後
ラクスが村にやってきてから四度目の朝。
彼は領主だというのに粗末な食事に文句もつけず、水くみや薬草運びの雑事もすすんで手伝ってくれてとても助かった。
ひとつだけ困ったのは、ルピィの様子を観察したいからと私と同じ部屋で寝ようとすること。妥協案としてルピィが眠ったら自室に戻ると約束して、どうにか納得してもらったけれど。
「ルピィが寝入るまで三人で親子のように並んでいたい、なんて。あんな期待と不安いっぱいの目で見つめながら言うなんて卑怯よね……」
「ぴぃあ?」
思い出して熱くなる顔を誤魔化すように、ルピィのやわらかなほほをなでる。
ラクスのいる暮らしには慣れつつあったけれど、同じベッドで過ごす時間には慣れそうもなかった。
「ラクスさま遅いね、ルピィ。ニルゥが捕まらないのかしら」
心休まらない夜を過ごし、今日は薬草を採取しに森へ行くことになった。薬草が足りなくなる前に補充しておくのが薬師の仕事だ、と導師にも言われている。
向かうのが私とルピィが出会った森だと聞いてラクスも行きたいと言うから、採取袋や水筒を用意して彼が来るのを導師の家の前で待っているのだけれど。
「ぴっぴぃ!」
不意に、ルピィが鋭い声をあげた。
警戒を促すような鳴き声に顔をあげると、村へとつながる道にひとりの男の姿があった。
「おいエイラ」
「なんですか、キダム」
ぞんざいに声をかけてきたのは村長の息子キダムだ。いちおう、私の幼なじみである。
私のそっけない態度にもためらわず、ずんずん近寄ってくる彼にルピィが「ぴっぴっ」と警戒の声をあげ続ける。
それが不愉快なのか、キダムが眉を寄せた。
「うるせえ鳥だな。はやく森に返しちまえよ、そんなもん」
気に入らないなら近寄らなければいいのに。そう言ったところで聞くような男でないことは、村に来てからこの年までちょっかいを出され続けた私が嫌というほど知っている。
(ラクスと同い年のくせに、いつまでも子どもっぽいのはどうにかならないかしら)
ため息をつきたいのをこらえて、髪をかきあげるふりしてさりげなくルピィを隠す。キダムが見えなくなればスリングのなかのルピィが静かになってほっとした。
「そうもいきません。こんな幼い子をひとりにしたらどうなることか」
「自力で生き延びられないなら、魔物としてそこまでだってことだろ」
かちん、ときた。
これまでは聞き流せていたキダムの暴言に腹を立ててしまったのは、無意識のうちに彼とラクスを比べてしまっていたから。
(ラクスならそんな馬鹿なこと言わないのに!)
むっとしたのが伝わったのか、キダムがにやりと嫌な笑いを浮かべる。
「おまえ、新しい領主が魔物好きだって知ってて拾ってきたんじゃねえだろうな?」
「なっ!?」
思わぬことを言われて戸惑う私をよそに、キダムはにやにやと笑いながら続ける。
「魔物領主がおまえの家に来てるのは知ってるんだぜ。魔物の子を使って玉の輿狙いか? 貰い手がいないなら俺が嫁にもらってやるって言ってんのにそれじゃ満足できねえとは、さすが元孤児は貪欲だな。その魔物もお前のだしにされて、かわいそうになあ」
キダムのことばに声も出せず震えそうになったとき。
「エイラ、待たせた」
大きな手にぽん、と肩を叩かれた。
振り向けば、ラクスが笑って立っている。
「それで、彼は?」
笑顔なのに笑っていない目でラクスがキダムを見据えた。
にらむようにわずかにあごを引いたせいで、ラクスの瞳は影になって真っ黒に見えているだろう。魔物の色と恐れられる色に捕えられ、キダムが顔をこわばらせる。
「村長の息子、キダムです」
未婚であるだとか、ラクスと同い年であるだとかはどうでもいい情報だろうから省いておく。
本音を言えば「知らないひとです」とでも答えたいところだけれど、領主として村の代表に関係する者だということくらいは知っておきたいかもしれない、と思ったのだけれど。
「そう。じゃあ行こうか」
「「えっ」」
ラクスは興味ない、と言わんばかりにさっさと歩き出した。
はからずも私とキダムの声が被って、ラクスが首をかしげる。
「何か?」
「いっ、いえ……」
問う形なのにラクスの目は質問を受け付けるつもりがないのが丸わかりで、キダムは気圧されたように首を横に振る。はじめて彼の貴族めいた振る舞いを見たかもしれない。
「エイラはどうした?」
「あ、えっと、その、この手はどうして私の腰に回されているのかなあ、なんて……」
急に表情を変えるのはやめてほしい。無表情からの輝く笑顔は心臓に悪いから。というか、腰に手を回されるのも心臓に悪いのだけれど。
(距離が近いんですけどっ!?)
