1話
静まりかえった寮の自室で、樹は胸ぐらを掴まれ身動きが取れない状況になり困り果てていた。
「しつこいんだよお前。何のつもりだ、あァ?」
胸ぐらを掴んでいるのは寮の同室者。切れ長な目、すっと通った高い鼻、引き締まった薄い唇…顔を形成するパーツはどれも美しかった。その上配置まで完璧な美形が凄むとすごい迫力だなぁと他人事のように考えたかったが、どうやら先程質問ぜめにしていたのが癇に障ったらしく凄まれているのは紛れもない樹自身だ。そもそも、なぜこのようなことになったのか。それは少し前、今日の昼まで遡る。
「…で、同室者クンとはまだ話せてないんだ?」
そう尋ねてくる親友の長潮天平は、自ら質問したにも関わらず昼食であるステーキ丼をつつきながら興味なさげにこちらを見た。
「話せてないけどさぁ…てんぺーほんとに気になってる?」
「俺の前でそんなあからさまにため息つかれたら聞かないわけにもいかないだろ。それでどうなったわけ?」
「どうって…お察しの通り現状維持だよ。あ、でも一昨日の夜一瞬顔見たかも」
そう言って一昨日の同室者の様子を思い出す。
「一瞬しか見てないけど顔に傷、あったんだよねぇ…」
顔を合わせることがほぼないため普段どういった様子で帰ってきていたかはわからなかったが、怪我を負うようなことが起きたせいで帰りが遅くなっていたのかもしれない。そう考えながら唸る樹を見かねた天平がため息まじりに話した。
「お前の同室者の倉恒泰我くん、上級生に目つけられて喧嘩三昧、しかもその上級生たちを返り討ちにしてるせいで更に目をつけられて…って無限ループしてるんだと」
「え、」
「そういう噂。学園中で話題になってんだけど同室者だからみんな遠慮して樹の前ではその話しないのかもなあ」
天平から聞いた話は樹は全く聞いたことのない話だった。もし、その噂が本当だったなら…
「オレ、倉恒のこと放って置いたままなの最悪じゃない…?」
今までの自分の行動を振り返って樹は頭を抱えたくなった。わざわざそんなことを報告するような間柄ではないし、詮索されるのが嫌いなタイプだとしたら顔を合わせてもこちらに話しかけてこないに決まっている。
「普通だったらそうかもしれんが、あの倉恒だろ?誰かと連むこととかないみたいだしほっといてほしいかもよ?」
「そうかもしれないけど…本人のいないところで考えても仕方のないことだよねぇ」
しばらく考えてから何かを決意した樹は、「決めた!」と言いながら椅子から立ち上がる。
「次倉恒を見たら声かけてみる!!」
「お前、俺の話聞いてたか?あいつは一匹狼タイプなんだよ。しかも上級生に絡まれた後とか絶対機嫌悪いだろ。関わんないほうがいいって」
「そんなこと聞いてみないとわかんないじゃん。噂を鵜呑みにしちゃだめだよてんぺー」
「そうだけどさぁ…」
喧嘩してる姿は何人もの生徒に目撃されているため、これは噂ではなく真実だ。しかし一度決めたら実行するという樹の性格を中等部時代に何度も体験してきた天平は、これ以上は言っても無駄かと判断し、まだ言いたいことはあるがぐっと言葉を呑んだ。
「…怪我しないように気を付けろよ。気を付けてどうにかなる話じゃないかもしれないけどな」
「大丈夫だって!さすがにそこまで攻撃的じゃないでしょ〜」
と、冗談まじりに笑っていた自分に少し八つ当たりしたくなった。天平は真面目に心配してくれていたのではないか、と今になって思う。しかし、昼にあのような話をした後倉恒とばったり出くわしたのが同日の夜である今だったのだから仕方がない。
「何回も言ってるけど、そんな傷作って帰ってこられたら気にならないわけないじゃん!普通はそこまでの傷できないから!!」
「何回も言ってるけどな、お前には関係ない話なんだからいちいち首突っ込んでくんじゃねえよ」
