女スパイは愛した
寂れたモーテルの一室——そのベッドの上で、がっしりとした男の左腕に、自らの両腕を絡めて女はスヤスヤと寝息を立てている。男の左手首にはヴィンテージの腕時計が巻かれている。
その女——現在の名は、ラシェリー・モーデン。ふんわりとした丸みのある髪は、肩の手前でくるりとカールし、まるで一本一本が輝くように金色を発している。知識もスタイルも、非の打ち所がない完璧な女。
それもそのはずだ。
ラシェリーはそうなるように、幼少の頃から育てられてきた——全ての感情を捨て去り、任務だけを遂行するスパイとして造られてきたからだ。
もちろん仕事は簡単なものではない。信用を得るのに、その組織に入り、数年かかることもある。
仕事のたびに、ターゲットの環境と生活パターンを調べ上げ、好みの名前、容姿、性格、しゃべり方に至るまで、全てを変える。包み込む優しさ。相手を癒す笑顔。心を揺さぶる泣き顔。その完璧な演技と、すれ違えば誰もが振り返る美貌。言い寄られれば、どんな男も拒むことは出来ない。それを武器に、これまでラシェリーが仕事を失敗したことはない。今回の仕事以外、ただの一度も。
主な仕事は暗殺や重要人物に接触し、機密情報を手に入れること。またはその両方。
今回の狙いはトップシークレットであったが、その任務も無事に終わった——はずだった。
昨日の昼間——キングストリート駅の待合室のベンチに座るラシェリーの隣に、中折れ帽にトレンチコートで全身黒ずくめの男が座る。
「これで政権転覆は間違いない。今回の任務に『殺し』はない。お前にとっては楽な仕事だったろう。またしばらく姿を消せ」男の言葉を聞いてラシェリーは立ち上がる。
今夜を最期に姿を消すわ。と、その場を去った。
ベンチの上に残されたメモリースティックを男は懐に入れた。
その夜、四〇〇九号室。ドアから少し離れた通路にUSSSの数人が立つ。その部屋の中、ベッドの上でラシェリーは、シルクのような艶のある鈍色のコンフォーターから半裸もあらわに、男の胸に顔をうずめて「お願いがあるの」と囁いた。君の願いを聞かないわけはないだろうと男は言う。
ラシェリーはプレゼントをしたいの、受け取ってくれる? とヴィンテージの腕時計を見せる。男は一瞬首を傾げたが、すぐに「OK」と、腕に巻いた。
子供のような笑顔で、ラシェリーはその左腕にしがみついた——。
ラシェリーは家族を組織の人間に殺され、スパイになるべく育てられた。理由は分かっていない。
それ以前のラシェリーは父親が大好きで、毎日のように、その太く、がっしりとした左腕にぶら下がっていた。楽しかった記憶。
抱きしめられて眠った記憶——。
いつも、その左腕にはヴィンテージの腕時計が光っていた。
ラシェリーが初めてこの男に抱かれた時、それらの記憶が蘇ったのだ。父親の腕にあまりにも似たその腕。抱かれるたびに、心が満たされていった。
スパイとして生きてきて、初めて感じた心の安らぎ。この腕に形見のヴィンテージの腕時計を、どうしても巻いてほしかった。
ラシェリーは——愛してしまっていた。
離れたくない。だが、流したトップシークレットが明るみになれば、この男は終わる。当然、自分がスパイであることがバレる。命はない——。
再びラシェリーは「抱いて」と男にキスをした。
姿を消し生き延びても、心を取り戻してしまった自分はスパイとして死んでしまったのではないか。
さらには、これからしようとしていることは裏切りだ。仲間からも命を狙われる。
それならどちらにしろ、命はない。
ならば——殺されるその時まで、この腕とともにあろう——。
と、ラシェリーは決意する。
「愛しているわ、レネオ副大統領」
二時間後——USSSの男たちが慌ただしく走り回っていた。どこかに連絡している者もいる。数人が通路に倒れていてほとんどパニック状態だ。ホテルも封鎖されていた。
四〇〇九号室のベッドの上の赤黒い血溜まりの中に、男の亡骸が横たわっていた。
その男の左肩から先が切断されていた。
ラシェリーと、ヴィンテージの腕時計を手首に巻いた左腕が消えていた。
未明、寂れたモーテルの一室——そのベッドの上で、がっしりとした男の左腕に、自らの両腕を絡めて女はスヤスヤと寝息を立てている。男の左手首に巻かれたヴィンテージの腕時計が、優しく光を反射させていた——。
おしまい