廃線をあるけば
数週間前に父は死んだ。
突然のことだった。夕方頃に警察がやってきて、電車の前に飛び出し轢かれたのだ、と言いながら軽いバッグとカメラを差し出した。どうやら残っていたのはそれだけだったようだ。警察官たちは私に同情の眼差しを向けて去っていった。
それからは怒涛といっていいものだった。母も幼い頃に病死している私は、葬儀を親戚に手伝って貰いながらなんとか済ませた。親戚は口々に私を慰めるような言葉をかけ、ついで何故あの人がと口にした。そしてそそくさと去っていき、私に聞こえないように私の今後のことを相談しているのだ。そんな様子を眺めながら、列車事故は巨額の賠償でも払うことになるのだろうか、とどこまでも他人事のようなことを考えていた。
私ももう高校三年生だ。それに元から、大学進学なんて望んでいなかった。わざわざ引取り先を考えて貰うこともない。今までだって一人でやってきたのだから何も変わらない。そう言うと、彼らはしぶしぶと納得した様子を装っていたが内心安堵しているのが丸分かりだった。
悲しくない。わけじゃない……と、思う。ただ実感がわかないだけかもしれない。
もともといないのと同じだった人が二度と帰ってこないだけ。それだけのことだ。
私と父との関係はとても薄いものだった。昔はそれほどではなかったと思う。覚えていないけれど。
多分決定打になったのは母が亡くなったことだ。あの日から父は笑うこともなくなった。家に帰ってくることも少なくなった。やり取りは机に置かれたメモだけ。幸い、母の闘病生活の中で、私は一通りの家事は出来るようになっていたから困ることはなかったし、父はそれなりに名の知れた写真家だったからお金の方も心配はなかった。
彼は、距離を測りかねているようだった。年頃の娘との接し方が分からず、戸惑い、そして恐れているようだった。繊細な人だったから、拒絶されることが怖かったのかもしれない。それとも母の死を上手く飲み込むことができず、彼女が色濃く残るここにいることが出来なかったのか。たぶん、両方だ。
だから私は父をよく知らない。私にとって彼は、血の繋がりのある他人に等しかったのだから。
人は他人の不幸話には敏感だと実感する。こういう時、明らかに知り合いからの注目度が変わってくるのは何故なのだろうか。普段は私を気にも留めない様なクラスメイトまで、気遣わしげに目線を私に送っては気の毒にだとかそんなことをささやきあう。
まるで私よりも傷を痛がっている様でそんな姿を滑稽に思い、上がりそうになる口角を抑えた。
教室に辿り着き席に座る。
いつも話しかけてくれる友人も今は気を使ってくれているのだろうか話しかけてはくれなかったが、それが逆にありがたかった。
学生鞄から数枚の写真を取り出す。父の死んだ日に撮られた写真だ。
それは、何の変哲もない近くの廃線の写真だった。人が多い写真からだんだんと人が少なくなり、景色も明るい所から暗い所へとなっている。
最後は踏切で途切れている。父が死んだ場所だった。
教室の中はざわざわと騒がしいが、その中でも一際騒がしい女子のグループがあった。彼女達のよく通る声が私の耳に入る。
「ねぇ……。あの踏切、また事故があったんだって」
「え? あの○×町の?」
「そうそう! 会いたい人に会えるってやつ!」
きっと彼女たちは私の父がその場所で死んだことを知らない。
「最近ネットでも騒がれ出してるよね。新!都市伝説ってやつ」
「アハハ。そんなことあるわけないのにね」
都市伝説……か。
その後の授業のことは覚えてない。周りから見ればきっといつもの私だっただろう。私は最後の授業の終わりのチャイムを聞くとすぐに帰路についた。
もう私一人しか使わないパソコンを開く。私の知りたいものは思ったより早く見つかった。
普通の場所だと思っていた。でも父の写真の踏切はこのサイトでは彼女達の言った通り会いたい人に会えると書いていた。
噂の手順は、父の写真の道筋通りに歩き踏切を渡り終えて振り返ること。
私はこの噂を信じてみることにした。不思議と嘘だとは思わなかった。
週末に決行をする廃線歩きの予定を立てながら、父が命を捧げてでも会いたかった人のことを頭の片隅で考えていた。
今日は週末。空は快晴。絶好の廃線歩き日和だ。この廃線の近くは緑化が進んでいて、景色もよく公園も多いことから、家族連れやウォーキングの人をよく見かける。それなりに人通りのある場所だ。こんなところで本当にそんなオカルトチックなことが起こるのだろうか。
それにしてもこの場所は街の喧騒から離れていてとても静かで、自然が溢れているから息をしやすい。