ラクスの腕のなかに抱き込むようにされているせいで、私の右半身と彼の左半身がくっついてしまっている。それが無性に恥ずかしい。
「貴女が万一、転びでもしたら大変だからな」
「あっ、そう、そうですね! 転んでルピィをつぶしでもしたら大変ですもんねっ」
意識した自分が恥ずかしくて慌てて言えば、腰に回されたラクスの手に力がこもる。
「それもそうだが、エイラが転ぶのも俺は嫌だ」
「んんっ」
甘い。笑顔もことばも声もなにもかもが甘い。
あまりの甘さにキダムも引いてしまったのだろう。後ずさりしながら「くそっ」と悪態をついて走り去ってしまった。
(キダム、いくらラクスの甘さに驚いたからってお世話になってる領主さまにそれは無いわ。ほんとうに、子どものころから成長しないのね)
「さ、行こう。村はずれで二ルゥが待ってる」
呆れているうちに、腰に回された腕にやさしく押されて足が前に進む。
強引なはずなのに不快ではないエスコートを拒むことは出来なくて、ラクスと寄り添ったまま村の真ん中を歩くことになってしまったのだった。
※ ※ ※
森のなかは涼しい風と木漏れ日に満ちていて、いつ来てもさわやかな心地になる。
魔の森と呼ばれる危険な場所ではあるけれど、この心地よさは好きだった。スリングにおさまるルピィもご機嫌で「ぴゅあぴゅーあ」と歌うように鳴いている。
背の高い魔馬スレイプニルにまたがっている今は弱い魔物は寄ってこないため、いつもよりゆったりとした気持ちでいられる。背中に感じる熱さえなければ、もっと落ち着いていられただろうけれど。
(馬が一頭しかいないんだから、相乗りは仕方ないこと! 私は乗馬の技術なんてないし、ラクスさまのほうが背が高いのだから前に乗るのも必然! 大きな身体に囲い込まれてるみたいだとか、考えない考えないっ)
「気持ち良い場所だ。魔物さえ出なければ多くのひとが訪れるだろうに」
「ひとが来ないからこそ、この心地よさが保たれるということもありますよ」
心中のどきどきを悟られないように、意識して余裕を持って答えれば頭上で「ふっ」と笑いがこぼれて胸が高鳴る。
「それもそうだ。ここは魔の森、ひとこそ異物。貴女といると俺の視野の狭さに気づかされるな」
「ラクスさまは領主としての視点で、領地のにぎわいを考えて話されてるのでしょう。だったらそれもひとつの考え方だと思いますけど」
「……そうか」
返事に間があいたことが気になったけれど、馬上で振り返れるほどの器用さはない。どんな顔をしているのか見たい気持ちを抑えながら、できるだけ軽く感じるようにうなずいた。
「そうです。いろんな考え方を知るために、国や領地の偉い方々は会議をなさるのでしょう? いろんなひとが集まればいろんな考えも出るのでしょうし」
私は孤児院で身の回りの世話を覚え、そのあとはずっとパール導師について薬師としての知識ばかりを詰め込んできた。政治のことなんて知らないけれど、きっとそういうことなんだろうと思っている。
(思っているのだけれど、ラクスさまが沈黙してしまったということは的外れなことを言ってしまった!?)
