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08

「結局、何だったんだろう、あの女性(ひと)


 トモエは思い返すたびにそんなつぶやきを洩らし、今日も夕暮れ時の街を歩いていた。

 会社帰りに、なぜか山下栄子の姿を思うことが多かった。


 彼女が会社を辞めてから、いや、彼らのもとから消え去ってからすでに一年。


 プロジェクトではさんざん振り回されたにもかかわらず、トモエはなぜか、完全には彼女のことが憎めないでいた。

 結局リーダーを買って出たトモエだったが、進捗会議の後は特に大きな問題も発生せず、企画としては大成功のうちに事は収まっていた。

 落ちついてからよくよく思い返し、栄子の仕事ぶりも細かいとはいえどもそれなりに参考になったと気づく。

 電話もかかってこなくなり、心身ともに穏やかな日々を送り始めたそんな頃、

 町なかでぐうぜん、トモエは栄子の姿をみかけた。


「え……?」

 しかも、例のイタリアンレストラン、最初に栄子がトモエにケチをつけた、あの店で。


 たまたま、この店でしか買えない珈琲を補充しようと、レジ前に寄った時だった。

「さすがエイコさんですよね、こんな素敵なお店ぜんぜん知らなかった、わたし」

 少し奥まった席から、若い女性の弾んだ声が聴こえた。名前にはっとなって、トモエは顔を上げ、無意識のうちにそのテーブルを確かめていた。

 背中を向けていた女性は、確かに山下栄子その人だった。

「そうなの?」優しく語りかける、その言い方は相変わらず上品な響きを帯びていた。

「なら良かった。このお店、パスタがお勧めなのよ」

 あ、ちょっとすみませんお手洗いに、と栄子の連れが席を立ち、左奥のレストルームに消えていったそのタイミングに、自分でも気づかないうちに、トモエは栄子のテーブルに歩み寄っていた。


「こんばんは」


 栄子はゆっくりとふり向いた。表情は穏やかなままだが、あいさつは返さない。

「気に入っていただけたんですか? このお店」

 トモエは淡々と続ける。栄子はやはり、無言のままだった。目から表情が消えた。

「前回、ここの食べ物がお口に合わなかったんですよね」

「……どちらさまですか」


 言うに事欠いて、栄子がようやく発したのがこの問いだった。

 トモエ、大きく息をついてからようやく栄子の顔をまっすぐ見つめた。

「私、やっと気がついた。栄子さんにとって周りの人間はすべて、栄子さんを見守る観衆に過ぎないんじゃあないか、って」

 ちょうどパスタが届いた。

 お待たせしました、の声に栄子は反射的に軽く目で承認の合図を送った。運んで来た店員は、トモエにいっしゅん不思議そうな目を向けたが、栄子が落ちついているのを認め、「ごゆっくりどうぞ」と去っていった。

 パスタはカルボナーラがふたつ、軽く湯気があがっている。トモエはかまわず続ける。

「反応が物足りなくなったら、ふさわしい『演技』を足すしかない、たとえ危険な演技でも」

 栄子の手が無意識に自分のこめかみに上がっていた。頭痛がするのだろうか、それでもトモエはことばを継いだ。

「栄子さんを愛し、気を遣って、労わって、そんな人間だけで自分の理想の舞台を飾れたら、それは素敵なことだよね。でも」

 栄子は押し黙ったままトモエではなく目の前の皿を見つめている。

「でもね、栄子さん。ようやく納得できた。あなたが単なる愚かな観衆に過ぎないと感じている人間も、実は等しく同じ重さで、それぞれの舞台に生きているんだから。

 あなたにはあなたの大切な事情があり、守りたい世界があるでしょう。でも、もう私はそんなもの全然気にしないから」

「……何のお話でしょう」

 敬語になった栄子にひるまず、トモエは続けた。

「私はもう帰る。夕飯は相変わらずカップめんだけど」

 栄子の目をまっすぐ見つめて、最後にこう言い放った。

「今夜から、私の食事は絶対、無駄にさせないし。それに」

 ゆうゆうと、最後のことばを投げつける。

「野菜はちゃんと、摂ってますからご心配なく」

 たまたま手に下げていた袋を持ち上げる。ここに寄る前に買っていたセロリの葉が威勢よくのぞいていた。

 連れの女性が戻ってきた。トモエを見て、あやふやな笑顔で軽く会釈をしてから何か訊きたそうに栄子の顔をみた。

対する栄子の表情は固い。そして、誰に言うともなく、つぶやいた。

「パスタが冷めてしまうわ」

「そうだね」トモエはにっこりと笑う。

「やっと気がついてもらえて、よかった」

 トモエはまだあっけにとられている女性にぺこりとおじぎをしてから踵を返し、店から出て行った。

 自分に惜しみない拍手を送りながら。



 了


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