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森の奥で

作者: 日次立樹

 昨日もしあなたが、私を愛しているといってくれたなら。私はきっと苦しんだでしょう。苦しみながらあなたを憎んで、愛して、そうして死んでいったでしょう。

 だけどあなたは何一つ、私にうそをつかなかった。愛してるだなんて死んでも言わなかった。

 だから私は何もかもをあなたのせいにしてしまうことはできなくて、だけどほかにすがる人もいなくて、こうして一人暗い森の中をさまよっているのです。

 ――森の奥で――



 私がその森に行こうと思い立ったのは、そう突飛な行動ではなかった。ただ、それが夜中だったというのはおかしいかもしれないが。


 私は若手としてはそこそこに名の知れた、だが誰もが知っているというほどではない小説家だ。その時は丁度執筆に行き詰って知り合いのやっている旅館に来ていた。

 旅館からそう離れていない所に森があり、そこは私のお気に入りの場所だった。普段は昼間にふらりと散歩に出て、そこに咲く花や落ちている木の実を眺めるのだ。


 その日は何とか筆が乗ったものだから、調子に乗って夜中過ぎまで書いていた。一段落着いて、凝り固まった体をほぐす。

 開け放していた障子を閉めようとして、明かりもつけずに書いていたことに気づく。今夜は月が明るい。だから手元もそう暗いようには感じなかったのだろう。


 月に誘われるように、私は外に出た。そして向かった先があの森だ。


 その女は、ひどく弱弱しかった。生気のない瞳をして、ふらふらと今にも倒れそうな歩き方をしていた。白くほっそりとした手足が月明かりに白く浮かびあがる。

 あまりにも美しく儚い風情だった。そのせいで初めは、幽霊にでもあってしまったのかと思ったほどだ。だがそんなことはなくて、彼女はちゃんと生きた人間だった。


 暗い森の中に女が一人。気味の悪いことだ。そう思いながらも不思議と違和感がなかったのは、やはり彼女が死に場所を探していたからだろうか。


「どうしてついてくるのかしら」

 私に気づき、振り返った彼女は言った。しらじらと照らす月光の効果を差し引いても、きれいな娘だった。ろくに恋もしないままに年を取ってきた私などよりよほど若いのではないかと思った。だがもっと年上であるようにも思った。

 落ち着いた口調で私を批難する姿は気がふれているようには到底見えなかった。

 だけど彼女は言うのだ。


「死に場所を探しているの」


と。


「ねえあなた、いい場所を知らないかしら? うんと森の奥のほうで、三年くらい誰にも見つからないでいられるような場所。だけど全く人が来ないわけじゃなくって、十年くらいしたらひょっと見つかってしまうようなところ」

 そんな都合のいい場所があるものか。少なくともこの近辺にはない、と私は答えた。私にしては珍しい、強い語調だった。


 私はその時、妙な正義感にとらわれていたのだ。例えば目の前に病気で死にそうな人がいたら、手を握ってあげたくなるような感じの。その人が実際死んだからって赤の他人で泣きもしないくせに、ただ相手のためにという大義名分で優しくしようとする。

 私は彼女を救ってやらなければならないと思ってしまったのだ。偽善というのは、こうやって生まれるのだ。


「どうしてあなたは死にたいの。まだ若いでしょう」

 艷やかな彼女の髪に月夜が銀の輪を描く。夜の森で、美しい娘と生死について問答するーーまるでどこかの舞台の一幕のようだ。


「若いか年寄りかなんて、死にたくなることには何の関係もないでしょう」

 彼女は言った。それは実際、そうなのだろう。私が今まで真剣に死のうだなんて思ったことがないだけで。


「どうして、しにたいの?」

 いつの間にか質問は私の好奇心を満たすためのものにすり替わっていた。

 私は知りたかった。彼女が今死のうとしているその理由を。


「教えない」

 それが分かったのか、彼女は不快そうに眉をひそめた。私は別にそれを気にするほど繊細な人間ではなかった。

 暗い森の中には、私と彼女のほかには誰もいなかった。これから死んでいく人に、どう思われようと知ったことではない。


「彼女はくるりと背を向けて去っていく。降り積もった落ち葉を踏んでいく足取りは不安定だ。かかとの高いヒールをはいているからかもしれない。そこにあるのは違和感だった。こんな森の中に、歩きにくい靴で入る人間がいるだろうか? 丈の短い可憐なワンピースも、秋の夜には肌寒いだけだ」


 彼女は振り返った。私を睨みつける瞳がきらりと銀の光をはなった。

「何が言いたいの、あなた」

 何も。ただ彼女にはどんなストーリーがあったのかと、想像したら止まらなくなっただけだ。これは私の癖のようなものである。


「私は物書きでね。だから君の――君の復讐に、何かお手伝いができるかもしれない」

 復讐。私がその単語を口に出した時、彼女の口元はわずかにひきつった。それを見逃すほどお人よしではない。


「あなたって、おかしい」

 それはよく言われる。書くことを愛するあまりに人を愛することに何か欠陥でもあるのかと、つい最近恋人らしき人にも振られたばかりだ。


 僕は彼女の非難を流して、やや意地の悪い口調で指摘する。

「三年。君が死んで、彼がほかの人を愛するのに、三年。君を忘れるのに、十年?」

 なんとも不確かな数字だと思う。彼女がどのような計算をしてその年月を導き出したのかは知らないが、人の気持ちというのは簡単に移ろうものだ。


「私、復讐しようだなんて思ってないわ」

 彼女は細い腕で自身を抱きしめて言う。ほら、そんな腕がむき出しの服を着ているから寒いのだ。私はカーディガンを脱いで彼女に渡す。


「それなら、どうして死ぬの?」

 命を絶って、それで彼が罪悪感でも抱けばいいと、そう思ったのではないのか。そうして追い詰めれば、彼女はぽろぽろと涙を流した。


「だって、仕方ないじゃない。あの人、私がいなくなったら私のこと忘れてしまうわ。私のことなんて愛してないもの」


 それは何とも悲しいことだ。だが私は思う。

 ――はたして彼というのは、彼女が命を費やすに足る人間なのだろうか?


