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嘘つきは安西さんの始まり

『妖怪悪霊大図鑑』事件

作者: 周防まひろ

 作中に登場する人物がやらかすのはたぶん犯罪です。真似するとおそらく捕まると思います。悪しからず。

 

 僕の名は山野辺といいます。

 突然だけど。僕は物忘れがすごく激しい。

 どのくらいひどいのかというと、学校の宿題、体育の体操服など忘れるのはもちろん、検尿のサンプルは必ず忘れてしまい、回収の直前に用を足しにいくほどだった。だけど、そんなのは序の口だ。時にはこの悪癖が災難を引き起こす場合もある。

 僕と二人の友人が体験した災難と交えて話そうと思う。


 そう、今年の五月中頃の昼休みのひと時、うたた寝していた僕の肩を、ある人物が叩かれたところから始まった。

 目を覚ました途端、眠気が一気に消えた。机を挟んで目の前に、“彼女”が立っていたのだ。

「何か用、安西さん?」

 安西さんは、僕のいる五年五組のクラスメイトである。

 喪服のような黒を基調にした地味な服、顔元を隠すほどの長い黒髪の隙間からこちらを眺める目つきは鋭く冷徹だ。以前のある一件(のちに“猫事件”と呼ぶようになった)から、僕と二人の友人に付きまとうようになった悪友でもある。

 彼女が一枚のカードを突き出した。

「これを」

「図書室の貸し出しカード?」

 本のタイトルは、『妖怪悪霊大図鑑』。

 さらに、貸し出し者の一覧に一人の名が書かれていた。

《四年二組 山野辺敦》

 まぎれもなく僕の名前だ。四年生という事は、一年前に借りたらしい。先にも述べたが、僕には忘れ癖がある。かなり重症だと、親や教師は言っている。当然、一年前に借りた本など身に覚えはなかった。

「借りた、と思うけど……」

「この本を借りたい人から、棚に見当たらないってクレームが来たの。すぐに返却してちょうだい」

「でも、なんで、安西さんが?」

 よく見ると、彼女の名札の横に、大きなバッジがかかっている。そこには、『図書』と刺しゅうされていた。

 僕の学校では、四年生からになると、学期毎に学級内の係りとは別に、校内の係りを受け持つ事になっている。行事や運営に携わる優等生向けの総務係、運動会やスポーツテストの準備をする一番面倒な体育係、かわいいけど臭いウサギの小屋を世話する飼育係、朝から挨拶で元気を強いる風紀係など……。

 安西さんは、図書室の管理をする地味な図書係なのだ。池沢君の情報によると、同じ班のメンバーはサボりがちで、すべて安西さんに押し付けているとか。

 とにかく、僕がしなければいけないのはただ一つ、一年前に借りた覚えのない、『妖怪大図鑑』を迅速に返す事だった。

「分かった。明日持ってくるよ」

 府に落ちないと言わんばかりに、複雑な表情を浮かべながらも、安西さんは自分の席へ戻っていった。彼女の存在はプレッシャーそのものである。胸をなで下ろした僕は、そのまま机に突っ伏した。

春の陽気は思ったより暖かく、睡眠にはうってつけだった。


 翌日、昼寝中の僕を誰かに叩き起こした。

 時間は給食後のちょうど昼下がり。食後の眠たくなる時間帯である。そんな時に揺り起こすなんて、食事中の犬から餌を取り上げるようなものだ。僕は不機嫌に「一体誰だよ……」と相手を睨みつけた。

 起こした人物は、安西さんであった。ハリー・ポッターに出てくるような脇役の魔法使いが着るような地味な服、顔の半分を隠す前髪。俯き加減なの瞳。その外見がすべて、相手を油断させるためであるのを知っている者は少ない。

 僕は蛇(きっと、そいつは猛毒を持っているだろう)に睨まれた蛙と化した。

「あ、安西さん……おかよう。何か用?」

「本は持ってきた?」

「本……あっ!」

 突然思い出した。エジソンは新しい発明を思いついた時と感覚は同じだろう。その時まで何もなかった物が突然頭に浮かぶ感じ。時代も状況も全く違うけど。

 そうだ、昨日、安西さんから本を返すように言われていたんだった。

「ごめん」

「忘れたのね?」

「ごめんなさい。明日絶対に返すから」

「手を出して」

 言われた通りに手を差し出すと、安西さんはマジックを取り出し、僕の手の甲に大きく『本』と書き込んだ。油性マジックなのか、軽くこすっても消えなかった。

「おまじない。明日には持ってくるように」

 若干、不機嫌な顔を覗かせ、安西さんは自分の席に戻っていく。僕は、おまじないの『本』が書かれた手の甲を眺めた。これは呪いだ。逃れるには約束を守るしか他に術はない。明日こそ絶対に忘れるものか!