家族連れや老夫婦に人気があるのも頷ける。なんて、枯れた感想だろうか。
カシャリ、カシャリと写真を撮りながら着実に進んでいく。そうして写していく写真はブレが多くて父親の写真とは似ても似つかない陳腐なものだった。父の写真は同じ場所をとっていてもあんなにキラキラと輝いていたのに。
私はカメラを構えることをやめた。ひどくつまらなかった。
しばらく歩いていると、道路の先から抱え切れそうにない荷物を抱えた身なりのいい老紳士が歩いてくるのが見えた。荷物が落ちそうになるのが見えて慌てて駆け寄る。
「手伝いますよ。どこまでですか?」
普段ならそんなことしないくせに。目が離せなかったのはなぜだろう。
「おや、お嬢さん。ありがとうございます。ではそちらの公園までお願いします」
彼は驚いた顔をした後、シワの濃い目元を優しげに細めて笑った。間近で見る彼の顔はまるで精巧に作られた人形のように整っていた。
受け取った彼の荷物は見た目の量に反して意外にも軽かった。中身はパーティーグッズのようだ。
「パーティーでもあるんですか?」
「えぇ。孫の誕生パーティーです。妻から飾り付けや、料理の材料を頼まれてしまいまして」
なるほど、私に預けなかった方の袋には料理の材料だろうものがたくさん入っていた。他愛もない会話をしていると公園に辿りついた。彼はベンチに座ると隣を指しながら、どうぞ。と言った。私は彼の隣へと腰掛けた。
「息子と待ち合わせをしているのです。少しだけ付き合っていただけませんか」
彼はシルクハットのつばを押し上げながら穏やかに笑った。
そして、じっと私の顔を見つめた。
「あの……。私の顔に何か付いていますか?」
そういうと彼は驚いた顔をした。
「いえ、まじまじと見てしまってすみません。あなたが私の娘の若い頃によく似ていたもので」
「はぁ。そうなんですか」
「突然のことですみません。本当によく似ていて」
彼はすこし寂しそうに笑った。
「何か、あったんですか?」
「いえ、娘には何も……何もしてあげられなかったのです」
「どういうことですか?」
「私はね。昔は仕事人間でね。子供たちに金を用意してやることが父親の役目だと思っていたのですよ。今となっては逃げだった。彼らとの時間を仕事に逃げることで蔑ろにしてきたのです。それが更に溝を広げてしまうことになるとも知らないでね」
彼は自嘲気味に笑った。ひどく空虚な笑みだった。
「家族なのに?」
「家族だからこそ……ですよ。境界が曖昧すぎて私にはどこまでが許されるものなのかわからなかった。拒絶されるのが怖かったのです」
「それは家族の人も同じだったのではないでしょうか。子供さんたちもあなたに拒絶されるのが怖くて踏み込めなかったのかもしれませんよ?」
吐き気がするほどの一般論だ。私は彼の気持ちも、彼の子供たちの気持ちも分からなかった。私と父との間にあったのは、曖昧な境界などではなく、明確に引かれた一本線。ほとんど他人のような間柄だった。
「それでも、境界を踏み越えることは私のするべきことだった。私は彼らに道を指し示すべき父親だったのだからね」
疲れた笑顔でそういって、彼が視線を動かすのが分かる。公園の入口から歩いてくる男性はおそらく彼の息子なのだろう。彼は立ち上がると私に一礼をし、出会った時と同じように笑った。
「ありがとう、お嬢さん。こんな老いぼれの話を聞いていただいて」
「いえ、そんな。失礼します」
私は彼に一礼し逃げるようにその場を去った。居心地が悪かった。あの老紳士が見えなくなるまで走った。これ以上彼と話してしまうと来た道を引き返してしまうと思った。
足はひどく重かった。先に進むほど草木は増え威圧感を増していく。長く歩いたように思う。しかし距離はそんなに進んでいなかったようだ。気付けば二つ目の公園の前に立っていた。
公園の中を覗くと、ベンチに座り声を押し殺して泣く女性がいた。私は何かに導かれるように女性へと近づいていた。
すすり泣く女性の前に立つ。目の前に座り込む女性がひどく弱い存在に思えた。
「どうしたんですか?」
「放っておいて、あなたには関係ないわ」
「関係なくないです! 私このベンチに座りたいんですから!」
反射的に大声を出した自分自身に驚く。目の前の女性も鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして私を見ていた。涙は止まったようだった。綺麗な藍色の瞳が印象的な女性だった。