長い沈黙に、やさしいラクスが呆れかえってしまうほどの無知を披露してしまったのか、と焦っていたら。
手綱を握っていたラクスの手が私のお腹に回されて、ぎゅっと力が籠められる。背中の密着具合も上がって、気のせいでなければ私の頭にあたる固いものはラクスのあごなんじゃ……。
「俺も貴女に拾ってもらえたなら良かったのに」
「え」
ささやきは小さすぎてうまく聞き取れなかった。
くっついていない箇所のほうが少ないくらいの密着具合で聞こえないのだから、聞かせるつもりがないのかもしれない。
(聞き返すべきかな。なんだか、寂しそうな響きだったし……)
悩んだのは一瞬。けれどその一瞬でラクスはするりと私のお腹に巻き付けた腕を離し、手綱を手に取る。
「さあ、道を教えてくれ。まずは貴女の目的の薬草を探そう!」
明るい声で空気ががらりとかわり、問いかける隙は無かった。
※ ※ ※
ラクスの手伝いもあって薬草集めはずいぶんと早く済ませられた。スレイプニルのニルゥのおかげで移動時間がぐっと縮められたことも大きい。
おかげで予定していたよりも時間に余裕ができた私たちは、ニルゥを置いて魔物探しをすることになった。
「ニルゥを繋いでおかなくていいんですか?」
「こいつも魔物だからな。そこいらの魔物に遅れはとらないし、むしろ手ごろな息抜きになるだろう。帰りたくなったら、俺が呼べば戻ってくるから心配はいらない」
感心しながら目を向けると、漆黒の馬体はさっそく茂みに消えていく。そう言われてみればなるほど、巨躯の割にゆったりとした歩みは王者の風格を感じる気がする。
「さ! それじゃあ魔物を探そう!」
くるりと振り返ったラクスの目は光を浴びた湖底のようにきらきら輝いている。
右手に万年筆、左手に紙束を握りしめて興奮を隠しもしない彼の姿はまるで、小遣いを握りしめて行商人が来るのを楽しみに待つ子どものようだ。
(腰の長剣が無ければ完璧に子どもよね……)
放っておけば駆け出してしまいそうなラクスの腕を取り、エイラは静かに歩き出した。
「おお、どこへいくんだ。魔物の巣でもあるのか!?」
「巣は知りませんが、ときどき見かける場所があるんです」
すすんで魔物と会う趣味はないエイラだけれど、ラクスの期待に満ちた瞳を翳らせるのは忍びない。
腕を引かれるまま素直についてくるラクスとともにすこし行けば、前方に大きな岩が見えてきた。
「ここからそうっと」
岩に足をかけた状態で声をひそめて伝えれば、ラクスは神妙な顔でうなずく。スリングのなかのルピィにも「しー、ね?」とくちびるの前に指をたてれば、こっくりうなずいてくれた。
成人男性と生まれたばかりのひな。人間の領主と魔物の幼体。
まったく違うはずなのに仕草がそっくりなふたりを見て、エイラの胸に暖かいものが広がった。
「あそこ、見えますか」
岩のなかほどまで登って向こう側を指差せば、隣に顔を寄せたラクスが目を輝かせる。
「岩豚!」
ラクスが声を抑えて名前を叫んだ豚に似た姿の魔物が岩の向こうにある窪地に群れていた。
額から尻尾にかけて岩のような硬い鱗を生やした魔豚たちは、鼻面を地面に押し付けるようにして窪地をゆったりと歩いている。
「あのあたりは岩豚の好物のキノコが生えるみたいで、よく群れでいるんです。今日もいるかな、と思ったんですけどお見せできて良かった」
「ああ、村や街道で遭遇するのは群れをはぐれたものが多いからな。これほどの群れははじめてだ……」
目を輝かせながら紙束になにかを書きつけるラクスは、よほど興奮しているのだろう。身体がだんだんと前に出て、いまにも岩の向こうに乗り出してしまいそうだ。
慌てて彼の服のすそをつかむ。
「あまり乗り出さないでください。目が良い魔物ではないけど、鼻が効くから風向きが変わったら……」
「ぴっ」
言っているそばからルピィが警戒の声をたてた。風向きが変わってしまったらしく、岩場の近くにいる魔豚たちが顔をあげて鼻を宙に向けてひくつかせる。
かと思えば「ぴぎぃ!」とつぶれた鳴き声を立てて、どすどすと重たい足音が近付いてくる。
(向かってきた!)
