タイムマシンは僕のせい
帰ってすぐに机に向かう気にもなれず、制服のままベッドに倒れこんだ。
高校三年生なんだから、勉強漬けになるのは当たり前だ。だけど将来のことを考えると、それでいいのかどうか分からない。時の流れというのはとても速くて、中途半端に立ち止まったところで暴風によろめかされるように体は進んでしまう。だから今日は少し気力を持って踏みとどまって考え、結論を出してしまうことに決めていた。
人に笑われるから言わないが、僕には幼い頃からタイムマシンを作りたいという夢がずっとある。タイムマシンが出てくる作品は知っている限りすべて見てきたし、時間移動に関係があると思われる学術書なんかもできる限り目を通してきた。
一方で年齢を重ねるにつれ、自分の抱くものとは違う進路を進み始めている。就職率の高い大学を探し、生きていくうえで役立ちそうな学科を選び、そのためにこれっぽっちも興味のない単語や文法を頭に詰め込んでいる。それでも夢に対する熱意は薄れていないのだ。足繁く塾に通ってタイムマシンにまったく関わりのないことを頭に詰め込んでいる一方で、その帰り道に本屋に立ち寄って科学雑誌を毎週買っている僕も確かに存在する。
何かがぶつかったような鈍い音がして、即座に音のした方に視線を飛ばした。そこには昨夜分解されたままほったらかしになっているリモコンカーが広げられている机がある。しかし勘違いでは絶対にない、はっきりとした音だった。まるで机の引き出しの中で、誰かが頭をぶつけたような音だった。
タイムマシンが登場する作品はたくさんあるが、特に僕に影響を及ぼしたのはドラえもんだろう。机の引き出しから現れて、のび太を連れて時間を旅する姿はまだ幼い僕の心を強く掴んだ。
だから、まさか、と思った。中学の時に事故で死んだ友達は幽霊になってバイクで疾走しているように、部屋から頻繁に物が無くなるのは体の小さなUMAの仕業であるように、まさか僕のもとにも未来から青い猫型ロボットがやってきたのかと。
しかし、机の引き出しから現れたのは見難い現実を形にしたような男性だった。毛玉だらけのセーターの上に羽織っているのはどうやら白衣のようだが、茶色い汚れがところどころついているし、全体的に煤けているようで、白いところはどこにもない。彼は机の引き出しから飛び出してきて畳の上に降り立つと素早く周りを見回し、ベッドに起き上がったまま固まっている僕を見て破顔した。
「ああ、やった。本当に僕は過去に来れたんだな!」
この人物の正体に大体の察しはついていたが、予想していたものとはかなり違う。僕は恐る恐る声をかけてみた。
「あの、もしかして……」
顔が引きつったようにしか見えないその表情は、どうやら少し顔を綻ばせたもののようだった。
「君の方から言い出してくれると手間が省けて助かる。僕は板橋渉。つまり、未来の君だ。一応身の証の立て方も考えてきたんだが、聞くかい」
「……はい」
それから彼は物心ついたときから高校三年生の今までの記憶を語り始めた。物事については調べれば分かることだが、彼はその時々の心情についてもよく知っていた。だがそれよりも、僕には何をおいても確かめたいことがあった。
「そして今は進路を迷っている。そうだね?」
「うん、その通り。確かにあんたは僕だ。それよりさ、あんたがこうしてここにいるってことは、僕はタイムマシンの発明に成功したんだね!」
興奮した僕を押し止めるように彼は首を振りながら手のひらで僕を制した。
「確かに僕はタイムマシンを開発することには成功した。でも君はたった今からタイムマシンのことなんか考えるのはやめて、真面目に受験勉強をするんだ。そしてサラリーマンにでもなって平凡な家庭を築けばいい」
「なんでそんなこと言うんだよ。そうだ。そういえばあんたはここに何をしに来たんだ? 僕はタイムマシンを開発したら未来に行こうと思ってたはずだ」
「それはね。君がタイムマシンを開発することを止めるためだよ」
彼の瞳は真っ直ぐに僕の瞳を射抜いた。いったいどんな人生を過ごして来たらこんなにも曇りのない瞳になるのだろうか。
