フェルナンド視点⑭
──なにもかもが順調だった。
「フェル様、いってらっしゃいませ」
はにかみながら俺を見送る天使。
俺の首には彼女が編んだマフラー。
これを幸せと言わずして、何を幸せというのだろうか。
更に言うと仕事も順調であり、最近ニックの機嫌もすこぶる良い。
兄には少々面倒な思いをさせているが、本人は隠し通路を使っての行き来を苦とは思っていない様子。
ふたりきりの時間は定期的に設けているが、ティアとの物理的距離をこれ以上縮めるつもりは無い。そこに多少の我慢はないとは言えないが、迂闊に縮め、自制が効かなくなるのは困る。
初めての夜はやはり、結婚当夜が望ましい。
(……いかんいかん、こんなことを考えていては)
それ以上想像しないように、ニックのはだけた胸を思い出してやり過ごし、顔を引き締める。
ニックの白い肌……彼はもう少し日に当たり、鍛えた方がいいと思う。
そんなことを考えながら、手紙で呼び出された街一番のホテルに着いた。
彼女──ジゼル・ウィンダーはここに泊まっているらしい。
エグゼクティブフロアのラウンジ……確かにここならふたりきりにならず、大事な話が可能。きっと嫌がるだろうが、とても公女らしい発想だ。
「やあ、久しぶりだね!」
呑気な挨拶で始まった会話の内容は、場所である程度推測した通り、呑気なものではなかった。
「悪いが、断る」
「──どうして?」
「どうしてもなにもない……俺はもう他にやるべき事がある。 わかっているだろう?」
騎士になりたかったか……と言われるとそうでもない。俺はただ、俺として必要とされる場所を探していただけだ。
勿論、騎士として仲間達と過ごした日々や、研鑽を詰んだこと……死と隣り合わせの戦を経て生還し、得たものに未練がないとは言わない。
だが、コンプレックスだった兄が俺を認め、必要として、頼ってくれた。それでアッサリ戻った俺に、胸を張って言える程の『騎士の矜恃』などは最初からなかったのだ。
戦で活躍できたのは甚だ受動的な真面目さと、『死にたくない』という気持ち──そして同時に存在した僅かな『死んでもいい』という、投げやりな気持ちからだろう。
今はきっと、省みる。
「俺の『騎士の矜恃』なんてものは、自らの根幹を塗りつぶし、上書きする程のものではなかった……土壇場で動けなければ死ぬ。 殿下のお気持ちは嬉しいが、もう俺には荷が勝ちすぎている」
「そんなことない! 君は──」
「すまない、ジゼル。 戻りたくないんだ」
「──」
「今は、しがみついてでも次期当主になりたい……そう思っている」
「責任か? ……ッ
……ルルーシュ殿はいるのだろう!」
ジゼルは声を荒らげ、テーブルを叩いた。
(知っていたのか……)
公女で王女の側近である彼女だ。
どんなことだって知っていても、そう不思議ではない。
ジゼルが公女で見目が麗しいから王女の護衛になれた訳では無い。そんな名目上のものではなく、彼女の実力だ。
そしてそれまでの間に、どれだけの葛藤と苦悩と努力があったのかを、俺はそれなりに知っていた。
(きっとジゼルが欲しくても手に入れることができないモノを、俺が簡単に捨てているように見えているのだろうな……)
──だが違う。それは、違うんだ。
「ジゼル卿。 君の足元にも及ばないが……俺にも、騎士としての矜恃はあった。 分不相応にも、王太子殿下に目をかけて頂けたことも、誇らしく思っている」
「じゃあ、どうして……ッ」
責任やコンプレックスだけが理由なら、彼女の言葉に揺らいでいただろう。
俺はただ、俺として必要とされる場所を探していただけなのだから。
だけど──
「大切な人がいる。 だから、戻れない」
今俺は、自分が欲しいものを見つけてしまった。