そう認識した瞬間にはラクスの手に抜き身の剣が握られていた。
はやい。目にも止まらぬはやさと、隙のない構え。魔物に向ける鋭い眼光は圧倒的な力を感じさせた。
「俺が出る! エイラはニルゥの行った方へ」
「待って! 岩から出ないで!」
ラクスの声にかぶせて言いながら、懐から取り出した袋に水筒の中身を流し込んで岩の向こうに投げた。同時にラクスの腕をつかんだまま岩を滑り降り、地面につくなりしゃがみこむ。
「ぴぎっ!?」
引きつったような魔豚の鳴き声。数頭が「ふごっふごっ」と咳き込むように鳴いたのに続いて、足音が遠ざかる。音の重たさの割にけっこうな速さで遠くなる足音に耳を澄ませた。
「……去ったようだ」
注意深く岩の向こうをのぞいたラクスの声を聞いて「はあぁぁ」と力が抜ける。
「ぴぃ」
「ああ、大丈夫。大丈夫だからね。安心してて、ルピィ」
詰めていた息を吐いたことで、ルピィに私の不安が伝わってしまったらしい。
慌てて背中をなでさすれば「ぴゅあ!」と元気な鳴き声と笑顔を見せてくれた。
「さきほど、投げた物は」
後ろからきこえたつぶやきに、ラクスを放置していたことを思い出す。
「特性の調合薬です。辛い薬草、苦い薬草、魔物にとって臭いのきつい薬草などに水に触れると発熱する鉱石の粉を入れてある、即席の魔物忌避剤です」
「貴女は……俺に行けと言わないんだな」
「ぴぃ……」
ラクスのつぶやきに返す前にスリングのなかのルピィが不機嫌そうに鳴いた。ひとの鼻では森の香りにまぎれてわからないけれど、臭いがただよってくるのだろう。
ラクスにもそれがわかったのか「移動しよう」と言われるままにその場を離れた。
静かな森にふたりぶんの足音が鳴る。
しばらく無言のまま進んでじゅうぶんに距離が離れたころ。
「ぴあっ!」
不意にルピィが明るく鳴いて、スリングから身を乗り出した。転げ落ちてしまいそうなちいさな身体を慌てて抱き止めた私の顔に影が落ちる。
「ハルピュイア……」
森の木のさらにそのうえを飛び過ぎるのはルピィと同じ魔鳥の成体。あたりを見回すその視界に捉えられる前に、横から伸びた腕が私とルピィを木陰に隠した。
幹に背を預けたラクスの腕のなかに匿われた私たちは、木の葉に守られて空から見えなくなったのだろう。影はしばらくあたりをさまよっていたけれど、やがて離れていく。
「ぴぃぴい!」
遠ざかる空のうえの影にルピィが手を伸ばす。羽根の生えた両腕を空に向けて、ぱたぱたと羽ばたこうとしている。
スリングから身を乗り出すルピィが落ちそうだ、と腕を伸ばしかけて、触れることをためらってしまった。
「あぶないぞ」
横から伸ばされた手がルピィを受け止める。大きな手のひらに乗ったルピィは「ぴゅいぴゅい」とごきげんな鳴き声をあげながらラクスの手のうえで羽ばたく。
羽根の生えた腕といっしょにルピィのかぎ爪がついたちいさな脚が宙を蹴る。見守るラクスの表情の柔らかさと相まって微笑ましい光景のはずなのに、私の胸はぎしりときしむ。
「はは、飛んでるつもりか? 俺の手で良ければいくらでも飛ばせてやろう。なあ、エイラ。……エイラ?」
ラクスの顔から笑いが消えて、私を心配そうに見つめてくる。
ひどく近い彼との距離や真剣な瞳へときめくよりも、罪悪感が胸いっぱいに広がっていた。ふくれあがる思いが苦しくて、あえぐようにことばを絞りだす。
