迫り来る陰 第三
浅野優一は、深い溜息を一つついた。あまりに大きな溜息だったため、それは隣の女性社員の耳にも、はっきりと聞こえていた。
「どうしたんですか優一さん? 顔が青いですよ?」
その女性社員は、心配そうな目で優一をじっと見る。そして優一に優しく問い掛けた。
「……ん? おお、麻衣か。どうした?」
ぼーっとした様子で会社の外を見ていた優一は、やっと女性社員――咲野麻衣の声に気が付いた。腰まで黒髪が伸びている。癖の無い、綺麗な髪質だった。
ずっと隣で仕事をしていたというのに、今更彼女の存在に気付いたのだった。三十路間近の男なだけあり、あごには豊富な髭があった。
男前というには多少遠い存在だが、その髭は何故か非常に似合っていた。
「どうした、じゃないですよ。優一さんってば、顔が真っ青なんですもん」
優一の曖昧な対応が少し頭に来たのか、頬を膨らませた。まるで子供のような行動だった。そんな麻衣の顔を見て、思わず優一は笑いそうになった。先程まで固かった彼の唇が、微かに緩んだ。
「あー、心配させちまったか。悪い悪い」
「べ、別に心配してはいませんけど……」
優一は自分の顔色を隠すようにして笑顔を浮かべた。彼なりの思慮のつもりなのだろう。精一杯、麻衣の前では元気に振舞っている。
そんな優一の姿に、麻衣の心は少し痛んだ。
(……何も無いなんて、絶対嘘だ。どうして相談してくれないんだろう)
そんな思いだけが、麻衣の胸にあった。
顔色の悪い優一を見る度に、彼女の気持ちは強くなってゆく。
そんな彼女の気も知らず、優一は青白い顔で再び窓の外を眺めた。高層ビルが立ち並ぶ光景を、優一は辛そうな目で眺めていた。
「……麻衣。あのさ……」
優一は静かに口を開いた。そしてその声を、麻衣はただ静かに聞いていた。
外は既に夕日の光に照らされて、赤く染まり切っていた。
やっと終わった、と浅野陽は心の底から思っていた。
教室の壁に吊るされた楕円形の時計は、午後四時を示していた。既に大半の生徒は教室から飛び出して、それぞれの家へと帰っていた。明日は期末テストだという事もあり、今日はどの部活も休部となっている。どうやら家庭学習に励め、との教師からの忠告のようだった。
陽は自分の席でのんびりと帰る用意をしていた。机の側面にあるフックにぶら下げた鞄と取り、その中に次々と教科書を詰め込んでゆく。軽かった鞄も、段々と重量を増していくのが簡単に分かる。
「うし、これで全部だな」
全て鞄に詰め込んだ事を確認すると、陽は鞄を肩にかけるようにして持ち、椅子から立ち上がる。急いで帰って晩飯の用意をしなければならない。そんな考えだけで、陽の脳内は満ちていた。
浅野家では両親不在のため、毎週食事当番を兄弟で代わりながら過ごしている。そして今週は陽が食事当番となっていた。そのため、急いで帰って仕度をしなければいけなかった。
「……陽。早く帰ろう」
教室から足を一歩踏み出した途端、明の声がした。陽は少し驚き、思わず横に振り向いた。
するとそこには、首に毛糸のマフラーを巻いた明がいた。上目遣いで陽の方をじっと見つめている。彼女の頬は、ほのかに朱を浮かべていた。
「め、明。まだ帰ってなかったのか?」
明は小さく頷いた。
「……陽を待ってた」
その言葉だけいうと、明は再び黙り込んだ。明は小学生の時から無口で、始めの頃はなかなか彼女の考えが読めず、陽も戸惑うばかりだったが、今となってはそれにも慣れていた。
「お前なぁ、待ってるなら待ってるで教室の中にいろよ。廊下なんかにいると冷えて風邪、引いちまうだろ?」
