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ふと思い出して壁に頭を打ち付けたくなるくらいに恥ずかしい、という出来事はそうそうないと思うけど、誰にでも一つはあると思う。
あれは忘れもしない中二の夏。雨上がりで蒸し暑くて、ちょっと朦朧としていた私はチャリで豪快にこけた。
スカートがめくれ上がり下着は丸見え。あまりの羞恥に慌てて起き上がった瞬間、チャリの下敷きになっていた右腕を無駄に骨折。
一緒に居た次男に間抜け過ぎだと爆笑されたっけ…
あ、泣きそう。
泣きたくなるぐらいに恥ずかしい。
「あ、そうそう」
思い出した、と私を振り返った木村さんは、肩を竦めてくつくつと笑った。
「さっき戻った時に、小松ちゃんの携帯が鳴ってたから出ておいたの」
その言葉に、手にしていたグラスを取り落としそうになる。何とか持ち直してテーブルに置くと、私は声を絞り出した。
「ま、まま、まさか!」
「そう。お父様」
「うわあああ!何言ってました?!」
「小松ちゃんの声で、いつもの調子で返しといたから」
「そ、そんな事も出来るんだ…便利だねぇ」
にっこりと笑った木村さんだったが、唇の端がぴくぴくと痙攣している。爆笑したくて仕方ないといった風だ。
うちの父親、毎晩のように電話してくるのだが、それをすっかりと忘れていた。今日は何したんだ?ご飯食べたか、なんてどうでも言い話題だが、出ないと延々と掛けてくる。携帯を忘れて遊びに行った時なんか電車で一時間程の実家から形相変えてやって来た。あの時の表情は、一生忘れない。
最近は週末だけのバイトを始めたので、出られないから掛けてくるなと言っていたのに、掛けてきたのか…
「何で出ないんだ、男でも出来たのかって泣きそうな声してたから、明日締め切りのレポートがあって、父さんに構ってる暇はない。次掛けてきたら、母さんに言い付けて携帯取り上げてもらうからね!って言ったら、ごめんなさいって言ってたわよー」
「…適切な処置、ありがとうございました」
恥ずかしい。今なら憤死出来る。あんなに恥ずかしい事もうないと思っていた、中二の夏くらいに。
うちの父親、心配性どころじゃないのだ。度の過ぎた過保護。もうあれは病気だ、病気。母親は放任主義だというのに、どうして父親はああなのだろうか。
「ラグラスに会ったら面白そうね」
「面白くありません!血の雨が降る!死ぬ!ラグラス死ぬから!」
あの父親ならやりかねないのだ。父親を犯罪者になどしたくない。
木村さんは何かに耐え兼ねて大笑いした。何と失礼な。
「そもそも、小松ちゃんがラグラスに嘘なんか付くからいけないのよ」
「うそ?」
「そうよ。結婚までキスをしないだなんて、日本なら幼稚園児でも信じないでしょ」
ああ、それはもう。何故あんな事を言ったのだと、昨日から何度自分を呪ったことか。
「後悔先に立たず、ってやつですよねほんと」
「ああ見えて、冗談なんか通じないんだから。国を背負う人間にしては素直過ぎるのよね」
「オレオレ詐欺に直ぐさま引っ掛かりそうですよね」
「思うわぁ」
「唐突だけど木村さん…タイムマシーンとか開発しないんですか?」
あったら、過去に戻って自分の口を塞いでやるのに。
「過去を弄って未来を変えるってのが、私の理念に反するのよ」
ごめんね、と言う木村さんに首を振って見せた。そう言うってことは、造るのは可能なんだろう。
確かに、タイムマシーンなんか合ったら大変なんだろうな。現在ががらりと変わってしまうかも知れないし。
失敗をしなければ人間成長しないと思う。失敗を無かった事にするため、過去に戻ってたら埒が明かないだろう。
いや、でも今回は戻れるもんなら戻りたい。切実に。
「困らせてやろうと思っただけなのに、結婚するとか思ってもみなかった」
「好みだからじゃない?」
「は?」
「小松ちゃん、ラグラスの好みだもの」
うええええ?