「なに……それ……フフ、アハハ。このベンチに座りたいなんて、フフ、」
笑われて顔に熱が集まっていくのがわかる。なんてことを口走ってしまったのだろう。穴があったら入りたい気分だ。
「ゴ、ゴホン。今のは忘れてください。そんなことより、どうして泣いていたんですか?」
「今の、慰めてくれようとしていたのよね? ありがとう。でも、こんなことはあなたに聞かせることじゃないわ」
彼女は視線を落とし渋った様子を見せる。
「気にしないでください。私は今誰かの話を聞きたい気分だったんです」
彼女は少し笑い、また顔を曇らせた。
「あなた、不思議な子ね。私、夫を亡くしたの。だからね、夫の忘れ形見である息子を見ているとあの人がいなくなったってことを更に実感してしまって辛く当たってしまう。それで、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまって」
彼女の姿は母が亡くなった頃の父に重なって見えた。でも彼女は父とは対極に位置するものだと思った。そう思うと同時に私は彼女に身の上話をするように語りだしていた。
「そうだったのですか。わからないですよね。私もわからないんです。母が亡くなった時、父はあなたとは違って私に何も言いませんでした。幼い私は、多分悲しかったと思います。暗闇の中、進む道も示されないまま置いていかれたと思ったんです」
「そう……あなたも辛い思いをしてきたのね。じゃあ、あなたはその時どうして欲しかった?」
私が慰めるはずだったのにいつの間にか慰められてしまっている。頭を撫でる手が嫌だと思わないのは、優しく撫でる手のひらが陽だまりのように温かく懐かしいからなのか、それとも彼女もまた母親だからだろうか。
私は彼女の質問に対して首を振った。今になっても父がどうすべきだったのか私がどうするべきだったのかわからない。私は父ではないし、父は私ではないから。
それでも私が答えを出さなければならないのだろう。私自身のために。
「私は、抱きしめて欲しかった。父と痛みを分かち合いたかった。私は……ただ、傍に居て欲しかった。それだけでよかったんです」
目には涙が溢れていた。彼女は優しく私の頭を撫で続けた。涙は止まらなかった。心の内を話したのはこれが初めてだった。今まであらゆることを否定してきたのは、弱い私を表に出さない為だった。しかし、どうして弱い私を今まで出さないようにしてきたのか分からなかった。
「すみません。私ばっかりお世話になってしまって」
すっきりとしたいい気分だった。重い肩の荷が下りたような清々しい気分だ。本音を言葉として出すことが出来たからだろう。
「いいのよ。おかげで私も決心がついた。あなたのおかげ。私、あの子とよく話すわ。本当にありがとう」
晴れ晴れとした笑顔でそういった彼女は初めに会った時とは別人のようだった。その笑顔を見ていると不思議と私も力が湧いてくる。彼女は私に手を振り走り去っていった。
しかし、空は今にも雨が降りだしそうなほど、どんよりと曇っていた。
どこかふわふわとした足取りで私は歩く。この散歩の終着点とも言うべき踏切はほとんど目の前に差し掛かっていた。あとひと踏ん張りと足に力を入れて踏み出そうとした時、突然上着の裾を引っ張られた。
後ろに振り向き視線を落とすと歯を食いしばり、大きな目から今にも涙をこぼしそうな少年がいた。
黙って見ているというわけにもいかないので私は少年に声をかけることにした。
「えっと、僕、迷子? 名前はなんて言うの?」
少年は小さく嗚咽をもらしながら答える。
「睦月」
「睦月くん。お父さんとお母さんは?」
「遊んでたらどっちもいなくなっちゃった」
見たところ小学校低学年くらいだろうか。人通りが少なくない道だといっても天気が悪くなってきたからかこの道も薄暗く気味が悪い。不安になっても仕方ないだろう。
「じゃあお姉ちゃんが一緒にお父さんとお母さんを見つけてあげる。だから泣き止んで」
そういって私は睦月に手を差し出した。睦月は少しの逡巡の後、おずおずと私の手を握った。
「お父さんとお母さんとどこではぐれたか覚えてる?」
「ううん。わかんない。でも多分あっちだと思う」
そういって指をさしたのは私が今まで歩いてきた道。戻らなければならない。私は目前に迫る踏切と睦月の顔を見比べため息をこぼした。
「もしかしたら戻ってる途中で会えるかもしれないし行こっか」
睦月は私の手を握る手に力を込めて頷いた。
私は睦月の手を引きながら歩いてゆく。温かい掌から体温の低い私に熱が伝わってくる。睦月は背が低いから、少し屈みながら歩くのは辛かったが、嫌ではなかった。弟がいたらこんな感じだったのだろうか。