 そう決意すると、僕は春眠を再開した。


 その翌日……何者かによって、僕は夢の世界から現実に引き戻された。給食後、腹ごしらえも終わり、うとうとと眠くなる頃だった。

「安西さん!」

 僕は眠りを乱した張本人を見た瞬間、知らない間に書かれた、手の落書きの意味を思い出した。

「また忘れたんだね」

「うん。明日こそ絶対に――」

 僕の言葉は続かなかった。安西さんの顔はひきつっている。ドラキュラみたいに太陽が嫌いなのか、白い肌に青筋が浮かんでいる。こういう人に向かって、『もしかして怒っている?』なんて言ったら、本当にものすごく怒られると思う。

「山野辺くんって、『メメント』のレナード・シェルビーみたい。今日から、レナードって呼んであげようか?」

 レナード……山野辺レナード。カッコいいあだ名だ。

 安西さんは今度、マジックで僕の右の頬に『本を返せ』、左の頬に『借りパクは犯罪』と書き加えた。

「明日忘れたら、今度は刺青を彫るから、そのつもりでね」

 明日、借りに忘れたまま朝を迎えても、洗面台で顔を洗う時に思い出すだろうが、かなり恥ずかしい。だが、これも自業自得だと、僕は心に刻んだ。

「いい? 明日こそ、絶対に」

「うん。明日こそ絶対に」

「想像してみて。このクラスには発病すると百%で死に至るウイルスに汚染されている。クラスの皆は持って明日までの命。山野辺くんの延滞貸出している本は、殺人ウイルスを死滅できる、唯一の特効薬なの。山野辺くんは人類の希望」

「僕が人類の希望……」

 本の返却が壮大な設定になり、僕の体中が熱くなった。そうだ、僕はクラスの皆を救える、たった一人の希望なんだ。そう思うと、訳のわからない勇気があふれ出てくる。なんだが、なんでもうまくいきそうな気がしてきた。

「君を信じてるから」

 安西さんの言葉をかみしめながら、僕は再び眠りに就いた。


 僕は知らない場所にいた。辺りは一切が暗闇に包まれている。電気の消えた部屋なのか、電灯のない外なのか区別ができない。

 前方から足音を立てながら、何かが僕に向かってやって来る。

 人間のようだが、一人ではなく、二人、三人、四人と近づくにつれ、人数が増えていく。目と鼻の先になる頃には、指では数えられないほど膨れ上がっていた。

 集団の正体は安西さんだった。双子みたいに同じ顔をしている。恰好も黒一色ののマントで統一している。

 安西さんの群れが僕を取り囲んだ。逃げる間もなく、彼女達は一斉に叫び始める。僕の周りは安西さんの百面相で覆い尽くされる。

 本、本、本、本。本を返せ、本を返せ、本返せ、本を返せ!

 目を覚ました僕は頭を上げた。夢だったと分かり、顔の汗をぬぐい落した。背中まで湿っていた。

 時間帯はお昼時間。女子のグループはケラケラ笑いながら、今日遊びに行く約束をして、男子の一団はカードゲームで夢中だ。友人の仲上君は無断で持ってきたギャグ漫画でゲラゲラ笑い転げ、女子の顰蹙を誘っているし、池沢君は塾のテスト勉強に追われて頭を抱えている。

 いつもの変わらない、五年五組の風景がそこにあった。

 さっきの白昼夢は一体何だったのだろう? 思い出そうとしたが、頭はまだボンヤリしたままでいっこうに浮かばない。

 安心して、椅子にどっと座った時、ふと頭上に仰ぐと、教室の天井の代わりに、見下ろす安西さんの顔が映った。

 僕は悲鳴を上げて、そのまま椅子から転げ落ちた。周りの目を引いたが、僕だと分かると、すぐに元の喧噪に戻った。

「本は?」

 彼女の一言が封印された記憶を呼び覚ました。だが、すべてが遅きに失した。こういう時はどうするべきか心得ている。謝罪の王道……僕は何も言い訳せず、その場で土下座した。