冗談にしても有り得ないでしょ。
「な、なんで?どこが?ありえなくないですか?」
「ロベリアも、あの子の父親も、妃に選んだのは小松ちゃんみたいな可愛い子だったのよね…」
「な、なんですかその恨めしそうな目は。木村さん、変身出来るんだから、相手の好みになれば良いじゃないですか」
「それがねぇ…どれだけ好みの外見になっても、私は魔女だからダメだとか言うのよ」
「ま、魔女」
いやそりゃまぁ、化学のかけらもない世界で木村さんの知識も、姿を変えられるという能力も、異質だろうと思うけど。そのどちらも、地球であっても異質なんだけどさ。
「ちょっと交配してくれるか、種くれるだけでも良いのにね」
「…そういう、若干デリカシーが無いのがダメなのかも」
「え?なんか言った?」
「ううん…なんでもないです」
残念な美人だなんて思ってないです、はい。
帰る前にご挨拶せねばと炊事場へ向かった。セージさんとメイドちゃんに(彼女はたまたま居ただけみたいだった)ご挨拶してから研究室に向かう。
ラグラスの耳に入る可能性を考え、もう会うことはないと思うけど、とは言わず。
コツコツと響く木村さんの足音に、ぺたぺたと響く私のスリッパの足音。…何か間抜けだなぁ。
「何かやり残した事とかなぁい?」
「え?うん…特に、は」
小さく胸に広がるもやもや感。ぐっと胸を潰されるような苦しみ。唐突に涙が零れそうになった。
ああ、これは、淋しいだ。
過ごしたのはたった一日半だけど、この汚れていない世界に愛着に似たものを抱いている。見慣れない食べ物ももっとあるだろうし、動物や植物だって同じだ。
じわじわと広がる感情。何だか泣けてくる。
おっちゃんとラグラスにさよならを言えるだろうか。
そんな事を考えているうちに研究室に到着し、木村さんが扉を開いた。座っていたおっちゃんとラグラスが腰を上げてこちらへ来る。
「あーコマツ?」
「疑問形?」
何だか外国人さんに声を掛けられたみたいでちょっと笑える。おっちゃんはごほん、と咳ばらい一つ落として布袋を差し出した。
「セージからだ」
「セージさん?」
袋を覗き込むと中には、昨日セージさんが出してくれたマフィンのような黄色い焼き菓子が入っている。
私が気に入ったのを覚えてくれていたらしい。
「お前が美味いと言ったのを覚えていたらしいな」
「小松ちゃん?」
唇を噛み締めて俯いた私を、木村さんは不思議そうに覗き込んだ。
今にも涙が零れそう。
駄目だ、やめて。だって、もう会えないのに。ありがとうも言えないじゃない。
「……頭痛くなってきた」
「じゃあ戻ろうか」
こくりと頷いて彼女の手首を掴んだ。
木村さんはリモコンを操作して装置を起動させたらしい。ブォンと機械音がして、木村さんは行こうか、と私の手を引いた。
「お世話になりました」
二人の顔を見れず、床に視線を落としたそのままに頭を下げる。
「アイ」
名を呼ばれただけだというのに、鼓動が激しく跳ねた。何だその声。低く響くくせにやたらと甘い。
左手首を捕まれ、反射的にそちらを見遣ってしまい、私は心底後悔した。
じっと私を射る蒼い視線。それは私を欲している、と、恋愛経験の乏しい私にでも分かるほどに熱を帯びていた。
煩い。心臓がどくどくと煩い。好みじゃないはずなのに。
「次はいつ来る」
「へ?」
「いつ来るのだ」
「……あーうん。しばらくは忙しいから、無理かな」
「そうか」
そう言った彼は、腰を折って顔を近付けてきた。驚く事もなくゆっくりと目を閉じて、落ちてきた唇を受け止める。
一瞬だけ触れて、啄むようにして離れていく。
「何故、泣く」
「なんでもない」
頬を伝った涙を不信そうに眺め、彼はそれを長い指で拭う。
別れる淋しさと、ちくちくと良心の呵責を苛む痛み。押し潰されそうだ。
「またね」
「ああ」
嘘を付いてしまった。
うやむやにしようと思ったのに、また、と嘘を付いてしまった。ごめん、ラグラス。
離された左手を胸元できつく握り締めた。
潜ったばかりの扉を再び潜ると、見慣れた木村さんの部屋。
ああ、帰ってきた。
その安堵感に膝を着いた。
けれど、帰ってきたというのに、ぽっかりと胸に広がる空虚に涙が止まらない。
「嘘つくって、気分悪いですね」
「そう?」
何で泣いてるの?と言いたげなその声音に、私はがくりと肩を落とした。情緒もなにもないのかこの人は。
もっとこう、淋しいねとか、悪いことしちゃったわねとかないのか。
のほほんと平穏な日々を送っていた私が、想像もした事のない世界に巻き込まれた、たった二日の非日常。
今でも、夢だったんじゃないかって気がしている。
未だ残る唇の感触。
小指に嵌めたままのリング。
手にはセージさん手作りのマフィン。
夢ではない。夢ではないのだという、非日常の確かな証に目眩がする。
父親からの着信を告げるけたたましいコール音が、否応なしに現実を突き付けていた。