「お姉ちゃんは迷子になったことある?」
「うーん。随分前のことだから忘れちゃったよ。でも、一度だけあったような気がする」
「どんな感じだった?」
「今日みたいな今にも雨が降りだしそうな感じでね。遊び場から家に帰る途中近道をしようとして迷っちゃったんだ」
「その時には、お姉ちゃんみたいに助けてくれる人はいたの?」
「どうだったんだろ。覚えてないしそれほど大したことじゃなかったんだよ。きっと」
「そっか」
そう言ったきり睦月は黙り込んだ。盗み見た横顔は出会った頃とは違い少し大人びて見えた。
「睦月ー。どこだ! 返事をしてくれ!」
睦月の両親だろうか、男性と女性の声が聞こえる。睦月も気付いたようで先ほどの表情とは打って変わり目を輝かせた。歩いていけば若そうな男女の姿が見えた。
「ほら、お父さんとお母さんだよ。行っておいで」
「うん! お姉ちゃん! ありがとう!」
睦月は走り出したが、すぐにぴたりと止まり振り返って私の所に戻ってきた。私は屈み睦月と視線を合わせる。
「お姉ちゃんはあの踏切へ行くの?」
「そうだけど……。何か知ってるの?」
「うん、なんかね。おじいちゃんがあそこは、ひがん? としがん? が交わる場所だって言ってたんだ」
「そっか……。都市伝説にはそんな言い伝えも関係してるんだ」
睦月のお爺さんの言葉に私の確信は深まる。考え事をしているとペチペチと手を叩かれる。
「お姉ちゃんは会いたい人がいるの?」
「まだ誰に会いたいのかわからないんだ」
「じゃあどうしてあそこへいくの?」
睦月の目はまるですべてを見透かすような純粋な目だ。心を覗かれているようで不安になる。
「そこへ行くと、きっと見つかると思うんだ」
睦月は破顔した。そしてぎゅっと私をその小さな体で抱きしめた。
「今ならまだ戻れるよ」
これは最後通告だ。ここで断ればもう私に後戻りは許されない。何も知らなくていい年齢はもうとっくに過ぎたのだから。
「ううん。いいの。私、行くって決めた」
睦月はじっと私の目をその全てを見透かすような瞳で見据えた。
「お姉ちゃんの会いたい人見つかるといいね」
そう言うと睦月は私から離れ、大きく手を振りながらまたねと言って両親の元へと走っていった。
空は泣き出す寸前だった。
踏切の先はこの森と真逆の煌びやかな街並みだった。この踏切がまさしく新と古、生と死の境界線だった。
今、私は踏切の目の前にいる。一歩ずつ踏切の中へと確実に入り通り過ぎる。問題はここからだ。無事に渡りきったら。今まで進んできた道を振り返らなければならない。
渡りきったその瞬間、踏切はカンカンと音を立て、遮断機を降ろし始める。この音は警告であるとともに合図だ。まるで神社や寺のような厳かな空気があたりに漂い始める。心臓が耳の横でなっているように五月蝿い。世界がスローモーションのようにゆっくりとしたものに思えた。
私は竦む体を叱咤しながら振り返った。その時すべてが静止した。
暗い海の底で一人揺蕩っているような心地だった。
不安を誘うものであるはずなのに、母親の腕に抱かれているような安心できるものでもあった。
そう、私の目の前には……。
何もない虚空が広がっていた。
そこには、会いたい人も今まで歩いてきた道も何もなかった。何もなかったのだ。まるでお前の心など空っぽなのだとそう言われているような気分だった。私の人生の土台が足元からガタガタと崩れていくのを感じた。
そして、私は思い出したのだ。あの日、迷子になった時のことを。誰も迎えに来てくれはしなかったのだ。私は土砂降りの中を一人濡れ鼠になりながら、懸命に歩いて帰ったのだ。
家に帰り着いた私に母はこう言った。
「一人で帰ってこられて偉いわ」
母は心底嬉しそうに笑ってそう言った。母にとってはなんでもない言葉だったのかもしれない。それでも私は母の私を褒めてくれる言葉に、喜びを覚えた。そして思ったのだ。何でも一人で出来る良い子にならなければ、と。
そうして私は、弱い自分を隠して今まで生きてきた。その結果がこれなのだ。今まで人から与えられる理想に答えて自分を殺してきた私に相応しい末路だった。父に対して先に一線を引いたのも私だったのだ。何でもできる姿を見せて、お前などいらないのだと見せつけてきたのだ。
目の前を電車が通り過ぎていく。いつの間にか雨が降り始めていた。頬がひどく冷たかった。私はその場にへたり込み声をあげて泣いた。雨に濡れることも気にせずに。
雨は止むすべすら知らなかったのだ。