「昨日の話を覚えてる?」

「僕は人類の希望だった」

 安西さんは「いいえ」と首を振った。

「本を忘れたじゃない。だから、山野辺くんのせいで五年五組は全員死んだの。そして、山野辺くん以外の皆はゾンビになりました」

 ああ、仲上くんも池沢くんもみんな、凶暴なゾンビになって僕に襲いかかる。願うなら、平和だったあの日に戻れたら……。

「山野辺くんは人類の敵だね」

 容赦のない言葉の刺が僕の心臓に突き刺さった。僕は反論できず頭を下げ続けるしかなった。

「私は本がほしいの。土下座じゃなくて」

 やっぱりダメか。

「明日こそ絶対に!」

「明日から三連休」

 そうだ。今日は金曜日。土日月が休みだ。嬉しいはずなのに、なぜか嬉しくなれない自分がいた。

「じゃあ、火曜日に」

 安西さんは首を振った。月曜日まで待てないという。じゃあ、どうすればいいのだ。だけど、この地点で僕は何となく予感していた。

 放課後に起こる最悪の未来を。

 

 その日の夕方――僕は部屋の中を探し回っていた。部屋の隅で、座布団に正座する安西さんは人形みたいにじっとしたまま、冷徹な目線で僕の動向を追っている。手を休める暇も与えてくれない。はっきり言って怖かった。

 僕の部屋を一言で説明するならば、“中途半端”で埋め尽くされている。やり掛けの宿題、食べかけのまま放置したスイカには、カビが生えている上にアリが這っている。他にも読みかけのマンガ、電源を切り忘れたままバッテリーの切れたゲームデッキと枚挙にいとまがない。やったらやりっぱなしと、いつも親に注意されている通り、僕は貫徹という言葉から一番遠い存在だった。

 だが、今回ばかりはそうはいかない。安西さんの前で逃げ出すわけにはいかないのだ。机の引き出し、本棚やベッドの下まで隈なく探したが、『妖怪大図鑑』はどこにもない。他の部屋に置いたのかと思った。

「おかしいな……」

 いや、もしかすると、親友の仲上くんや池沢くんに貸したままかもしれない。いや、それなら二人が返しているはずだ。じゃあ、どちらかが忘れている可能性はどうだろうか? 僕ほどではないとはいえ、彼らはズボラな性格をしている。もしも、そうであるなら、安西さんの矛先が変わるので助かるのだが……。

 ふと、後ろにいる安西さんが気になった。どうも落ち着いていられない。

「もう遅いから、帰ったら?」

「大丈夫。うちの親は放任主義だから」

 彼女の親が放任した気持ちも分からなくもない。

 どうやら、見つかるまで帰らない気だ。だが、監視されたままだと、やはり落ち着いて探せない。

 僕はゲームデッキを彼女に渡した。

「これで遊んでおいてよ。その間に探すからさ」

 安西さんは淡々とゲームし始めた。

「安西さんってさ、家でゲームとかする?」

「興味ないの。時間を無駄に過ごすほど暇じゃないから」

「なるほど」

 お前は人生を無駄に生きていると言われた気がして、僕は少し傷ついた。ああ、早く見つからないものだろうか。彼女が普段から何をして時間を潰しているのか気になるが、今はそんな事を考える暇はない。 目的の本は依然として見つからない。一体、どこに消えたのか?

「意外と楽しいね、これ」

 安西さんはポツリとそう言った。

 彼女が遊んでいるソフトは、一年前、発売されたゲームだが、ライトユーザーには評判の悪い代物だったのか、途中で挫折して以来、遊んだ記憶がない。マニア仕様の無理ゲーを安西さんは巧みに遊んでいる。

 そう言えば、ゲームデッキもその時にソフトと一緒に買ったのだったか。当時は新作で4Kのディスプレイが売りだった。きれいな画像でプレイできるゲームに、僕は喉から手が出るほどの思いだった。生憎、お小遣いを使いきった後だったけど、僕はそのデッキが手に入れたくて仕方がなかったのだ。

 そこで、読み終えたマンガを古本屋とかで売ったのを思い出した。

 どうせ、スズメの涙にしかならないだろうと半ば諦めていたが、意外と高値で売れたのである。コミック十冊ぐらいとそこらに置いてあった本が二万ぐらいで売れたのだ。弾んだ心のままゲームデッキとソフトをいくつか、子供のくせに大人買いをして――。

 僕は手を止まった。一瞬、心臓も一緒に止まった気がするのは、忘却の彼方へ消えていた記憶が前触れもなく蘇った。

 その時、他のマンガ本と一緒に、あの『妖怪悪霊大図鑑』も売り飛ばしてしまったのだ!

「本はあった?」 

 安西さんが訝しく目を向ける。この時の僕は、自分でも思うほど恐ろしいほど冷静だった。彼女に悟られないように心がけていた。

「本がどこにあるか分かったよ」

 口から出まかせが出た。どう言ってごまかす?

