何の迷いもなくドアを開いた。
そして、冒頭の間抜け声である。
さて。
青いロボットがポケットから出すドアは、完成どころか開発しているという話すら聞いたことがない。振り返ってみれば、そこにあるのは柔らかいクリーム色で統一された木村さんの部屋ではなく、豆電球の光程度に照らされた煉瓦造りの薄暗い廊下が伸びている。
視線を戻すと、茫然としていたおっちゃんが、全くもって理解不能な言語で喚いていた。
英語?いや、英語というよりはスペインとか?あーいや、何というか、本当に何一つ聞き取れない。アマゾンの奥地かここは。
はた、と。
唐突に私は真実に行き当たった。
そうだ、夢なのだ!
どこからが夢なのか境界線が全く無かったような気がするが、DVDを見ながら眠ってしまったのだろう。
うん、きっとそうに違いない。
「えーと、それで、ここはどこでしょ?」
夢なら、この言語も理解出来るようになるに違いない。
首を傾げて見せれば、おっちゃんも同じように首を傾げて見せた。丸い顔のふくふくした頬がぷるりと揺れた。何か可愛いじゃないか。
と思えたのはそこまでで、おっちゃんは再びぺらぺらと理解不能言語を操りだした。
うーーん。
とっても「ぱ」行が多い言葉だなぁ。
暫く何かを訴えていたおっちゃんが、はっとして私の頭上に視線を移動させた。
「アベル」
人の名前のようだ、と思った私は振り返った。
目の前に人の胸が見えて、その近さに思わず後ずさってから視線を上へと移動させる。こんなに近くに居て気付かなかったなんて。
はっと息を飲んだ。
さらさらと流れる金髪に青い青い双眸。作り物かと言いたくなるようなそれだけでも目を引くだろうに、それらの持ち主は、恐ろしいくらいの美人、しかも男だった。
CG?この人。
肌はつるつるで凹凸なんてどこにもない。
鼻はすっと通って、嫌みのように高い。私に分けろ!
綺麗な青を縁取るのは金に近い茶の長い睫毛。瞬きすればバサバサと音を立てるのではないかというくらいだ。
切れ長で涼しげな目元のくせにばっちりとしている。
唇は薄くて、きゅっと広角が上がっており、妙に艶っぽい。
標準よりちょっと長身の私が見上げる程の長身だが、がっしりしている訳ではなく、かと言って細くはない。百八十はあるな、間違いなく。歳は二十代前半、かな。
何だ、この完璧男前。
着古した簡素な白シャツに黒いパンツが、どこぞかの高級ブランド品に見える。
お恥ずかしい事に、私はぽかんと口を開けてこの男前を凝視していた。
だってCGのように完璧なのですよ!ハリウッド俳優が演じた某エルフ以上に美しい男なんて、存在しないと思っていたんだけど、ここに!ここに居たよーー!!
あー良い夢だ!夢なんだから、どれだけ見たって良いじゃないか!というか、網膜に焼き付けておかないと勿体ない。
何なら触っておくか!
私は思い切って彼の腕を掴んだ。
おお、適度に鍛えられた筋肉!思ったより太い二の腕だなぁ。
ええい、抱き付いてやれ。
甘い菓子のような香りがする。硬い胸板は心地よい体温を伝えてくれた。
…妙にリアルな感触だ。夢で臭いや体温まで感じるもんか?普通…
怪訝そうにこちらを見下ろしていた男前は暫く凍りついたように微動だにしなかったのだが、口を開いてぽつぽつと何かを言った。
ん?何?
だから、いい加減この理解不能言語を何とかしてよ。
どうしたもんかと眉を寄せた瞬間だった。
男前が何かに背を押されて、抱き付いたままの私ごと前のめりに倒れ込む。何とか転倒はしなかったものの、ぎゅうと頭を抱え込まれ、かなりの密着具合だ。
ああ、何て素晴らしい夢!後一時間はこのままでいいや!
「小松ちゃん!」
「あ、木村さんだ」
突然現れたのは木村さんだったらしい。
男前の胸板を押してその後ろを覗き込み、見慣れた彼女の姿と通じる言葉に、夢の中だというのになんだかほっとした。
「説明、するから!」
「説明って?」
木村さんは物凄く動揺しているようで、見たこともない焦った表情をしている。
彼女は私の右手をぐいと引くと、自分の指から抜いたシルバーのリングを私の小指に通した。
「何?くれるんですか?」
「スターチス!一体何だ、この娘は!」
「へ?」
リングを指に嵌めた途端、おっちゃんが発した言葉が聞き取れた。
おおお!今度は翻訳機?!SF映画みたい!いや、やはり例の国民的アニメか?
私が一人興奮していると、木村さんはがっくりと肩を落として首を振った。
「別の星の人間です」
「……は?」
私が聞き返すまで、たっぷり十秒は掛っただろう。
夢にしたって突拍子が無さ過ぎる。
「何?別の星って。何の設定?」
「今、説明するから」
何のコントだろうと首を傾げていると、頭上から涼やかな声が落ちてきた。
「いい加減、離してくれないか」
「おお!何言ってるか分かるーーすごぉい!ね、木村さん、これって二十一世紀最大の発明品?」
男前の言葉は無視して、わくわくと木村さんに問いかけた。
彼女は困ったように頭を振って、ちょっと待ってってばと、少々苛立たしげに呟くと、おっちゃんに身体ごと向き直る。
「現在拠点にしている場所の現地人なんだけど、私の不手際でこちらに送ってしまいました」
ちょ!現地人って!まるで言語の通じない槍持った人たちみたいじゃないの。あ、でも言葉通じてなかったなぁ…
この場合、彼らが現地人、じゃなくて私が現地人?
「どうするんだ」
「吹聴するような子ではないんだけど…夢で通す?」
「え、それ、私に聞きます?」
「うーん、そうよねぇ。時間設定を忘れてた私が悪いんだし、小松ちゃんの負担になる事はあんまりしたくないんだけどなぁ」
負担?
その言葉に私はぴくりと反応した。男前の二の腕を掴む手に力が入る。
「ちょっと聞いても良いですか?」
「なぁに?」
「えーと。これって現実?」
トイレのドアを開けると、トイレでない事だけは分かる、全く別の空間。
言語の通じないおっちゃん。
作り物のような美人。
アニメの中でしか存在しないはずの翻訳機。
別の星、だという木村さんの言葉。
ほんの数分前まで寮という自分のテリトリーに居たというのに、木村さんはおっちゃんに私を現地人と説明した。
どれもこれもが日常とかけ離れていて、何一つ現実味を帯びていない。
これが夢でなければ何だというのか。
木村さんは恐ろしい程に真剣な顔つきでゆっくりと口を動かした。
「現実よ」
もうなんというか。
とりあえず、泣いて眠って暴れたい。