倉恒に睨みつけられ怯むが、ここでどうにかしなければこの先きっとこのままの関係で終わると感じた樹は、目をそらすことなく負けじと対抗した。
「心配しちゃ悪い!?怪我だって手当もしないで放置してるし…せめて手当させてよ、心配なんだよ」
「…は、」
「上級生に目をつけられて喧嘩してるって、オレ、今日初めて知ったし…そんな噂知ってたらもっと早くから声かけてた…」
尻すぼみになっていく言葉につられてか、胸倉を掴む力もだんだん弱くなっていく。覇気がなくなりうつむく様子がどうもおかしく思えた倉恒は、樹の顔を覗き込んでぎょっとした。
「お前…なんで泣いてんの」
「そんなの…倉恒のせいじゃん!話聞いてくれないし怖いし!倉恒の馬鹿ー!!」
「はぁ…?」
どん、と倉恒を突き飛ばした樹は、それまでの緊張もありそのまま泣き出した。突然状況が変わってしまったことに困惑し、先ほどまでのことは忘れ泣き出した樹をどうにかしようと思ったが、人を慰めるという経験などあるわけもないためどうしたらいいかなどわかるはずもなく。
「わかったから落ち着け、頼むから泣き止んでくれって」
「うぅ…じゃあ怪我の手当てさせてほしい…」
「わ、わかった」
「あとオレのこと無視しないで…オレ、倉恒と仲良くしたいし」
「…俺と仲良くしたいとか物好きだな、お前。俺の噂とか知らねえのかよ」
はあ、と大げさにため息をつく倉恒を涙目のまま睨みつける。
「噂とかどうでもいいし自分の目で確かめたことしか信用してない!もしかしたら倉恒が雨の中子猫拾ってるタイプの不良かもしれないじゃん!優しいかもしれないじゃん!」
大真面目に言い切った樹に面食らった後、倉恒は肩を揺らして笑いだした。
「お前…意味わかんねぇって…!そんな典型的な奴いねえだろ、猫拾ってたら優しいやつなのかよ!ははっ……あー笑った」
「なっ…!オレは真剣に話してるのに!なんで笑うの!」
「こんなに笑ったの久しぶりだわ。お前、名前なんていうの?」
目にうっすら涙を浮かべながら笑う倉恒を、樹は信じられないものを見たかのような目で見る。
「倉恒…同室者の名前すら知らなかったの…?」
「あー…悪ぃ、まさか話すことになると思わなかったから同室者とかどうでもよくてな」
「三年間一緒の相手とよくそれでいけると思ったよねぇ…千屋樹だよ。よろしくね、倉恒泰我くん」
「あぁ、よろしく」
だがこうして会話できているのだから、少し怖い思いはしたが話しかけることができてよかったと思う。話しているうちに先ほどのピリピリした雰囲気は抜けていたし、倉恒が怖いと思う気持ちは少しもなくなっていた。
「ねえ、上級生に目をつけられてるって話ほんと?だから遅い時間に怪我して帰ってくるの?」
「本当。俺だって好きで喧嘩してるわけじゃねぇよ」
「そっか。…あっ、とりあえず怪我の手当てしよーよ!救急箱持ってく、っ?」
救急箱を取りに行くため樹が立とうとすると、ぐいっと腕を引っ張られる。掴まれた腕の先を見ると、倉恒がこちらをじっと見ていて、不覚にもどきっとしてしまう。
「な、何?」
「なぁ、樹って呼んでいい?」
少し首を傾げながら聞いてくるのは自分の顔がいいことをわかってわざとやっているのか無意識なのかわからないが、断れる人間がいたら是非とも教えてほしい、と考えながら樹は答えた。
「いいけど…オレも泰我って呼ぶよ?」
その答えを聞いた倉恒は一瞬驚いたような顔をした後、こんな顔もできたんだ、と思うほどの笑顔を浮かべ「いいね、それ。嬉しい」と言われ、思わず顔が真っ赤になってしまった。
「そ、んな喜ぶことじゃないでしょー?」
「俺にこんなこと言ってくるの樹くらいだし。照れちゃって、かわいい」
そう言いながら笑顔で頭を撫でてくる倉恒に、今後この笑顔に勝てることはないんだろうなと感じながら救急箱を取りに行くのであった。