「どこ?」

「お父さんの部屋」

「山野辺君のお父さんが持ってないといけないの?」

「妖怪が好きだから。●×ウォッチとか流行ったでしょ。あれの影響かな」

 こんなウソで押し通せるわけがないと思った。

「おじさんはいつ帰るの?」

「日曜日の夜まで出張。だから、月曜日に持ってくるよ」

 だが、忘れてくるのが何日も続けば、信じてもらうのは難しかった。安西さんは、案の定、首を縦に振らなかった。

 僕は意を決した。

「そのゲームを貸してあげるから。一日でも遅れたら、それを譲るよ」

「担保のつもりね」

 僕は何度も頷いた。安西さんは腕を組んで頭を下げていたが、やがて、「分かった。月曜日まで待ってあげる。次の人には私からも伝えておくから」

 そして、安西さんは僕に貸し出しのカードを渡した。

「ちなみに、これが貸し出しを待ってる人」

 貸し出し日が次の月曜の日付になっている。クラスは五年五組、名前は……安西栞。はて、どこかで聞いた名前だ。どこだったか? 自分自身にとぼけながら、僕の心臓は破裂寸前だった。

「その人、とても優しかったよ。なんて言ったって、前の人の延滞を一週間も待ってくれたんだから。でも、どんな人の我慢にも限度ってものがあるんだから、借りた本はちゃんと返さないと駄目だよ、山野辺くん」

 そう告げると、安西さんは足早に帰っていった。

 このままでは、今度の月曜日が僕の命日になってしまう。


 急いで電話をかけた。相手は腹心の友その一、池沢くんだ。金曜日の夕方なら、超有名な進学塾の下位クラスで辛酸をなめているはずだ。

(もしもし、山野辺?)

「緊急事態が発生した」

(藪から棒に何? それとさ、今テスト中なんだよね。山野辺は、難解な文章問題に頭を悩ませている最中に電話が鳴ったら、どう思う?)

「僕なら、テスト中は電源を切っておく」

(……一理あるな。こちらにも非がある。手短に説明しろ)

 僕は本当に単刀直入に言った。

「一年前、学校の本を古本屋に売り飛ばしてしまった。ほんでもって、今になって本を返せって、ある人から催促を受けている」

(ある人……誰に?)

 僕は深く息を吸うと、小さな声で告げた。

「安西さん」

 途端、電話口から池沢くんの悲鳴が上がった。

(安西さんって、あの安西さんか!)

「そう。その安西さん。僕はどうするべきか教えて」

(僕がこれから言う事を一字一句残さずにメモするんだ。タイトルと作者、出版社をメールして教えてくれ。それから、近くの本屋を片っ端から探すんだ。古本屋、それも大きな店を選べ)

「分かった」

(明日、午前中にお前の家で落ち合おう。仲上にも伝えておく)

 持つべきは頼りになる友人だと、僕は強く思った。あまりの嬉しさに気がつくと泣いていた。三人寄れば文殊の知恵。総合力はさして高くはないけれど、一人よりはましなはずだ。どんな困難でも乗り越えられるかもしれない。

 電話を終えると、僕は急いで家を出た。自転車を走らせ、自分の知る限りの本屋を当て当たり次第回った。ショッピングモールにあるような大型書店から、お年寄りがたむろするような古書店、古本屋などを、競輪選手みたいに駆け回った。

 努力も空しく、その日に本は見つかる事はなかった。


 翌日の午前十時、僕の家で作戦会議が開かれた。

 お母さんが出してくれたカルピスをいち早く飲み干すと、池沢くんがいつもの神経質そうな早口で会議の口火を切った。

「まず、図書室の本を売り飛ばした理由を話してくれ」

 僕は淡々と説明した。そう、一年前――新作のゲームデッキ、ニンテンドン4Kが発売された。4Kの最高画質を売りにしたそのデッキを、当時の僕は喉から手が出るほど欲しかった。

 だが、手持ちのお小遣いでは買えない。銀行に貯金しているお金も、親の許可がなくては引き出せない。輪をかけて、読み終えもしない漫画を衝動買いするために、散財した事で僕は財政難にあった。仕方なく、読み終えてもいない本を売りに走ったが、スズメの涙にも満たなかった。

 諦めかけた時、お父さんから予想外の朗報を聞かされた。以前、僕がネットオークションに出品した古い本のうち、一冊の落札額が三万円をゆうに超えたというのだ。棚からボタモチの収入に、僕は有頂天になった。程なくして、そのゲームデッキを購入したのは言うまでもない。

