迫り来る陰 第二
陽は容赦ない教師の説教で、無気力な姿となっていた。
今から一時間ほど前に遡る。遠慮がちに陽が教室に入った途端、彼の額に猛スピードのチョークが激突した。チョークは彼の額に当たると刹那、チョークは木っ端微塵に砕け散った。
陽は思わず怯み、その場に倒れ込んだ。決して気を失ったわけではなかったが、あまりの衝撃に彼は耐える事が出来なかった。
ただのチョークとは思えない重圧感と痛みを味わった。
そしてその途端、教師の怒声が教室に響いたのだった。生徒の間で化け物と恐れられている数学教師・益田の声だった。獣の咆哮に似たそれは、陽の耳に深く刻まれた。
数学の授業が終わるや否や、陽は益田に連れられて「魔の説教室」へと向かった。そしてその時の事を、陽は今でも忘れる事が出来なかった。鼓膜が裂け飛ぶような痛み。それを始めて味わった瞬間だったに違い無い。
遅刻するもんじゃないな。陽は心の底からそう思っていた。
そして今、陽はただならぬ虚脱感を感じていた。どれだけ時間が過ぎてもそれは変わりなかった。溢れてくるのは溜息と眠気だけ。何も手につかない状態になっていた。教室でも一番後ろに位置する席で、机に顔を伏せている。
「……陽。気分、悪いの?」
途端女性の静かな声が聞こえて来た。そしてこの声に陽は聞き覚えがあった。それも一度や二度では無い。ほぼ毎日聞いていた声だ。
陽は虚脱感のせいか、重くなった頭をゆっくりと上げ、その方向を見た。するとそこには肩まである黒髪が、非常に似合った女の子――咲野明がいた。
「ああ、明か。おはよう」
陽はおはよう、とだけ言って再び頭を伏せる。
軽くあしらった陽の言葉は、彼女のそばにいる、もう一人の女の子の気に触った。そしてその女の子は、今にも誰かに殴りかかってしまいそうな勢いで、顔を伏せた陽に近寄る。
そして同時に彼の制服の襟を掴んだ。そして無理やり陽の頭を持ち上げる。その時、陽は地球の重力に反するような感覚を味わっていた。
「おお、凪。おはよう」
陽は呆けた様子でそう言った。陽の視線の先には、後ろで髪を括った女の子がいた。険しい顔で、陽の方をじっと見ている。陽は別に不信にも思わず、ただ呆けた顔で彼女を見ていた。
「あんたさ、せっかく明があんたを心配してあげてるのに、その対応は何なのさ。それにあたしの名前は凪沙だ。凪なんて呼ぶな!」
彼女――藤堂凪沙はひどく怒った様子で陽に叫んだ。そして彼の頭を机に向かって強く叩きつける。陽はそれに抵抗できず、無様にも机に額を強く叩きつけてしまう。そしてそこは、一時間ほど前にチョークの衝撃を受けた場所だった。
言い表せないほどの痛みが、彼の額に走った。自然と陽の手は自分の額へと向かっていた。そしてほのかに涙を浮かべ、自分の額を摩る。
「陽、大丈夫? 痛くない? ……もう……凪沙」
明は優しく手を差し伸べ、陽の額を撫でる。心配そうな瞳で陽を見ながら、凪沙に言う。
凪沙は相変わらず険しい表情で、陽の方を見ていた。信用してないぞ、といった敵意丸出しだった。
陽は結果的に兄の優一の元で暮らす事になった。当時大学生だった優一は二階建てのマンションに住んでいたため、小学生の弟が一人来た所で、然程暮らしぶりは変わりなかった。飯を少し多めに作る、という事ぐらいだった。
陽はその町にある小学校に通うこととなった。転校生、ということで注目を浴びるのが、陽は少し気が引けたが、それ以外は然程気にしていなかった。友達が出来るか出来ないかなんて事を、陽は別に心配していなかったのだ。
何故なら、陽の周りにはいつも同い年ぐらいの子供がいるのだから。彼にしか見る事が出来ない友達が。
陽は軽い気持ちで体育館に向かった。体育館にたくさんの生徒がいる。自分が来るのを知っている人たちが何人もいる。
自分では気付いていなかったが、陽は心のどこかで楽しみにしていた。どんな人に出会うのか、どんな不思議な奴がいるのかを。
そしてそこで、陽は明と凪沙に出会った。
今となっては、陽にとってそれは懐かしい記憶だった。明と凪沙に初めて会った時の記憶。そしてその時から三人の関係は変わってはいなかった。
陽と明が少しでも話をしていると、凪沙は陽に八つ当たりのようなものをしてきた。何でも明と凪沙は幼稚園の時からの親友で、おそらく明が陽にいじめられていると思ったのだろう。
いつもいつも陽に暴言を吐いたりしていた。陽と明がどれだけ言っても、凪沙は決してやめなかった。友達思いなのは良いと思うが、過保護すぎるんじゃないか、と陽は昔から思っていた。
そして今も、その考えは変わっていなかった。
「……お前って、本当に過保護な親みたいだな」
「え? 何だって?」
聞き返してきた凪沙の表情は、先程よりも険しさが増していた。惚けた反応は間違いなく嘘だな、と陽は判断した。
「……何でも無い」
もう一度言えば自分の首が吹き飛ぶかもしれない。彼女に「過保護」という言葉は禁句だな、と心の底から陽は感じていた。




