ホラー短編 夜泣き
午前2時半
大学生には草木も眠る丑三時など関係ない。
アルコールを燃料に動き続けるか、エナジードリンクに突き動かされるかの違いでしかない時間。
今回はどちらでもなかった。
ただなんとなく、自由と怠惰を享受し続けた時のように、ネットサーフィンやら友人との通話をだらだらと続けた結果がこの時間だった。
いかに大学生と言えども、これ以上夜中を咀嚼し続けるのは無意味だ。
そう思い、彼は怠惰な夜を終わらせるべく、ベッドに横になろうとした。
するとその時
誰もが発したことのある、この世で最もか弱い生き物の声、おぎゃあ、おぎゃあという赤ん坊の泣き声が突如壁越しに聞こえ始めた。
深夜の静寂をついて響いた泣き声は、ぎょっと彼の身体が一瞬硬直させるに十分だった。
しかし事態はあまりに平凡で、彼の警戒を徒労にさせながら終息した。
誰かが歩く気配が隣の部屋でした後、泣き声はすっと嘘のように治まった。
ただの夜泣きか
そう結論づけると、彼は隣室の赤ん坊を思い浮かべて、それと同じように安らいで眠りについた。
明くる日、彼が一限の講義に行こうと部屋を出ると、隣の部屋のドアが同時に開いた。
彼より10歳ばかり歳上のスーツ姿の男が欠伸を噛み殺しながら出てくる。
その男はドアの奥に向かって「いってきます」と声をかけた。
子供の夜泣きで睡眠不足の父親、の概念を擬人化するとちょうどこのようになるのかもしれない。
彼と視線が合うと、その男は軽く会釈をして歩いていった。
夜泣きも大変だなあ、と、昨晩あったであろう奮闘に思いを馳せつつ、彼はその男を見送った。
ある日彼は大学の友人を部屋に招いた。
招いた、という表現は適切ではないかもしれない。
彼が下宿先で一人暮らしをしているため、集まって酒を飲むのにちょうど良い溜まり場として自然に決定したのだ。
彼は隣人に赤ん坊がいることは事前に伝えており、友人達もそれには同意していた。
しかし事前の善意と配慮は、アルコールいつの間にか押し流されていく。
そして日付が変わる頃には彼らは小さな狂騒と言ってもいい状態となっていた。
そんな若さと酒の狂騒も、深夜2時半には峠を越した。
うるさいくらいの笑いや駄弁りが途切れた一瞬、深夜にあるべき静寂にそれは差し込まれた。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあという赤ん坊の泣き声。
そしてすっと止まる。
突如とした泣き声の闖入に、宴の興が削がれるが、それよりも、やってしまった、という罪悪感を含んだ表情を彼らは顔を見合わせた。
「やべっ、隣に赤ちゃんいたんだっけ。うるさかったかな…」
「もう寝ようぜ…2時半だし…」
「そうだな….」
善意の発露により、急速に宴はお開きとなった。
明日謝っとこうぜ、今度から集まるのはお前ん家な、と他愛もないやりとりをした後、彼らは寝入った。
それから彼の家が溜まり場になることはなくなった。
善意というのもあったが、狂騒を存分にできないのが嫌だった、というのもまた本音だったが。
後日、友人の下宿先で存分に騒いでいると、ふと、先日のことを誰かともなく口に出した。
「気兼ねせずに騒げるのって良いな、やっぱり」
「あんときびびったからな…」
「そういや謝ったんだっけ?」
「いや、全員昼過ぎまで寝てたw」
「あー、俺帰ったら謝っとくよ」
「もう前の話だし文句も言われてないから良くね?」
「それにしてもさ…」
「ん?」
一人の友人の言葉にその場の全員が注目する。
「あの赤ちゃん、ずいぶん泣き止むの早かったよな」
なんということはない指摘。
「そうなん?」
「いや、俺姉ちゃんに最近子供生まれてさ、夜泣きスッゲー大変だって言ってんだよ」
「あんなにピタッと泣き止むなんてなぁ…」
「よく覚えてんなお前…」
「ああ、俺あの日朝5時前くらいにトイレに起きたんだよ。その時も泣き始めたと思ったらピタッと泣き止んだし」
「へえ」
単なる雑談として、流れ去って終わるような
会話だった。
期末試験が近づき、普段遊び回っていたツケを支払う時がやってきた。
今度はエナジードリンクに背中を押されながら彼は起き続けていた。
意味の理解よりも、文字列として脳に刷り込むため、レジュメのコピーと睨めっこしていると、
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ
そしてすっと泣き声が消える。
時計を見ると午前2時半だった。
ずいぶん泣き止むの早かったよな
友人の言葉が思い出される。
確かに泣き止むのは早かった。だがそんなことを思い出している時だろうか。
そんなことよりもレジュメの内容を暗記しないと
そう自分に言い聞かせながらレジュメの文字を目で追い続けた。
しかしゲシュタルト崩壊を起こした後のように、文字列としてですらレジュメの内容は頭に入ってこない。
意識が別の方向に引っ張られているのだ。
もう寝ようぜ…2時半だし…
先日の自分の会話が急にフラッシュバックした。
2時半きっかりに泣き出してずっと泣き止む赤ん坊
自分のくだらない想像に呆れて彼は乾いた笑いを漏らした。
もっとも、口が引きつっただけだったが。
そんな機械みたいな赤ん坊がいるわけない
いるとすれば…
それ以上を想起しようとして、彼の背筋に鳥肌が立った。
「もう寝よう…」
電気は消さなかった。
次の日
一夜漬けで眠いし、早めに寝て明日早く起きよう
そう思ってベッドに横になったのが23時頃だった。
疲労は前日の恐怖すら押し流し、彼をすぐさま眠りへと落とし込んだ。
しばらくの後、何かに押し上げられるように彼は目を覚ました。
尿意を感じているわけでもなく、喉の渇きもない。
ただ不意に目が覚めた。
悪夢に追いやられた記憶もない
本当にただ目が覚めたのだ
まるで朝のように
しかしはっきりと感じる静寂さ、そしてそれを薄く塗り潰す、なんとなく淀んだ空気
枕元のスマートフォンに手を伸ばすことすら億劫だった
確認などせずともまだ夜中だ
そう思い、彼は再び眠ろうと目を閉じた。
朝のように目覚めたせいか、意識がクリアなまま視界だけを塞いだ格好となる。
クリアな意識はそのまま思考へと連結していく。
テレビか何かで言っていたのだろうか。
盲目の人は視力がない分、聴力が研ぎ澄まされていると。
もし目を閉じている間がそれと同じならば
その時だった。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ
またあの泣き声が不穏を伴って響いた。
研ぎ澄まされ始めた耳には余計に生々しく飛び込んでくる。
彼はギクリとし、思わず布団を頭から被る。
それはまるで小さい子供が恐ろしいものから逃げるようは様子だった。
壁と布団越しでも、何故かその泣き声は、いやにはっきりと聞こえ、すぐにまたピタリと止む。
布団の中にこもった息苦しさから、彼は顔を出した。
隣の部屋からは、先程とはうってかわって物音ひとつしない静寂が漂う。
2時半きっかりに泣き出してすっと泣き止む赤ん坊
そんな機械みたいな赤ん坊がいるわけがない。
いるとすれば
彼は枕元に置いた携帯電話に手を伸ばす。
それをすることで、彼の予想は確信に変わり、恐怖の輪郭が完成する可能性は十分にあった。
しかし、彼は衝動を抑えられない。
半ば確信をもってホーム画面を起動する。
画面の光が暗闇に慣れていた瞳孔に突き刺さり、瞼を細める。
彼は確信した。
表示されていた時刻は、2:30だった。
それから試験期間が終わるまで、彼は友人の家を転々とした。
毎日のように分単位で同じ時間に泣き始める赤ん坊が現実にいるとは思えず、その隣室で生活をすることには耐えられなかった。
当初は事故物件を摑まされたのかとも思ったが、家賃が安く、得したという感覚は無かったことを思い出す。
しかし試験の忙しさと友人の家での安眠が少しずつ彼を赤ん坊から遠ざけ、徐々にそのことを忘れさせてくれた。
そして試験期間終了日、彼は荷物を纏めていた。
春休みに入り、実家に顔を出さないかという両親の誘いに一もなく二もなく乗ったのだ。
一番の目的は、帰省よりも妙な赤ん坊の泣き声から逃れたいということだったが。
荷物を纏め終わると、彼は耳栓をしてベッドに入った。
赤ん坊の泣き声は、体感的に深夜の静けさの中で聞こえる程度の音なので、これで泣き出したとしても気付かずに安眠できるだろう彼は思った。
心なしか、布団の感触が普段より心地良い。
試験も終わり、明日からは春休みで、明日からしばらく赤ん坊のことで悩まなくても良いのだ。
解放感に浸りながら、彼は眠りについた。
深夜の静謐が彼の部屋を支配している。
もぞもぞと寝返りを打った拍子に片耳の耳栓が転がり落ちるが、既に熟睡している彼は気に留めることもなく、寝息を立てる。
突如
おぎゃあ!おぎゃあ!おぎゃあ!