「……ラクスさま。ルピィをそばに置いていることは人間の、私の勝手な振る舞い、なのでしょうか」
彼の顔も見られず、けれど一度吐き出した想いは止められなくてこぼれてくる。
「あの日、私と目があったルピィを無理にでも巣穴に置いておくべきだったのでしょうか。私がこの子を抱き上げなければこの子は今も親や兄弟といっしょに暮らして、空を自由に飛び回れていたんでしょうか」
声といっしょに両目から涙があふれる。慣れたルピィの重みがスリングのなかに無いことが悲しくて、ルピィを森に帰せば永遠に失われる重みが切なくて、ぽろぽろとこぼれる雫が止まらない。
(ルピィの幸せを願っているのに、ルピィを手放したくなくて泣くなんてあまりにも勝手だ)
いくらかわいくても魔物なのだと、わかってはいた。わかってはいたけれど気づかないふりしていた感情は、ついに決壊してあふれてしまった。
「たしかに、ひとに育てられた魔物の多くは、たとえ野に放たれたとしても魔物本来の性質を発揮できなかったと記されている。けれど、そうだな」
さく、と草を踏みしめる音を鳴らしてラクスがくちを開く。
「たとえば、森にこの子を置いたとしよう」
冷静な声に顔をあげると、地面においたハンカチの上にルピィがおろされるところだった。
大きな手のひらから下ろされたルピィはちょこんと座り、不思議そうにあたりを見回している。かと思えば、私を見つけてぱあっと表情を明るくした。
そして、ちいさな羽根をばたつかせながら前のめりになる。たよりない羽根を私に向けて伸ばしながら、鋭さなんてないかぎづめで地面を引っかく。
「あっ」
ころん、と倒れたルピィの顔が地面にぶつかる前に、その身体をすくいあげたのはラクスの手だった。
ちいさなひなを持ち上げたラクスは、その手を私の顔の前に差し出して笑う。
「わかるだろうか? たとえこの子を巣に残して去っていたら、この子は貴女を追いかけて巣から落ちて死んでいただろう。目があった瞬間から、この子にとって貴女は親なんだ」
慰めてくれようとしているのだとわかっていた。けれどラクスのことばを盲目的に信じ、ルピィを受け取ることができない。
伸ばされるルピィのちいさな羽根に触れるのが怖くてたまらない。
「でも、私があのときルピィと目を合わせなかったら……」
「確認なんだが」
さかのぼる後悔にもらした暗い声をさえぎったのはラクスだった。
「貴女が巣をのぞいたとき、親のハルピュイアはいなかったのだよな?」
ルピィと出会ったとき。巣のそばにある薬草を取るために何日か前から観察をしていた話をラクスにはしてあった。魔物の研究が趣味だという彼に聞かれるがまま、あれこれ話してあったのだ。
「え、ええ。はい。数日前から定期的に飛び立つようになったのを確認していて。あのときも親鳥がすべて飛び立ったのを確かめて薬草を取りに行きましたから……」
「なら、やはりこの子の親は貴女しかいない」
「え……」
ラクスがにっこり笑う。自信に満ちた笑顔だ。
「ハルピュイアは卵を群れの仲間で交代で温めるんだ。孵化するときまで常に成体が寄り添う。親がみな巣を飛び立つのは、孵化したひなたちのエサを取りに行くときだ」
「あ……」
「鳥類の話だが、まれに卵を残したまま飛び立つ親がいると聞く。孵化が遅かったり、受精できていない卵の場合、親鳥は孵るまで待ちはしない」
「ああ……」