 今思うと、あの本が『妖怪悪霊大図鑑』だったに違いない。

 そうだ、言うのを忘れていたが、腹心の友その二、仲上くんは家に来てからずっと腕を組んで、目を固く閉じたまま瞑想していた。

 茶髪でタンクトップでサンダル履きの姿から、将来は痛い車に乗る大人になるような感じだった。でも、今のところは熱血漢の少年で通っている。

 仲上くん抜きのまま、二人で方策を練った。

 僕の話を聞き終えると、池沢くんは「やはりな」と難色を示した。

「やはりって?」

「山野辺はとんでもない本を手放してしまったんだ。昨日、ネットで調べたが、例の本はとんでもないプレミア本なんだ」

「プレミア本……?」

「希少価値が極めて高い古書なんだ」

「希少価値って何?」

「数が極めて少ない。つまり、そこいらの本屋には置いていないってことだ」

 どうりで昨日、いくつも本屋を回ったが、一冊も置いてなかったわけだ。

「コレクター達の間では、『妖怪悪霊大図鑑』は幻の奇書という扱いを受けている。十万以上の価値があると言われている」

「そんな……じゃあ、どうやって手に入れたらいいの?」

「通常の買い物では無理だな。やるなら、オークションしかない」

 池沢くんは、持ってきたノートパソコンを立ち上げ、インターネットのYAPOOからヤプオクへアクセスした。

 書物のカテゴリーから『妖怪悪霊大図鑑』を検索すると三件が出た。落札済み、初版本というだけで五十万円、ただし偽物の可能性あり。ダメだ、全然話にならない。

 僕が諦めかけたその時、「これだ!」と叫ぶ池沢くん。三件目を指していた。

 出品額はなんと、百円。他の入札者はいない。出品者の名は、ナナイさん。

 ネット上のハンドルネームなので、本名ではないし、もちろん男か女かは判別できない。だけど、僕には二十歳ぐらいの優しいお姉さんを想像した。そんな人が妖怪の本を読むなんておかしい気もしたが、蓼食う者は好き好きというし、実際は天使のような優しい人に違いない。

 終了まで三分をすでに切っていた。

「山野辺、予算はいくらまでにする?」

「五千円。いや、貯金を下ろすから一万円まで粘る」

 ネットオークションは、時間が消える前に入札が一気に増える。入札される毎に金額が上がり、時間も再びカウントされる。落札できるのは、高額入札者のみ。

「いくぞ……」

池沢くんが入札ボタンを押した。二百円。カウントは一分を切り、刻々とゼロへ近づく。僕は恐ろしく緊張していた。生まれて初めて味わう長い一分だった。もう落札しただろうと時計を見ると、まだ半分しか経っていない。お願いだからこのまま落札させて下さい。僕は切に願った。

 残り時間を五秒切ったところで、カウントが一分に増えた。三百円。

「他の誰かが入札した。こんな好条件をマニアがほっておくはずがない」

 新たな入札者の名前が表示された。その名は“愛あんゼットⅡ”。なんかエッチな感じのするハンドルネームだな。こんなふざけた奴に落札を邪魔されたかと思うと悔しい。

 カウントがまた減っていく。十秒になった時、僕は池沢くんに再入札を頼んだ。四百円。再び、残り時間が更新され、数秒になった時、相手がまた入札してきた。

 相手はまたしても愛あんゼットⅡ。

 頼むからあきらめてくれよ! 僕はディスプレイ越しに訴えた。

 その叫びも空しく、空しく入札の攻防はその後も続いた。時間が経てば経つほど、消耗戦と化していった。上回っては追いぬかれ、緊張と失望、希望と苛立ち、まさにカウントダウンに弾け合う最高入札者の争奪戦だった。

 いつの間にか、僕の部屋には怒号と悲鳴が飛び交い、僕は机を叩き、池沢くんは「これで終わりだ!」と「クソっ」を繰り返す。

 仲上くんは未だ地蔵のまま動かない。

 百円単位の戦いは、五百円、千円、と値がつり上がっていく。当然、入札額も上昇一辺倒だった。そして、勝負は万単位になってからも続いた。

「こいつ……池沢くん、こっちは二万で入札して。倍返しだ!」

「限界じゃないのか?」

「ここまで来て負けたくないんだ!」

 しかし、愛あんゼットⅡはすぐに上乗せしてきた。三万円。俺はこれぐらいの金を出せる。お前はどうだ。そう言ってきているように見えて仕方がない。

「あっちが三万なら、こっちは五万だ! 五万で入札して!」

 もう本を手に入れるとか入れないの問題じゃない。重要なのは、僕らが憎き愛あんゼットⅡに勝つ事だった。こいつにだけは負けてたまるか。自分でも信じられないほどの闘争心が脳をかき乱す。