「タイムマシンの開発に成功したという結果だけ見れば君が興奮するのも分かる。だけどここまで来るのに僕は大きすぎる犠牲を払った。金はもちろんだが、足りない分は知り合いすべてに借りてきたから友人は去り、親には絶縁され、恋人には逃げられ……。見た目には分からないだろうが、この体も大部分がすでに生身ではない」
手袋を外した彼の手は、鉄臭く鈍色に光っていた。
「なんで……」
「生身は金になるのさ。未来では人工物の方が金がかからなくてね」
自嘲気味に笑って、手袋を元に戻した。
「自分で言うのもなんだけど、いくらタイムマシンを作りたいからって、自分がそこまでするとは思えないよ」
「だったらこれを教訓として覚えておくといい。いつだって引き返したいと思った時には、事態はもう引き返せないところまで来ている。途中からタイムマシンを作ることが目的から手段に変わっていたのさ。過去の僕にタイムマシンを作らないように忠告し、現状を変える目的のための手段に」
彼は大儀そうに立ち上がると、机の引き出しを開けた。
「いいか、絶対にタイムマシンの開発はするなよ。君が違う進路を選べば僕もちょっとはいい思いができるだろう。もしくは選ばれなかった未来として消えるか……まあどっちにしても今よりはマシさ」
「ちょっと、それはどういう……」
言いたいことだけ言うと、彼は机の引き出しの中に消えていった。すかさず閉じた引き出しを勢いよく開ける。当たり前だが、中学生のとき機械いじりに使っていたドライバーやらネジやらがごちゃごちゃと詰まっているだけだ。でもついさっき、当たり前でないことが起こった。未来の自分が警告しに来るという、漫画染みた出来事が。
再び一人になると急に脱力感が襲ってきて、僕はまたベッドに倒れこんだ。目の前に広がる見慣れた天井が他の何よりもここは違う世界ではなく、間違いなく自分の部屋だということを教えてくれる。
今度はギギギギギッという音がした。また机の引き出しの中だ。独りでに引き出しが開くのは先ほどと同じだったから、また未来の僕が戻って来たのかと思った。ところが机の引き出しから脂汗を垂らしながら息も荒く這い上がって来たのは、彼にも僕にも似ても似つかないでっぷり太った大男だ。反対に身なりはきっちりしていて、今にもボタンがはじけ飛びそうなスーツは素人目で見ても高そうなもので、ネクタイピンにはダイヤのようなものが嵌っている。彼は床が抜けないか心配になるほど大きな音を立てて、引き出しから出てきて僕を見つけるとにっこりと二重あごのしわを伸ばした。
「やあやあ。元気かね?」
「あんた誰だよ」
僕の質問に彼は顔をしかめた。
「失礼だな。まあ、にわかには信じられないかもしれないが、ボクは板橋渉。つまり未来の君だ」
「いや、実はさっきも未来の僕が来たんだ」
「ほう。そりゃ面倒な説明が省けて助かるな」
「でも、僕とあんたじゃあ体格が違いすぎる。一体何があったらこんなことになるんだ?」
「むっふふふ」
彼はいやらしい笑い方をした。
「それはねえ。喜びたまえよ、キミィ。キミは、つまりボクはタイムマシンの開発に成功し、歴史に名を遺す偉大な科学者として大金持ちになったんだよ。おかげで年下の可愛い奥さんももらい、毎日を悠々自適に過ごしているものだから、幸せ太りしてしまったんだよ」
「ちょっと待ってくれよ。さっき来た未来の僕はお金や人間関係をみんな犠牲にしてやっとタイムマシンを開発したと言っていたぞ。辻褄が合わないじゃないか」
「んん? それは……」
その場で首を捻るだけで息を切らしている。きっとこいつは普段、身の回りのことをすべて機械や他人任せにして生きているに違いない。
「ああ、それはきっと別の未来から来たキミだねえ。キミから見ればもう一つの未来の可能性、ボクから見ればパラレルワールドの自分だ。何の根拠もない憶測になってしまうけれど、その彼は何か重要なことを見逃してしまったんじゃないのかな。例えば快く力を貸してくれる友人や、より簡単に答えを導くためのひらめきなんかをね。なに、気にすることはないよ。キミは安心してタイムマシンを開発すれば良い」
見かけによらず頭は回るようだ。腐っても太っててもタイムマシンの開発者ということか。しかしまだ疑問が一つ残っている。