ぽろり、とこぼれた涙は自分のためでなくルピィのためだった。
(ルピィは一番最後に孵った卵だった。ハルピュイアの親はもうルピィが孵るのを諦めて、見捨てた卵だったんだ……)
思い至った事実に、かつて孤児院に暮らした自分を思い出す。私は赤子のころ院の前に置き去りにされていたと聞いた。院の大人たちはそれだけしか教えてくれなかったけれど、要らないと親に見捨てられた子だったのだろう。
(私と同じだったんだ)
熱いものがのどからせり上がり両目からぼろぼろ落ちる。
濡れた頬にそうっと触れたのはルピィのちいさな羽根の先。
「ぴぃ?」
首をかしげ心配げな目を向けてくるルピィに愛おしさがこみ上げた。
親から引き離してしまったとずっと、ずっと後悔していた。自分が感じた悲しみを私がこの子に与えているのだと罪悪感に苛まれながらも懐いてくれるのがうれしくて、かわいい笑顔を手放しがたくて苦しかったけれど。
(私の子なんだ。私が心から愛してもいい子なんだ)
「ルピィ、大好きよ」
「ぴぃ!」
言いながら手を伸ばせば、ルピィが飛び込んでくる。ちいさな体を抱きしめていると、ふとラクスがすこし離れたところで微笑んでいるのが目に入った。
抱き合う私たちを見つめる彼の口元はやさしく微笑んでいて、けれどどこか寂し気なその目には羨望の色が宿っている。
「ラクスさま」
自然と、微笑んで彼に手を伸ばしていた。
胸に抱かれたルピィも真似しているのか、ちいさな羽根を広げて見せる。
ぱちり、と不思議そうに瞬いたラクスの湖底のような瞳が幼児のようでおかしくて、くすりと笑いがこぼれた。
「私とルピィは家族です。あなたが家族にしてくれました。だから、もしもラクスさまが望んでくださるなら三人で家族に、本当の家族になりませんか」
くちを突いて出たのは本心だった。
彼と過ごすうち、彼がルピィや私に向けてくれる暖かな眼差しを見つめているうちに育っていた思い。本当は抱えたまま、そっと彼を見送ろうと思っていたのだ。
身分や持っているものなど大きな隔たりのある彼と私の人生が交わるのは、この一瞬だけのことと思っていた。
けれどラクスは私の心のつかえを取って、私とルピィを家族にしてくれた。ひとと魔物が家族になれたなら、孤児と領主だって家族になれるかもしれないと、夢を見た。
「お、れは……」
息を詰めていたラクスが唇を震わせる。
「俺は、こんな見た目だ。黒い髪に黒い瞳で、魔物みたいで不気味だって」
彼にそう言ったのはラクスの両親だろうか。短くも付き合いの深い滞在期間に、彼のくちから両親の話を聞くことはほとんどなかった。
ラクスもまた、私と同じく親に恵まれなかった子だと感じるのは勘違いだろうか。
「瞳はよく見ると湖底のような深い青ですけど。黒い髪はルピィとおそろいですね」
「ぴぃ!」
ルピィの髪をなでて言えば、愛らしいひなは手をあげてうれしそうに鳴く。
びく、と震えたラクスの湖底がゆらりと揺れる。
「色だけじゃない。王都の貴族から嫌がらせに送られた魔馬の仔だって俺に特に懐いて、使用人もやっぱり俺は魔物なんだって陰で言ってて……」
彼が立派なスレイプニルを持つのは、そういった経緯かららしい。
嫌がらせのためにわざわざ仔馬を捕えてきたのだろうか、と思うと腹も立ったがあえて笑顔を浮かべてみせた。
「あら。だったらその貴族にはお礼の手紙を送らなくちゃ。貴方のおかげで国随一の駿馬を相棒にできましたって」