 だが、カウントが十秒を切っても、池沢くんは入札しなかった。とうとう残り時間がゼロになった。やがて……。


『残念! この商品は愛あんゼットⅡさんが落札しました』


 無常な表示と共に、最後の希望はついえた。

「池沢くん、なんで入札しなかったんだい?」

「冷静になれ、山野辺。ネットオークションでは絶対に熱くなってはいけない」

「でも、本が手に入らないよ!」

「残念だが諦めろ。このナナイと愛あんゼットⅡはグルだ。おそらく、ナナイの雇ったサクラか、自演だ」

「サクラ? 自演?」

「ネットオークションでは時々いるんだよ。出品者とグルになって、他の入札者と競争させる。高額になるまでね。もしくは、この二人は自演、つまり一人二役かもしれない」

「そんな……」

 途端、さっきまで天使のような人だと思っていたナナイの評価が変わった。実物に会った事はないが、きっと、人の弱みに付け込んで地獄にたたき落とすような、悪魔のような極悪人に違いない。

 僕はどうしようもない敗北感に身を悶えながら床を転がった。あまりに理不尽な結果に怒りの矛先を、さっきから微動だにしない仲上君に向けた。

 さっきから瞑想している彼を睨みつける。そこにいながら仏像みたいに意見を出さない彼に対して、苛立ちを感じた。

「どうして、君は黙っているんだ? 何か良い案はないの?」

 仲上君はゆっくりと目を開ける。その瞳に、いつもの彼とは違って輝いて見えた。

「お前たちは楽ばかりしてる」

「なんだって?」

「楽な方法でしか問題を解決しようとしない。なぜ、苦難から逃げる。安易な方法しか選ばない。少年ジャ★プの主人公だって、強敵を倒すのに苦しい修行を繰り返し、友の死を乗り越えて、ついに戦いに勝利するんだぞ。お前らは紙の上のキャラ以下だ」

 まるで誰かが、仲上君に乗り移ったようだ。テレビで、僕らは確か“さとり世代”と呼ばれているが、彼は何かに目覚めたのだろうか。

「現実でもな、友情と努力がなければ、勝利はねえんだ!」

 断わっておくけど、仲上くんは某出版社の週刊漫画雑誌の回し者ではなく、小学五年生の凡人に過ぎない。少しこじらせてしまっているだけなのだ。だけど、今回は少し重症みたい。

「君は何か名案があるの? 言葉だけなら誰でも言えるよ」

「本がなければ作ればいい」

「何?」

「作るんだよ。紙に書き写すなりコピーして貼り付けて、それらを製本するんだ」

 その方法が苦難なのか楽かは分からない。しかし、仲上くんは一つ重要な点を見落としている。

「コピーを作るにも、元の本がないから書き写せないよ。というか、本物があったらそれを安西さんに渡して終わってるよ」

 やはり、彼は馬鹿なのかもしれない。ダメな奴はダメなのか。

 しかし、この日は違っていた。

「ある。本物の本ならここにあるぜッ!」

 大声で叫びながら、大げさな動作でリュックから『妖怪悪霊大図鑑』を取り出して床にたたきつけた。表紙はネットの画像と同じであった。間違いなく正真正銘の本物だった。

「どうやって、これを?」

「池沢から本の事は聞いていたから、今日の朝、片っ端から図書館に電話をした。隣りのそのまた隣りのそこにあったから、電車賃がもったいないから、往復二時間かけて借りてきたんだよ」彼はカルピスを飲みきると、かっこよく付け加えた。

「すべては山野辺、お前のためだ。ダチのためならどんな苦難にも耐えてやったぜ」

「仲上君!」

 僕は泣きながら彼に抱きついた。

「君は天才、英雄だ」

「これが漫画なら堂々のトップだ、山野辺」

「うん。引き伸ばしに引き伸ばして、アニメ化、実写化も夢じゃないよ」

 持つべきは熱血志望の友人である。今日から、三人のランクは、上から仲上くん、僕、池沢くんに更新だ。

「これは違うな」

 池沢くんが本のページをめくりながら言った。

「中身が別の本だ」

「え?」

 顔を青ざめた仲上君は、本の中身を確認するや否や、「なんじゃこりゃあ!」と声を上げた。

 表紙の『妖怪悪霊大図鑑』をめくると、『これを読めば、あなたも和菓子職人、おいしい羊羹甘栗大図鑑』とタイトルが出てきた。

 本の内容は、甘栗と羊羹の作り方、その成り立ち、隠し味、和菓子の巨匠などが紹介されている。中身を確認すれば、決して間違えるなどあり得ない。

 でも、仲上くんは間違えてしまった。これが漫画の世界なら、メディアミックスなんてとんでもない。ところてん式に雑誌の巻末へ追いやられ、陽の目を見ないうちに十週で打ち切りだ。