これまでとは明らかに違う音質の泣き声がけたたましいと言っていい勢いで鳴り響いた。
彼は飛び起き、震えながら布団を被った。
これが人間の赤ん坊の声であるものだろうか。
深夜の静寂で壁越しに聴こえてくる音量ではない。
耳栓を貫通する勢いで異様な泣き声が隣室から響く。
しかしこれまでの体験が僅かながらの希望を持たせる。
“すぐに泣き止むはず”
おぎゃあ!おぎゃあ!おぎゃあ!
終わってくれと祈りながら電話のコール音のようにいつもの三回を数えた。
おぎゃあ!おぎゃあ!おぎゃあ!
ただ赤ん坊の泣き声が、異常な大きさで響き続けるだけだった。
「なんでだよっ!なんでだよっ!」
悪態をつきながら彼は布団を被って耳栓を押し込む。
うるささは緩和されたが、それでもなお泣き声は止まらない。
にわかに玄関の外が騒がしくなった。
「すいませーん!」
「こんな夜中に…」
と言った意味のある言葉が泣き声の喧騒に混じる。
異常な状況での日常の欠片はどんなに彼に取って救いとなっただろうか。
「警察を呼びますよ!」
玄関のドア越しに聞こえた声に押されて、怒りが恐怖を払い除ける。
毎日いい加減にしてくれ
そう怒鳴り込もうと共用の廊下に彼は出た。
寝巻き姿の近所の人が集まってドアの前を取り囲んでいる。
既に他の誰かが通報したのか、程なくして警察が到着した。
この頃には既に彼の中ではだいぶ恐怖は緩和されていた。
警察で対処できることに何を今まで怯えていたのだろうかと、自嘲する余裕すら覚え始めていた。
インターホン越しの問答が続いた後、中で絶叫する声が何度も響き、それっきり静かになった。
それから彼は警察にここ数日のことを軽く質問され、従順に答えた。
全てが終わって自室のベッドに戻ったのはもう明け方頃だった。
解決した、という安心感から、彼の体から力が抜ける。
彼が帰省から戻ると、隣室は空き部屋となっていた。
近所の人から話を聞いてみると、隣室に住んでいた息子が謝罪に回った後で引っ越していったそうだ。
詳しいことはまだわからないままだったが、それ以上探ろうとは思わなかった。
ただ、安心して眠れる夜が戻ってきた幸福感を噛みしめ続けたかった。
「え?赤ん坊はいなかったと?」
「ええ、なんでも十数年前に子供を亡くして、その時のショックでおかしくなってしまったみたいで….」
「で、録音してた子供の泣き声を夜中にタイマーで鳴らして起きることで、すこしでも生きてるって思いませたかった、か…」
2人の警察官が昨晩の事件の聞き取り結果をまとめていた。
通報内容から最初は虐待かと思ったものの、騒音トラブルの様相を見せ始めていたため出動した結果がこれだった。
「可哀想な話だな」
「ええ、十数年、あちこち引っ越して回ってたみたいで…」
刑事ほどではないが、仕事柄どうしても嫌悪感のある事態に遭遇することは避けられない。
だが、今回の事件は嫌悪感よりも哀しさが先行していた。
「それがそのテープか….」
「ええ、いつもはmp3に変換したりしてたらしいんですけど昨日たまたま引っ張り出したみたいで…」
「確認して返してやるか…」
「そうですね…」
少しの会話の後、カセットテープをプレイヤーに入れ、再生ボタンを押す。
十数年で多少の音質の低下はあるが、問題なく泣き声が流れ出す。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、
典型的とも言えるようなごく普通の泣き声。
ホームビデオと同じような感覚で録音したのだろうか。
だとすれば親自身の声も入ったりしそうなものだが…
おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ
二人は顔を見合わせた。
泣き声のトーンが変わったような気がしたからだ。
おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃっ、ぎゃっ
段々と泣き声のインターバルが不規則になっている。
ぎゃあっ、ぎゃあっ、ぎゃっ、ぎゃあっ
引きつったような声が混じり始める。
おぎゃっ、 ぎゃっ、 ぎゃっ
泣き声の間隔が空いた。
おぎゃっ っく っく
声が弱々しくなり、引きつけのような音がメインになっていく
っく、っく、おぎゃっ
赤ん坊の声は段々と小さくなっていった。
っく っく
引きつけのような声が間隔を大きく空けて鳴っている。
っく
声が聞こえる時間より、何も音が入らない時間の方が長いほどの間隔になった。
ガチャリ
泣き声でも環境音でもない、無機質な音が二人を現実に引き戻した。
テープの再生が終わったのだ。
二人の脳裏から、哀れみはかき消されていた。
たった今聴いたカセットテープの音声から、それこそ吐き気を催すような想像が次々に巡る。
どちらかともなく口を開いた。
人は理解できないものに対して恐怖を覚えると言う。
だからこそ
「これ、何を録音したんだろうな…」
二人の恐怖が、駆け上がった。