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迫り来る陰 第四

「ただいまー。……おい陽。飯まだなのか?」

 優一は家に帰宅するや否や、そんな言葉を発した。陽を急かすようなその言葉は、キッチンで調理する彼にも聞こえていた。微かに陽は目を細める。

「まだだよ。ごめん、俺ちょっと帰りが遅かったんだ」

 陽は慣れた手つきで次々と野菜を切っていく。包丁が野菜を切る音が家内で静かに響いている。優一は、何の変哲も無いその音に聞き入っていた。

 玄関のすぐ近くにある扉。それを開けると、もうそこはリビングだった。冬対策のため、既に暖房器具がそこにはあった。そしてテレビでは若い女性キャスターが、落ち着いた声で明日の天気について喋っている。

「明日は低気圧が近付き、広範囲で雨が――」

 話からすると、どうやら明日は雨が降る模様だ。優一はその天気予報を聞くや否や、キッチンの方へと顔をやった。甘辛い食欲をそそる匂いが、キッチンの方から漂ってきている。

「陽。明日雨が降るんだってよ。傘を……」

 そこまで言った時、優一は微かに顔を顰める。しまった、と小さく呟いた。

「傘は壊れてるんだった。……だから陽。明日はレインコート、着て行けよー」

 途端何かが落ちる音がした。軽快な音。優一は然程その事を気にしなかった。

 優一は会社の制服を脱ぐ。しかし、途中彼の上着ポケットから何かが落ちた。「神楽銀行員・浅野優一」と書かれた、彼の身分証明書だった。

 彼は急いでそれを拾った。

「おい陽。俺の聞いてんのか? 返事くらいしろよ」

 優一は全く反応が無い陽に、少し違和感を抱いた。炒めている音で聞こえづらいのもあるかもしれないが、それでもおかしい。

「おーい陽。どうかしたのか?」

 もう一度だけ優一は陽に呼びかけた。しかし、やはり返事は返って来なかった。

 陽はその頃キッチンの方で、優一の発した「レインコート」の言葉を聞き、体を震わしている。その震えが止まる気配は全く感じられなかった。彼の手は、自然とフライパンから離されていた。床には先程まで調理に使っていた菜箸が落ちていた。

「レイン……コート」

 震える声で、その言葉を放つ。

 フライパンの中で炒められていたチャーハンは、徐々に黒く焦げ付いていった。


 その頃咲野明はベッドの上で寝転んでいた。柔らかな布団に身を任せ、明は呆けた様子で天井を眺めていた。彼女は全身から力を抜いている。

「あのコートの人、誰だったんだろう」

 つい人、と言ってしまったが、本当のところ人であるかは分からなかった。明の脳内には夕方学校で見た青のレインコートの事ばかりが浮かんでいた。

 そういえば陽は顔見知りだったはず。どうして知っているんだろう。陽の知り合いなのかな。だとしたら本当に誰なんだろう。

 明は自然とそんな事を考えていた。陽は微かに驚いている表情は見せたものの、自分とは驚いた様子が違っていた。もう何度か見ている様子だった。

 考えても切りが無い。答えが自分に分かるはず無い。そんな途方もない事を、明は考える事がやめられなかった。気になって仕方が無い。あのレインコートの正体も。レインコートに何故、血液がついていたのかも。

「……やめた」

 彼女は遂にそれを考えるのをやめた。

 明は一度寝返りをうつ。そのせいで彼女が着たピンク色のパジャマが捩れる。彼女はベッドにうつ伏せの状態だった。陽はうつ伏せのまま、自分の髪に触れてみる。そして夕方の事を思い出す。

 陽が自分の頭を撫でてくれた事。それをふと思い出しただけで、彼女の顔は一気に赤くなった。恥ずかしそうな彼女の表情は、とても女の子らしいものだった。

「……陽」

 明は静かに目を閉じる。依然と彼女の頬も耳も真っ赤なままだった。そんな彼女の様子は、とても幸せそうな姿だった。

 そんな彼女の背後に、それは迫りつつあった。


「ごちそーさんっと。いやー。やっぱお前、料理上手いよなぁ」

 今の陽にとってはお世辞にもならない言葉を、優一は再び言った。彼の前の食器の中身は綺麗に無くなっていた。

 そんな優一の言葉を聞いて、少し目を逸らす。少なくとも優一の顔は、彼の視界からは消えている。

「良いよ兄さん。別にそんな気を使わなくて。まずいに決まってるじゃないか」

 陽は少し落ち込んだ様子で呟いた。冷えたお茶の入ったコップを手に取り、陽はそれに口をつける。少しコップを傾けると、コップに注がれているお茶は彼の口の中へと流れ込む。冷たいものが喉を伝うのがはっきりと陽には分かった。

「いや陽。別にまずくないって。すごくうまか」

「だったら御代わり、いる?」

 陽は低い声で優一にそれを突きつけた。優一は思わず、突きつけられたそれを見て、言葉を詰まらせる。陽が突き出したもの。それは黒く焦げ付いた大盛チャーハンだった。辛うじて姿を保っているものの、何も知らない人が見れば、それは間違いなくチャーハンには見えなかった。

「……遠慮しておきます」

 優一は申し訳無さそうな表情で言った。

 その言葉を聞いて、陽は小さく溜息をついた。

「ほらね。……このチャーハン、焦げまくってまずいに決まってるじゃないか。無理してそれ全部、食べなくて良かったのに」

 陽は優一の下にある皿を見る。中身は全部無かった。優一は焦げて驚異的なまずさを誇る、このチャーハンを食べるのを見事完遂している。

「いや、だってよ。せっかく作ってくれたのに残すのって……悪いだろ?」

 優一はそう言う。それは彼の本心だった。相手の事を思って行動する。陽はそんな優一の性格が好きだし、何度も助けられている。たった今のこの状況もそうだ。陽は心のどこかで優一に感謝していた。いつも助けられてばっかりだ、と思う事も良くある。

 だからこそ、今回の事を相談するわけにはいかなかった。これ以上迷惑を彼にかけたくなかったから。

 本当は怖くて震えが止まらないくらいなのに、陽は決して相談しなかった。

 青のレインコートの事を、絶対に。


 闇が侵食していた。

 殆どそれは体を飲み込んでいた。漆黒の闇は徐々に体を自分の一部として侵食する。まるで意識があるかのように、それは体の上を這いずり至る所を取り込んでいく。

 次第にそれは原形を留めていない、ゼリー状のモノとなっていた。人間の原型を全く留めていなかった。

 一瞬にして、体は闇によって侵食されていく。胸元辺りまで、闇は迫ってきていた。ピンク色のパジャマは闇に触れた瞬間、触れた部分が溶けてゆく。尋常ではない熱が、闇が体を這いずる不気味な感覚が彼女を襲う。

 神経が狂ってしまいそうなほどの痛みを、彼女は味わっていた。既に混乱して、声が出ない。助けを呼ぶにも、声が出せなかった。ただ痛みを味わう事しか、彼女に道は残されていなかった。

 そして一瞬にして、彼女の首までもが闇に飲み込まれる。首から下の感覚が、もう既に完全に麻痺していた。抵抗する気力すら、湧いては来なかった。

(陽……助け……)

 そこで、明の意識は途切れた――。

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