そう言って陽は明の頭にそっと手を置いた。優しい手つきで彼女の頭を撫でる。さらっとした、彼女のきめ細かな髪が陽の手を妙に擽る。
陽は途端に顔を真っ赤にした。耳まで赤くなった彼女は恥ずかしそうな目で、反面嬉しそうに陽の方をじっと見ていた。
――そんな時、それは聞こえた。
夕日の赤い光が差し込む廊下に、静かな足音が響いている。始めは遠くの方だったが、時間が経つに連れてそれは近くなってくる。段々とその音は大きくなっていく。
見回りの先生かな、と陽は軽い気持ちで考えていた。然程気にも止めず、陽は明を連れて階段を下りようとする。
二人が足を止めるまで、然程時間はかからなかった。陽と明は足音に不信を抱く。足音は、普通ではなかった。水溜りの上を歩くような軽快な音と、液体が滴る音が段々と聞こえて来た。
二人の気は自然と引き締まった。冷や汗が額を流れ、頬を伝って、そして廊下に落ちた。近寄って来る液体の滴る音と、それは近かった。
何か、嫌な予感がする――そんな衝動に駆られ、陽は思わず明を抱き寄せる。明も自然と陽の袖を掴んだ。
足音は、遂に止まった。しかし、液体が滴る音は止まりはしなかった。
「――え? 陽君がですか?」
咲野麻衣は少し驚いたような声を上げた。その反面、彼女の表情は疑っているようなものだった。麻衣は缶コーヒーのプルタブを指先で上げる。すると勢いのある音を立てて、見事缶コーヒーの飲み口に穴が出来た。麻衣はそこにそっと唇をつけた。
「ああ。……陽がさ、何だか遠くに行っちまう夢を見たんだよ。何つーかこう……口では言い表せねぇんだけどよ。何かに巻き込まれて……」
優一は真剣な表情を浮かべて言った。彼の眉間に微かにしわが寄る。刈り上げられた短髪。如何にも元気そうな彼の表情が、徐々に弱々しくなる。辛さに耐えているかのようなその姿は、麻衣の心を揺り動かす。
二人とも、依然とした様子で缶コーヒーを握り締めていた。
陽と明の前に、それは姿を現した。
夕日に照らされても青色がはっきりと分かるレインコート。頭部も何もかもが、それで覆い隠されていた。見えるのは紫色をした、不気味な手。足には漆黒のブーツを履いていた。そしてレインコートは雫で濡れており、いつまでもそこから雫が垂れている。
それは、朝方陽が通学途中に目にした、青のレインコートと変わりなかった。少し差があるとすれば、レインコートが濡れている程度だった。
それを目にした瞬間、陽は目を細める。庇うように、隣にいる明の前に手を出す。
陽は鋭い瞳でそれを睨みつける。冷や汗が止まりはしなかったが、陽はその目を逸らしはしなかった。
「……お前、俺に何か用があるのか?」
陽が言った言葉に対して、レインコートは答えようとしない。あるか無いか分からない顔の部分を、じっと陽たちの方を向けている。
「……黒楼に気をつけろ。第二の瞳を持つ者」
「え?」
陽は思わず聞き返した。あまりに小さな声で、はっきりと言葉は聞こえなかった。声は透き通るように美しい声だった。朝方会った時の二重の声とは、大違いだった。
レインコートはそう言い残すと、二人に背を向けて、来た道を戻ろうとする。陽は引き返すレインコートに近寄ろうとする。そんな時、陽の袖は強く引っ張られた。
「……駄目」
明が陽の袖を強く引っ張っている。袖を通じて、明の震えを陽は感じ取った。戸惑った表情を浮かべた後、陽はその場に立ち止まった。
陽はレインコートが去る様を、ただ眺める事しか出来なかった。
そしてこの時、陽は初めて気がついたのだった。レインコートから垂れていた多量の雫。それが……。
――それが血液、だということに。