「ルルーシュがいたとしても、譲れない」
──コンプレックスは消えてなんかない。
未だに一線を超えないのだって、ティアが大事だからというのだけが理由なのではない。
名実ともに夫婦になりたいから。
先に手を出してしまって、それに縛られたかもしれないという疑念が残るのが怖いから。
そのくせまだルルーシュには会わせられないでいる。
矛盾だらけで臆病で、格好悪いが……誰かを想って足掻く今の俺が、俺は嫌いじゃない。
「だから……すまない」
ジゼルは暫く黙った後で、「そう」とだけ言った。話を終わりにする時の彼女の癖だ。
「──フェル、今日遊びに行ってもいいだろう? ……それだけ言うんだ、自慢の婚約者殿を見せてくれよ」
「えっ? 君をもてなせる程の用意など……」
生憎一人、馬で来てしまった。
しかももう戻ればいい時間だ。今から指示を出して用意するにも少し困る。
「騎士仲間だろ? 細かいことを言うな。 戻ったら私もなかなか休暇など取れない」
「……」
言葉通り、ジゼルは公女の癖に伴も連れずに、用意を整えた。騎士として扱えと言われれば断る理由がない。
思い出話の混ざった軽口を叩きながら、ふたり、馬で邸へと向かう。
「言っとくが昔みたいに『こんな悪い酒飲めるか』とか我儘言うなよ?」
「あったなぁ~! アイツらが公女公女うるせぇから言ったただの冗談なのに、次の宴会時に樽酒が良いものになっちゃったヤツな!!」
「はは! 皆感謝してたが、その分肉のグレードが落ちててガッカリしたんだよな」
風に靡くジゼルの金の髪。
その横顔に、ドキリとした。
ジゼルは美しく、周りの男共は皆好意を抱いていたように思う。
だが彼女は誰より高潔な騎士だった。
実際の彼女の痛みや辛さは俺にはわからないが、それに俺はとても共感を抱いていた。
(……支えてやれなくて、すまない)
俺だけは彼女を騎士として扱う、そう決めていたのに異性として少し見惚れた事実に罪悪感を覚えた。
その反面で「ティアは少し妬いたりしてくれるのだろうか」などと考えていることにも。
──しかし
「!!?!?」
「……フェル?!」
門から邸へ向かう小道で急に馬を止めた俺に、ジゼルも慌てて馬を止める。
「どうした? 真っ青だぞ?」
「ル……」
「ル?」
口にも出したくない事実が目に入ってきた。
兄とティアが茶を飲んでいる。
しかも、仲良さげに、ふたりきりで。
(いやユミル嬢はいるのかもしれないが何故あんな自然に大体ティアには秘密だと約束していた筈なのにというかこんな俺のいない時にふたりで茶など)
俺は嫌な想像を止められないまま、ジゼルに聞かれるままに答えた。
「ルルーシュ殿と婚約者殿が? ……なにも見えないぞ?」
「俺の視力を舐めるな! ほら! 見えるだろ!? 窓際に、寄り添うように仲睦まじく茶を飲むふたりが!!」
「全然見えん……が、そうだな、君の視力は半端ないんだったな……」
俺は1キロ先の人間を判別できる……と豪語しているだけで、実際の距離はわからない。
ただし、視力が異常にいいのは仲間内では有名だ。
俺が戦で他人より戦果をあげたのも、臆病なのと、悪癖から嫌な想像をして自ら死にに行くような行為ができたことと、視力のおかげである。
「──…………かった。 さあ、ここまで来たんだ、案内を頼むよ」
ジゼルがなにを言ったかはよく聞き取れなかったが、促されるままに馬を走らせた。
──なにもかもが順調だった……筈だったのに。
『ヤキモチを妬かせたい』などと、くだらないことを思った罰が当たったのだ。
もう俺は、ティアと兄のことで頭がいっぱいだった。
悋気がこんなに苦しいのなら、彼女にもそんなこと望むべきではなかったというのに。