「順風満帆な人生を歩んでいるはずのあんたがどうしてわざわざここまで来たんだ。本当はあまり上手くいってないんじゃないか?」
「はっはっはっは。我ながら面白いことを言うね。なあに、いくら僕が天才だからと言って、万が一ということもあるからね。念のためにこれを渡しに来ただけだよ」
そう言って開けっ放しになっていた引き出しに手を突っ込んで、見たこともないカバーのかかった本を取り出した。
「これは、平たく言えばタイムマシンの作り方を書いた技術書だ。大学三年生になるまでは理解できないだろうから、そのときまで金庫にでもしまっておきなさい」
ベッドに腰かける僕の手に本を押しつける彼の力は、想像していたよりも強かった。
「そしてこれは絶対に誰にも見せてはならないぞ」
ともすればただの馬鹿のように柔和だった瞳が最後の一言を口に出すときだけ、自分に対してとは思えないほどの威圧感を放った。
「盗人対策は講じてある」
先ほどの威圧がまるで錯覚かと思わせるほど、見事に笑顔に切り替わった。
「この本には各ページにナノサイズのカメラが搭載されていてね。それがキミ以外の瞳孔を識別した瞬間、読み手の記憶を消去する。強い刺激を以て記憶障害を起こさせるわけだ。不安なら適当な人間にでも試してみればいい。何も盗難の際にだけ効果が発揮されるということもないからね」
にやりと、酷く卑俗な笑みを浮かべた。
「ではボクはこれで失礼するよ。今夜はパーティがあるからさ」
机の引き出しに飛び込むのも難しく、結局転がり込むような形で彼は姿を消した。僕の手には彼の極彩色のカバーの本が残っている。
ガタガタッと慌てたような音を立てた引き出しの方に目を向けると、サラリーマンが出てくるところだった。
「ああ、やった。本当に僕は過去に来れたんだな!」
奇しくもその言葉は一番初めに来た未来の僕が発した第一声と同じだった。
「き、君は板橋渉君だね? どうかタイムマシンを開発してくれ!」
「ちょっ、ちょっと待って。少し落ち着いてくれ。あんたは未来の僕だね?」
「ああ、そうだ。どうして分かったんだい?」
「今日ここに来た未来の僕はあんたで三人目だからだよ」
そう言ってやると事情を察したらしく、一つ頷いて眼鏡の位置を神経質に直した。
「なるほど。ということは、やっぱり僕は、つまり君はタイムマシンを開発することができたんだな」
「……あんたの言うことはさっきからいまいち理解できないな。あんたもタイムマシンを開発することができたからここに来たんじゃないのか?」
「いいや。僕はしがないサラリーマンさ。僕はそこそこの大学に行き、平凡なサラリーマンとして人生を送っている。だけど、今までタイムマシンのことを忘れたことはない。大学でも専門を学ぶ傍ら、様々な学科の授業に潜り込んだりしてね。そこで彼と出会ったんだ」
彼が懐から取り出した本には『タイムマシンを開発した男』というタイトルがある。著者は知らない名前だ。
「ここを見てくれ」
彼が開いたページにはタイムマシンの開発秘話が語られており、当時彼が悩んでいた課題の解決の糸口は友人との何気ない会話の中で得られたという話だった。
「この友人というのは間違いなく僕なんだ。このとき交わした会話だってちゃんと覚えてる。ここに説明されてるこの課題を彼が僕に知らせていたら、僕がこの課題を解き、タイムマシン開発の偉大な科学者になっていたはずなんだよ!」
強い力で肩を掴まれた。
「だからいいかい、君は何も迷うことなくタイムマシンの開発をするんだ。君にはタイムマシンを開発するだけの頭がある」
頼んだよ。最後にそう言い残して、彼は引き出しの中に体を滑り込ませようとした。
「なあ!」
彼の言いたいことは明瞭だったが、それとは関係のないことが引っかかった。
「あんたがタイムマシンを開発していないのなら、どうやってここに来たんだ」
振り返って答える動作は、少し遅かったように思う。
「友人に借りたのさ」
不自然な笑顔でそう言った。彼がどれくらい未来から来たのかは分からないが、焦って嘘をつくときに手首を握る癖は当分治らないようだ。
次の瞬間、まだ僕が引き出しを見ている間にその中からまたしてもスーツ姿の男性が現れた。しかし彼は先ほどの男性とは違い、髪をオールバックで撫でつけていて、眼鏡の奥の細い瞳もなんだか厳格そうな印象を受ける。