 彼女はとても美しいおんなだった。乱れてはいるがつややかな黒い髪。闇の中に白く浮かぶ細いきゃしゃな体。こちらをなじる度に細く息の漏れる赤い唇。吸い込まれそうなほどに深い漆黒の瞳。

 彼はそんな彼女の人生最後の恋を飾るのにふさわしい男だろうか?


「そういうことならやっぱり、私は君の復讐を手伝ってあげられるよ」

 私が書くのは所詮空想の話で、実際の人物なんかと関連付けられるようなものではない。だからその中で登場人物がどんなひどい目にあおうと誰も嘆き悲しみはしない。誰も、思い悩むことも良心の呵責を感じることもない。

 心当たりのある人間以外は。


 直接的には誰も傷つけることのない、そんな優しい復讐の方法があるのだといえば、彼女は眼を瞬かせた。

「そう、なのかしら」


「そうだよ。私はこれでも結構有名人なんだ」

 おどけて言って見せれば彼女は微かに笑う。話を聞かせてくれるなら謝礼もはずもう、ちょっとそこらのレストランで奢ってあげるよ、といえば堪え切れなかったのか声をあげて笑った。


「あなたって、おかしい」

 だけどいい人ね、と彼女は言う。

 これはただの偽善と好奇心。だけどどうやら一つの命を救ってしまったらしいことに自然と笑みがこぼれる。

「じゃあ、行こうか」


 それは月の綺麗な夜の一幕だった。






「あなた、本当に有名人だったのね」

 カフェで待ち合わせをしていた彼女は私を見るなりそういった。


「だからいっただろう?」

「ここまでだなんて思わなかったわ」

 彼女をモデルにした小説は飛ぶように売れている。やはり生きた人間の言葉というのは力がある。私はそれを引き出しただけのこと。


「もう彼のことなんて忘れてしまったわ」

 かえって可哀想になったぐらいよ、知らないうちにこんなに有名になってしまって、という彼女の声に嘘はないようだった。


 彼女は綺麗な女性だった。綺麗に巻かれた艶やかな黒髪、薄く上気した頬、少女の様な淡い紅の引かれた唇。きらきらと潤んだ黒の瞳。少し丈の長い清楚なワンピースも、幼い顔立ちの彼女によく似あっていた。


「ねえ、先生」

 ○○先生、という呼ばれ方をするのは職業柄慣れているはずだったが、彼女に呼ばれるのは少々気恥ずかしく感じた。

「その呼び方はやめてくれ。背筋がかゆくなる」


「あら、先生は先生よ。だっていろんなこと教えてもらったもの」

 別段私は何かを彼女に伝えようと努力したことはないし、特別に教え諭したわけでもなかった。私は彼女の復讐の共犯者になっただけだ。


 彼女は熱いカフェオレの湯気に紛れるように顔を伏せて囁く。


「先生、私、きっと素敵な恋をするわ。あんな男が人生最後の恋だなんてもったいなさすぎるもの」


 今はまだ冬だ。彼女の傷だって完全に癒えたわけではないだろう。寒いから、まだ時々は痛むのかもしれない。だけどそれはいつか古傷になって、誰も気にしなくなるだろう。


「そうしたまえ」


 何にせよ、彼女が前向きになったのならそれはいいことなのだろう。偉ぶってそんなことを言い、砂糖を入れすぎたコーヒーに口をつける。む、こちらは少々ぬるいようだ。


「素敵な恋をして、先生に報告に来るわ。何度でも失恋して、酸いも甘いも噛み分けたイイ女になって、また会いに来るから」

 そしたらまた、私を主人公にして頂戴ね、という可愛らしいおねだりに私は頷く。


「わかったよ」

 ぬるくて甘くて苦い最悪なコーヒーを飲み乾して、胸の中にこびりついた感情を押し流す。


「最後はハッピーエンドにしてね。先生みたいな、おかしな人と人生最後の恋をするんだから」

 突然、落とされた爆弾に息が止まる。限界まで見開いた瞳に映るのは、悪戯が成功した子供みたいな顔をする彼女。まるで初恋のまっただなかにいる青年のように、私の鼓動が早くなる。


 ああ、そんな美しい顔をしないでくれ。恋に落ちてしまうから。いや、本当はとうに落ちてしまっているのだ。私がただ、認めてしまえなかっただけで。


「――その、最後の恋の相手というのは、」

 私が立候補してもいいのかな。

 掠れた声で言うと彼女は私の腕を掴んで立ち上がらせた。


「望むところよ」


 どうやら私が森の中で見つけたのは幽霊でも死神でもなく、美しい恋人だったようだ。全く予想外だったが、これはこれで私らしいとも思う。カフェから出て、賑やかな通りを並んで歩く。

 つないだ手に、微かに春の息吹を感じた。


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