「きっと、図書館の利用者が別の本を差し替えて盗んだんだろうな」

「仲上くんは気がつかなかったの?」

 茫然自失になった彼は、生きているようで死んでいるのと同じだった。本人を責める気にもならない。やはり、ダメな奴はダメなんだ。でも、無理して背伸びをしない、いつもの仲上くんで安心した。

 僕は怒りを感じた。仲上くんは、人一倍正義感が強くて、純粋な心の持ち主なのだ。そんな親友をだましたばかりか、図書館にある皆の本を盗むなんて。

 いくら珍しいからって、本泥棒は最低だ!

「こうなったら、書き写そう」

 池沢くんがそう言った。でも、元の本はない。まさか、羊羹の本をコピーする気か。それで安西さんの目をごまかせたら、あの“猫事件”も起きなかった。

「この本は幻の奇書だ。それが何を意味しているか分かるか?」

 池沢くんの顔に影が差した。いつもよりも陰気な表情だった。不健康そうな頬、疑い深そうな目つきだけど、だまされる回数が多い。茶髪の仲上くんよりも乱れた髪は、狂気をのぞかせるというより、ただただだらしないようにしか感じない。

「池沢くん……」

「本の内容なんて、誰も見た事がないんだよ。あの、安西だって」

 池沢くんは僕らに言い聞かせると、ヒッヒッヒッと不気味な笑いを漏らす。将来、彼がやばい犯罪を起こしませんように。

「この手の本の中身なんてたがか知れてる。妖怪の解説とか、種類とか」

「そうか、俺達で勝手に作っちまえばいいのか!」

「でも、僕らは絵が上手じゃないよ」

 そろって図工の成績がオール【もう少しがんばろう】の三人が集まったところで、もう少し頑張らないとダメだ。

「別の本とかネットから取ってくればいい。妖怪、悪魔、クリーチャー。なんでもいい。手当たり次第にコピペしてしまおう」

「よしやろう。俺と山野辺は、使えそうな妖怪の絵を揃えるから、池沢は解説を頼む」

「決まりだね」

 僕らは一斉に作業を始めた。


 そして、月曜日の朝礼前。

 僕は安西さんの席に向かった。一歩一歩が重く感じる。震える手で持つ本を、彼女に渡した。僕ら三人の変わり果てた姿を見て、安西さんは一瞬、眉をひそめた。

 無理もない。土曜日曜と僕達は僕の家で夜通し行われた製本作業は、日曜の深夜に完成したのだ。翌日は三人そろって遅刻した。目の下にクマが浮き出るほど憔悴しきっている。

 だが、本は完成した。僕らは長く孤独な戦いに勝った。友情と努力の賜物である。

「お待たせ、安西さん。約束の本だよ」

 安西さんは表紙を観察すると、パラパラと読み始めた。本の中身は、寄せ集めた妖怪百匹のイラストと解説だ。途中から、日本の妖怪だけでなく、ゲームに出てくる不気味な敵キャラの怪物、自分で捕まえて育てる愛嬌のあるモンスターに、しまいには妖●ウォッチのジバに×んまで記載されている。半世紀以上の昔の本だけど、二十一世紀の妖怪まで網羅する、予言の書だということにした。

 安西さんは目を細めながら、本を斜め読みしていく。時々、口元がヒクヒク震えているのはしゃっくりを我慢しているからだろう。青い筋が少し浮き出ているのも貧血気味なのだろうと納得しつつ、僕らは彼女の動向を見守った。大丈夫。バレやしない。僕ら三人は同じ思いで祈っていた。

 最後のページをめくった直後、安西さんの指と目が止まった。

 そして、本を机に叩きつけた。

「これ、何のつもり?」

 前髪からのぞく怒気をはらんだ瞳。睨まれたら石にされてしまう伝承の通り、誰も動けないでいた。

 百匹の妖怪を図説で紹介するコーナー。その最後を飾る百匹目は、僕の創作だった。


 身の毛もよだつ妖怪その百、アンザイさん


 この世で一番恐ろしい妖怪。何が恐ろしいのか説明できないほど、とにかく怖い。人をだまして、脅かして、色々と悪行を重ねさせる。人前では猫を被り、善良な人間にその本性を現す。退治はできない。


