第一話 お嬢様の帰還
大学を主席で卒業し、その後の研修を好成績で修了した簾舞美希は、新五大貴族の一つである吉野家に配属になった。新卒では珍しことである。念願の貴族の館で働く事は、美希にとって憧れでありこの上ない幸せなことだった。
そんな職場に配属されて、早一ヶ月が過ぎ去った。
美希は、配属されてすぐに、吉野家のお嬢様である吉野瑞希の私室の保守管理の担当に割り当てられた。最初の一ヶ月は先輩と一緒にOJTで仕事を覚えていたが、優等生である美希は、短期間で仕事の内容を理解し、完璧にこなしたから、すぐに教育係の先輩に認められ、本日から一人で担当する事になっていた。
先月から学校は夏休みに入っていたので、中学校に通う瑞希お嬢様は現在、王都にでかけており留守である。それ故、美希は未だ瑞希に会ったことがなかった。
話によると、絶世の美人らしい。美少女だ。
瑞希はほとんど人前に姿を表さないし、メディアへの露出は皆無である。それゆえ、美希も生の瑞希に会えるのが楽しみで仕方なかった。
「今日も完璧!」
その日も朝から瑞希の部屋の掃除をしてた。
家主が居ないから、そうそう汚れたりはしないのだけれど、美希はいつもどおり気合を入れて仕事終わらせた。そして入口から部屋を見回しつつ、その完成度に満足する。
けれどその日に限って油断をしてしまい、つい心の声を口に出してしまっていた。
「へぇ、すごいわね」
その直後、部屋の入口、つまり美希の真後ろから声が聞こえた。
それは、仕事ぶりをチェックに来る先輩のものでも、上司である主任のものでも無かった。
聞いたことのない、美しい声だった。
美希を追い抜いて少女が部屋に入っていく。
身長は美希よりやや低く、美しいストレートの黒髪は腰まで伸びている。黒を基調としたミニのワンピースを身にまとっているその姿には、尋常ならざる気品が感じられた。
まさに、お嬢様だった。
「瑞希お嬢様?」
瑞希に会うのは初めてだった。
けれど美希は、ひと目で分かった。
彼女のオーラは、一般人には真似のできるようなものではなかったからだ。
瑞希は、部屋の奥まで進んでから振り返る。
その姿は、まさに天使だった。
天使になんて会ったことはないのだけれど。
「あなた見慣れない顔ですね。新人さん?」
「はい。はじめまして、簾舞美希と申します。お嬢様のお部屋の管理を任されています。よろしくおねがいします」
なんとか自己紹介は無事にできた。完璧だ。
瑞希は、こちらこそとつぶやいてから、一気に美希との距離を詰め、顔を覗き込んできた。
「あなた、いくつ?」
「今年で二十二歳になります」
「新卒なの? 珍しいわね」
そういい終わると、瑞希は突然右足を振り上げると、美希に蹴りを入れてきた。
スカートが捲れ上がる。
残念ながら中は見えなかった。
美希はそんな事を考えながらも、反射的に左腕で防御すると同時に右拳で反撃をした。
幼い頃から護身術として身についていた動作ではあったけれど、お嬢様相手に決してしてはいけないことである。
それに気づいた時には遅かった。美希はその腕を瑞希に掴まれベッドに投げ飛ばされていた。仰向けに横たわる美希の上に、瑞希が素早く覆いかぶさる。
まるで押し倒されたかのような体勢に、美希は戸惑い、動くことができなかった。
「あなた、かわいいわね」
想定外の言葉に、美希は顔を赤くする。
言われ慣れない言葉をかけられ動揺してた。考えはまとまらないし、状況が理解できていなかった。
「あ、あの」
次第に瑞希の顔が迫って来る。瑞希は無言のままだけれど、吐息が美希の顔にかかる。
甘ったるい匂いがした。
このままではやばいと解っているのに、力が入らず、少しも動くことができなかった。
「失礼します。お荷物をお持ちしました」
唇が触れそうなほどに近づいて、もうだめだと観念した時、第三者が部屋に入ってきた。
瑞希の側近だ。
「ああ、ありがとう」
瑞希は、動揺することなく美希から離れると、ベットから飛び降りた。
美希も慌てて立ち上ががり、逃げるように入口へと向かう。
「何をやっているんですか」
同僚の視線が痛かった。軽蔑するような冷たい視線だ。
それに、言い訳ができる状態でもない。
「すいません」
美希は入口で立ち止まり振り返ると、部屋に向かって深くお辞儀をした。
「失礼します」
大きな声でそう言ってから顔を上げた美希が見たのは、楽しげに微笑む瑞希の笑顔だった。
2021.2.25 誤字修正他