せいぜい悪い女に見えるように言い切ってみせればラクスは目を丸くして、顔をくしゃりと歪めた。
「……っはは。そうだな、貴族らしく厭味ったらしい手紙を書いて送ってやればいいんだよな」
泣きそうな顔で笑う彼が素直に泣けるよう、私はにっこり笑って続ける。
「何ならニルゥを見せてあげればいいんです。『立派になった魔馬を見せに来ました』なんて。きっと腰を抜かしますよ」
「ははは! それはいい!」
濡れた瞳でひとしきり笑ったラクスは、ふと笑いを収めた。
「エイラは俺がこわくないのか……?」
震える声と揺れる瞳は、まるで叱られるのを恐れる子どものよう。
「私は、ラクスと過ごす時間を愛おしく思います。あなたがルピィと触れ合うのを見ると幸せになれるんです。だからみんなでいっしょに暮せたらいいな、って。あ、領主さまに薬師見習いが言うようなことじゃないですよね」
やさしい彼を追い詰めないよう付け足したところで、不意にラクスが私の前に膝をついた。
真剣な表情で私を見上げたラクスは、大きな手で私の手を取りすがるような目を向けてくる。
「俺と、家族になってほしい。どうか俺を貴女の夫に、ルピィの父親にしてほしい」
「はい、喜んで」
※ ※ ※
ラクスとの婚姻を伝えた導師に大反対された、なんてことはなく。
今すぐにでも領主の館に向かおうと言い出したラクスをパール導師は一喝した。
「花嫁衣裳のひとつ用意する時間くらい待っておれ!」
「導師、そんなことまでしていただくわけには」
導師は真面目な方だから引き取った以上は親の代わりを務めなければと思っているのだろう。けれど申し訳なくて断ろうとしたら、私まで怒鳴られた。
「ひとり娘の嫁入り道具さえ支度できんほどのじじいだと思っておるのか! 甘くみるでない!」
「え」
ぷんぷんしながらあれこれと買う物を紙に書きつける導師に驚いていると、ラクスがこっそり耳打ちしてくれる。
「パール導師、などと名乗って隠居を気取っておられるがパルデンス殿は賢者の称号を持っている。王都にいたころにもあれこれ褒章はもらっているだろうが、辺境に引っ込んでからは新薬をいくつも開発しているからな、私産なら領主の俺より持っているんじゃないか?」
「え……」
ラクスの話した内容が私の驚きに追い打ちをかけた。
(導師が助手欲しさに私をもらってくれたんだと、ずっと思ってたのに)
驚きが限界を迎えた私は、たまらなくなって導師に抱き着いた。
「ありがとうございます、導師さま。いいえ、お父さま!」
「ん、んむ! その坊主が嫌になったらいつでも帰ってこい」
途端に耳まで赤くしながら、けれど決して振り向かず重々しい調子で言う導師に胸がほかほかしてくる。
「そんな! だったら俺がこの村に住もう。領主の館までニルゥの脚なら通うことも可能だし!」
慌てて私と導師を引きはがしにかかるラクスも抱き込めば、わたしと導師とラクスに挟まれたルピィが楽しげに「ぴぴっぴぴっ」と笑っている。
「ふふ、ははは!」
つられたように笑いだしたラクスが全員を抱きしめて、ぎゅうぎゅうになった私たちの笑い声で導師の家のなかは満たされた。
かつてひとりぼっちの孤児だった私に教えてあげたい。
あなたにも、いつかきっと大切な家族ができるんだよ、と。
それもひとりじゃない。たくさんの大切なひとたちに出会えるよ、って。