「君は板橋渉君、十八歳で間違いないかな」
「え、ええ」
「私は板橋渉だ。信じられないと思うが、未来の君だ」
「いや、大丈夫。今日はあんたが四人目だから」
「ふうん。私の他にも未来の君が来たのか。ということは、タイムマシンを開発した連中ということだな」
「そうだけど……」
随分話が早い人だ。彼も未来の僕だから、こんな事態も想定していたのかもしれない。
「未来から来た連中はどうせろくでもない奴ばかりだっただろう? 無論私も人のことは言えないが」
少し返答に困る問いだ。確かに身なりや性格、考え方に引っかかる部分はあったが、一括りにろくでなしと断ずることはできない。
「とにかくだ。私がここに来たのは、君に忠告するためだ。いいか。これから先の人生をよりよいものにしたいと思うならば、今すぐタイムマシンなんていう荒唐無稽なことは忘れて、受験勉強に集中したまえ」
「なんでそんなこと言うんだよ。まさかあんたもタイムマシンの開発に失敗したのかい」
「まさか! そんな夢、とっくに捨てて今はサラリーマンさ。バリバリ働いてそれなりに会社にも貢献してる。けどね、頑張れば頑張るほど胸の中で後悔は大きく膨れ上がっていくのさ。学生時代にもっと真面目に勉強していたら、とね。必死に受験勉強していたらもっといい大学に入れたし、今よりもいい会社に入れた。資格を取っていたら給料だって上がっただろう。いいかい、くれぐれもこの言葉を忘れないでくれよ。いつか絶対に君のためになるから」
腕時計を確認し、忙しなく引き出しの中に消えようとする彼を呼び止めた。
「ちょっと待ってくれ。タイムマシンを開発していないって言うならあんたはどうやってここに来たんだよ」
「福引で一等を当てたんだ。こっちじゃとても高価なものだけど、実在はしてるんでね。それじゃ」
そっけなく答えると、素早く姿を消した。
またすぐに机の引き出しが開く気がして、僕はしばらくそのままの格好でぼうっとしていた。しかし誰も出てこないことが分かると、どさっとベッドに倒れこんだ。
ふと机の引き出しの方に目を向けると、黒い影が僕の傍に立って見下ろしていた。
「わあッ」
後ずさりしようとして、シーツに足を取られてその場で転んだ。
「へえ。本当に俺だ。今見れば、なかなかどうして可愛らしい坊やだな」
電気を背にしているから表情は分からないけれど、喉を鳴らして笑ったようだった。
僕が起き上がると男も後ろに下がり、彼の姿が明かりの下で露わになった。といってもつばのついた黒い帽子に黒いスーツと全身黒ずくめで、彼の正体を外見から読み取ることは難しかった。だが、まったく脈絡なく登場した泥棒と判断するよりはもう少し可能性のある予想を僕は持っていた。
「もしかして……あんた、僕か?」
そう聞くと、男は少し目を大きくした。
「そうだよ。なんだ、前にもこういう経験があるのか」
そいつは傑作だ、と今度は愉快そうに声を上げた。
「あんたはタイムマシンを作ったのか?」
「いいや。俺はタイムマシンの開発なんてやめたよ。だが、その頃には借金で首が回らなくなっててな。まあ紆余曲折あって今では立派な密売人ってわけよ。なんとこっちじゃ目玉が飛び出るくらいの値段ではあるがタイムマシンが存在していて、それがひょんなことで俺の手に転がり込んできたんでここに来たんだ」
「どうして?」
「おいおい。俺だって好き好んでこんなことをやってるわけじゃないんだぜ。過去の俺をなんとかすりゃあ、こんなクソみたいな今をどうにかできると思って来たんだ」
深い溜息をついて、もう十分に目深な帽子をさらに目深な位置に直した。
「けど、やっぱダメだな」
「え?」
「今ここでお前に何か言ったところで、未来で起こる変化なんてのはきっと誤差みたいなもんだろうよ。人生ってのは具体的な転換点があるわけじゃない。毎日の些細な選択の連続によって、俺は今ここに立ってるんだな」
ぼおっと呆けている僕の頭をくしゃくしゃにした。
「つまり、いつでもやり直しは効くってことだ。遅ければ遅いだけ時間はかかるが……。いや、やっぱ転換点ってのはあるな。一つだけじゃねえけど」
「どっちなんだよ……」
