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迫り来る陰 第一

 目が覚めた瞬間しまった、と浅野陽は思った。

「やっちまった……」

 ベッドから勢いよく起き上がった瞬間、その言葉を呟いた。彼の視線は枕元のデジタル時計に向けられていた。自然と彼の口から深い溜め息が漏れていた。時刻は八時三十五分。もう既に朝のホームルームの始まっている時間だった。高校に通って一年。彼にとって始めての遅刻だった。もうどれだけ急いでも仕方のない時間だった。

 陽のこの時計は最近買った新品だというのに、よくベルが鳴らない事がある。不良品だと店に返品を求めるのも良かったが、何となく気が引けた。そして結局陽はこの時計を使っていた。

 カーテンの微かな隙間から差し込む朝日が、陽の眼球に直撃する。陽は右手でその光を遮りながら、ベットから下りる。そして昨日寝る前に脱ぎ捨てたスリッパを、眠気で霞む視界で必死に探した。

 冬という事で布団から出ると、急に寒気が陽に襲い掛かる。思わず彼は身震いした。ベッドから少し離れたタンスの元にスリッパがある。それを求めて陽は裸足で歩き出す。ひんやりとした感覚が足の裏から感じられた。

 陽はスリッパを履くと、制服に着替え出す。遅刻確定だから、逆に緊張感が感じられない。もう今更急いでも、遅刻という事実が変わるわけでもない。そんな気持ちで彼の胸は満ちていた。

 もう一年着ているためか、制服のサイズが小さく感じられていた。少し窮屈な制服を陽は着た。着る度に、自分の体が成長しているのだと実感出来るのが、嬉しいような嬉しくないような、微妙な気持ちだった。


 陽はこの家に兄と二人で住んでいる。高台にあるこの家からは通学が不便だったが、陽は文句を言えるような立場ではなかった。

 彼の両親は彼が小学生の時に離婚していて、母親の方は四年程前に交通事故でこの世を去っている。そして父親の方はというと、急な海外勤務が決まった。

 長年父親と二人暮しだった陽は一瞬迷ったが、ついて行っても父親の仕事の邪魔になると考えて、日本に在住した。これは彼なりの気遣いのつもりだったが、余計父親に気を使わせてしまったようだ。

 父親は上京している陽の兄に連絡を取り、海外に勤務している間陽は兄の家に住む事となった。陽の兄は陽と軽く十歳は離れており、その頃はまだ大学に入ったばかりだったが、今となっては、三十路間近の立派な大人となっている。

 陽は兄に迷惑をかけた、と今でも申し訳無さそうに思っている。ただでさえ兄に迷惑をかけているため、通学の不便を愚痴るわけには行かなかった。


 学校に行く準備を済ますと、陽は仏壇の前で正座をして手を合わせる。仲には優しい笑顔で微笑みかけている母親の写真があった。こんな所に母親が「いる」はずがないとは分かっていたが、それとこれは別物だ。

 すると彼の周りで幼い子供が走り回っていた。夏服の元気そうな男の子だった。それは冬である今には、とても不似合いな格好だった。陽は別に驚いた素振りも見せず、彼の方を見る。

「おいこら。あんまり騒ぐんじゃない」

 聞こえたのか聞こえていないのかは分からなかったが、陽がそう言った途端子供は玄関の方へと走って行く。その光景が、既に陽にとっては普通だった。

「……じゃあ母さん。行ってきます」

 そう言って、遺影に向かって陽は軽く頭を下げる。にこやかなその写真を見ていると、まだ母親が生きているように思えて、陽の胸は強く締め付けられていた。

 陽が玄関に向かうと、そこには先程の少年が座り込んでいた。そしてそれだけじゃない。その隣には、また別の子供がいた。白いワンピースの似合う、幼げな女の子だった。

 その二人は、近寄ってくる陽の存在に気付くと、嬉しそうに飛び跳ねた後、陽の方へと走ってきた。――そして二人の体は陽の体を通り抜ける。

「今から学校なんだ。邪魔するなって」

 そう言うと、二人は声も無く穏やかな笑顔を浮かべる。


 陽は兄と二人で住んでいるが、正確に言えばもう二人一緒に住んでいる。そしてその二人は陽にしか見る事が出来なかった。

 生まれつき陽には不思議な力があった。――普通の目では決して見る事が出来ないものを、陽は見る事が出来る。昔はぼんやりとしか見えなかったものの、成長するに連れてそれははっきり見えるようになっていた。つまり陽は常に、不思議なそれらに囲まれて生きて来た。そして両親の離婚の話の発端は、ここにあると言っても過言では無い。

 陽のこの目の事に少しずつ気付いてきていた母親は、父親にその事を相談するものの、父親は母親の言う事を冗談とでしか受け付けていなかった。陽の事に無関心なそんな父親に怒りを抱き、とうとう母親は離婚を迫った。

 その事を陽は知っているからこそ、今でも彼の心は締め付けられていた。自分のせいで両親の関係に亀裂が入った。その考えを止める事は、陽には不可能だった。

 そして陽は静かにスニーカーを履く。そして鞄を手に、玄関の取っ手に手をかけた。

「行って来ます」

 そう呟いて陽は家を後にした。陽の寂しげな背中を、二人はじっと見送っていた。

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