「なんで、安西を妖怪にしたんだよ」

「仕方ないじゃないか。ネタがなかったんだ」

 仲上くんと僕で完全に墓穴を掘った。

「本は偽物ね」

「ごめんなさい」

 僕ら三人は観念して謝って、これまでの経緯を洗いざらい白状した。

「本はどこにもない。もう手に入らないんだ」

 安西さんは肩をすくめた。

「ナナイから落札すればよかったのに」

「ナナイ……ヤプオクのサクラか。なんで、それを?」

 安西さんは自由帳の一ページを切り取り、五等分に千切ると、それらにアルファベットを書き込んだ。N、A、N、A、I。ローマ字読みにすると、『ナナイ』になる。愛あんゼットⅡとかいう奴と結託して、僕らをだまそうとした、極悪な出品者である。

 安西さんの手が、文字の順番を変えた。

 A、N、N、A、I。

 池沢くんがいきなり小さく叫んだ。その理由に僕と仲上くんはまだ気づけないでいた。

 彼女の手が、二番目のNを九十度傾ける。NがZになった。最初から読むと……。

 A、N、Z、A、I……アンザイ……安西! 

「あっ!」

 今度は二人で叫んでいた。

「ナナイは私のハンドルネームなの。ついでに――」

 同じ要領で、彼女はアルファベットの書かれた切れ端を再び並べた。

 A、I、A、N、Z、Ⅱ。サクラである、愛あんゼットⅡのローマ字に変換したやつだ。彼女の手が並べていく。A、N、Z、A、I、Ⅱ。安西Ⅱ。

「わたしの二番目のハンドルネームなの」

 あの二人は、彼女の二人二役だったのだ。僕らはそうと知らず踊らされていたのだ。

「それと、本はここにあるの」

 安西さんはそう言うと、机の中からあの『妖怪悪霊大図鑑』を取り出した。中身は羊羹のレシピではなく間違いなく本物だった。

「どうやって手に入れたの?」

「一年前、ネットオークションで手に入れたの。出品者は、たぶん、山野辺君」

「そんな馬鹿な!」

「彼女の言っている事は本当だ。これを見ろ」

 池沢くんは本の背表紙を示した。なんと、うちの学校の校章が印刷されているではないか。間違いなく、この本は、一年前に僕が売り飛ばしたものに違いない。

 確かあの時、この本を落札した人の名前は……。

「ナインAA。あの時、三番目のハンドルネームで落札したと思う。

 そうだ、あの本を落札してくれたのは、そんな名前の人だった気がする。

「ナインAA……」と、池沢くんは復唱しながら、ノートに書き込んだ。

 ナインは英語の9。綴りはN、I、N、E。さらに、Aを二つ加えて並べ変える。

 A、N、N、A、I、E。

 二番目のNをZに傾け、最後のEを反転させると……A、N、Z、A、I、3。

 安西3だ。もしくは、安西さんか。それとも、安西惨?

 一年前から、僕らと彼女は赤い糸ならぬ、因縁のどす黒い糸で結ばれていたのだ。

 当の本人はシタリ顔で、僕に向かってこう言った。

「ねえ、この本とゲームを交換しない? それでチャラにしてあげるから」

 僕がどう返答したか、もう言わなくても分かるでしょ? 

 彼女と争うなど、屋上から飛び降りるほどの勇気が必要だろう。きっと、安西さんも僕らの答えを知っているに決まっている。


 かくして、『妖怪悪霊大図鑑』は一年ぶりに返却された。嬉しく思うべきなのかは、僕としては心境が複雑だった。初めから、安西さんの悪ふざけに付き合わされた上に、ゲームまで没収された。今思うと、僕の持っているゲームデッキが欲しくて、今回の企みを実行したかもしれない。

 真実は彼女の心の中にしまってある。別に覗く気にもなれなかった。

 ところで、僕らの製本した偽『妖怪悪霊大図鑑』は、安西さんの計らいにより、同じ棚に一緒に置かれる事となった。その際、彼女から一ページだけ修正するように要求されたので、仕方なく命令に従った。そのページは言うまでもなく、百匹目の妖怪の件だった。

 世にも恐ろしい妖怪アンザイさんから、彼女の監修により、まったく新種の妖怪に差し替えられた。動物のナマケモノに僕の顔に酷似したそいつは、以下の解説がされている。


 身の毛もよだつ妖怪その百、ヤマノベくん


 妖怪なのに全く怖くない。とんでもなく忘れん坊で、大変ものぐさな性格をしている。この妖怪に用事を頼むのは避けた方がよい。頼むだけ時間の無駄である。

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