「はっはっは。まあ、そいつはてめえで決めろってことさ。じゃ、俺は帰るわ」
「…………あの!」
男が引き出しに足をかけたとき、僕はどうしてか、いけないと分かっていながらも、こう聞かずにはいられなかった。
「あんた……。あんたの転換点はどこだったんだ」
「さあ。忘れたよ」
男は一度も振り返らず、また元の世界へと戻っていった。
そして六度、机の引き出しが開いて、その中から男が姿を現した。今日現れた人物の中では一番普通の格好をしている。
「いやあ、懐かしいなあ!」
彼はまず部屋を見回して、感心したように何度も頷いた。
「あ、あの……」
「ああ、すまないね。いきなり机の引き出しから人間が出てきてびっくりしたろう。信じられないかもしれないが、私は未来の君だ。つまり」
「いや、信じるよ。なにせ、今日ここに来たのはあんたで六人目だ」
「なんだって? 私以外にも未来の君が来たのかね?」
僕は頷いて、今までのことをかいつまんで説明してやった。
「だからきっと、あんたも僕にタイムマシンを開発しろだの、タイムマシンのことなんて忘れちまえだの言いに来たんだろう?」
「はっはっは! 歴史というのはまったくうまくできてるもんだね。ぴったりきっちりしすぎて気持ちがいい。恐らくここに来るのは僕が最後だろう」
彼は後ろで手を組んで、部屋をゆっくり歩き始めた。
「私は何も言わないのか、という先の君の質問に対する私の答えはノーだ。この際だからすべて話すが、私はタイムマシンの試乗権を譲ってもらってね。いろいろの時代を回っているんだ。さっきは危うく戦時下の秘密警察に捕まりかけたところだよ」
ちらりとこちらを見たが、僕が笑わないのを見て少し眉を下げた。
「その途上でふと青春時代を懐かしみ、ここに来たのさ。そして最後にこれを渡すつもりだった」
膝の上に置かれたのは、銀色をしたリモコンのような物体だった。
「……これは?」
「スイッチを押した人間の記憶を消す装置さ。効果はきっかり一時間。つまり」
そこで彼は腕時計を見た。わざわざ準備して来たのか、僕にとって見慣れたデザインだ。
「予定通りにいけば、君がベッドに寝転んでから、ちょうど私が姿を消すまでだな」
「今までの記憶が無くなるってこと?」
「その通り。僕には、過去に未来の自分と接触した記憶は無い。だから君がこれを押せば、僕の記憶の整合性は保たれるわけだ」
「もし押さなかったら?」
「まず間違いなく僕の存在は消えるだろうね。今日ここに来た僕たちも同様に」
「じゃあ押さないといけないんじゃないか」
「何故? それを押さなければ、押さなかった未来の君が可能性として問題なく残る。いいかい? 生きていくというのは、可能性を消していくことだよ。我々はこうしている今も話すという選択をして、他の選択肢を選んだ可能性を消しているんだ」
「……あんたらと話して、僕の頭はさっきよりぐちゃぐちゃになった。僕は一体どうしたらいいんだよ」
「まあ一つの考え方だがね。僕は、後悔しない選択をするしかないと思ってる。そのためには、一生懸命悩んで決めていくしかない。そりゃ後悔しないなんてことは絶対無いが、そうすることで後悔を減らすことができると思っているからだ。勉強に、友情に、仕事に、恋に、悩む時間が人間を育てる」
へたくそなウインクをしておどけてみせた。なんだかふざけた僕だ。意趣返しをしてやるつもりで、僕はこう言ってやった。
「あんた、僕に何も言わなかったんじゃなかったの?」
すると彼は僕と同じに違いない意地悪な笑顔を見せた。
「なに、これまでの君の記憶は消えるから問題ない。そして君が私になるのなら、そのとき君は私の助言を手に入れたと同じになり、この助言は無駄にはならない」
ではな、と茶目っ気たっぷりに手を振る。その手には未来の僕が持ってきた二冊の本が握られていた。
目を覚ますと、窓の外はもう真っ暗だった。帰ってすぐに寝転んで一時間も眠りっぱなしなんて、生活習慣を見直した方がいいかもしれない。
なんだか長い夢を見ていた気がする。ふと手元を見ると、見たこともない機械を握っていた。ボイスレコーダーっぽいが、ボタンが一つしかない。とにかく夕飯を食べてから、後でゆっくり調べてみることにしよう。