一片桜
この作品は、Web企画「桜アンソロジー」参加作品です。
あなたの生命が、一片になっても。
その最後の一片さえも、わたしは愛するでしょう。
◇
東風を孕んだ薄紅が、音もなく舞い上がる。
その軌跡を追いながら、男はそっと眼差しを細めた。
あたたかな春の陽射しと、澄み渡った空の青の下、満開を迎えた花びらが風に散る。
「若君」
その光景に溶け込むように、舌足らずな声が耳朶を撫でる。
ふわりと、男の穏やかな容貌が綻んだ。
「笹」
青と白の結い紐でまとめられた、幼髪。
切り揃えられた前髪から覗く、大きな濡れた双眸。
幼い風貌には到底、似合わない苔色の細長を身に纏うのは、十歳ほどの少女である。名を、笹と言った。
主人である男の声に、少女もまた口許に花を咲かせる。
「ごらん下さいませ、若君。あそこに、こぶしが咲いておりますわ」
小さな指先が、東を指差す。
誘われるまま視線を巡らせれば、なるほど、白い花木が目に入った。
まるで嬰児が手を握りしめたような形は、薄紅と若草で賑わう景色の中でひどく鮮やかだった。
都の外れに位置するその屋敷は、人気が絶えて久しい。
すっかり乾いた建物はただの木材と化し、はこびる蔦の深緑が絡まる。穏やかな光の中で、青年と笹のふたりだけがそこに佇んでいた。
「笹は、昔からわたしにいろんなものを見せてくれたね」
少女の横髪を一房掬いながら、青年は語りかける。
えぇ、と笹はくすぐったそうに笑った。
「笹も、若君にたくさんのことを教えて頂きましたわ……幼いわたしを肩に乗せて、いろんな景色を見せて下さいました」
だから、これはそのお返しなのです。
丸みを残した頬を淡紅色に染め、少女は笑顔を揺らす。目許に差した影も、その色も、幼いとばかり思っていた少女を、少しだけ大人びて見せた。
「けれど、わたしが与えた以上に、笹は様々な世界を教えてくれていたよ」
少女の成長に、青年は再び目を細める。
浮かんだ表情には、溢れんばかりの愛情と、微かな寂しさが滲んでいた。
「ここから動くことの出来ない、わたしとは違って。何処までも飛んでいける君は、わたしに、世界の広さを教えてくれた……」
右手で彼は少女の手を取る。
そして、懇願するように己の額へと寄せた。息づく生命のあたたかさに、言葉にならない思いがぐっと込み上げる。
「そのことを、わたしは、何よりも感謝しているのだ」
「若君……」
主が見せた儚げな雰囲気に、少女の胸が慄く。
優しげな口許に浮かんだ甘い笑みも、今はただ不安だけを引き起こさせた。
「っ、これからだって、笹が教えて差し上げますわ。夏も、秋も、冬も……次の春も。いつだって、笹が、外の楽しい世界を教えて差し上げます」
縋りつくように、ここに引き留めるように、笹は青年の動かなくなった左腕に身を寄せた。空恐ろしいほどの静寂が、ふたりを包み込む。
その静けさに、このまま時が永遠に続くような気さえした。そして、笹はそれを切に望んだ。
けれど、それが錯覚だということは、もう幼くはない彼女にも分かっていた。
「笹」
青年の口から、少女の名前が落ちる。
耳を塞ぐ代わりに、笹はより強く、彼の腕に四肢を絡ませた。だが、その口から言葉が途切れることはなかった。
「君も、早く、行きなさい」
その言葉の重みに、笹は小さな両肩を震わせた。
苔色の袖から零れた掌が、ぎゅっと握りしめられる。聞き分けのない子供のように、いいえ、いいえ、と少女は頭を振った。
「笹は、何処にも参りませぬ」
下唇を噛み、笹は上目がちに青年を見つめる。
その瞳には、いじらしい恨みが見え隠れしていた。
「母亡きあと、わたしを育てて下さったのは若君でございます。どうして、そのご恩も返せないまま、置いて行くことなどできましょう」
唯一の肉親であった母親を亡くし、野山に彷徨うしかなかった彼女を掬い上げてくれたのは、他ならぬ彼だった。
既に屋敷は寂れ、親しい仲間内もいなかったけれど、穏やかな愛情に包まれた笹は、一度として「淋しい」と思ったことなどなかった。
それは、彼が与えてくれた世界だ。そして、笹が返したいと願う世界だった。
「笹は、笹だけは傍におります。いつまでも、いつまでも、若君のお傍に……」
いつでも彼が隣にいて、優しい眼差しを注いでくれた。
だから、彼女もまた、彼の傍を離れようとは思わなかった。何処までも、共に行きたいと願った。
「だから、どうか、笹も連れていって下さいませ……」
それが、たとえ死出の旅だとしても。彼と共に行けるのならば、何も怖くはなかった。
それなのに。
「――それは、出来ない」
少女の想いとは裏腹に、彼は首を横に振った。
「っ、どうして……」
「そんなこと、絶対に許してなんか、あげないよ」
穏やかな笑みが、彼女を咎める。その優しさが、このときばかりは残酷に思えた。
いつだって味方でいてくれた双眸が、初めて彼女を裏切る。胸が、痛んだ。
「……さぁ、時間だ」
轟々と、地鳴りのような音がふたりを引き裂く。
春の嵐が、別れのときを告げた。
「……っ、若君……」
少女は、大粒の涙で頬を濡らした。
ぽろりぽろりと、悲しみは途絶えることを知らない。だが、その涙を目にしても、もう、彼が優しい言葉をかけてくれることはなかった。
その沈黙が、全ての答えだとでも言うように。少女に、拒否権はなかった。
「さようなら。若君、……」
恨めしげな背中が、後ろ髪を引かれながらも遠ざかっていく。
彼女の苔色が翻り、青年の鼻先を掠めた。春の陽射しに似た匂いが、甘くたゆたう。
「さようなら、笹……」
去っていく後姿に、心惹かれるように手を伸ばす。
その視界を、さらさらと名残惜しむような薄紅が染めた。
(……笹、愛しい笹。……君の未来が、どうか、明るくありますよう……に……――)
軋むような祈りを抱いて、重たい身体がゆっくりと傾いでいく。
そして、男の意識は永遠に途切れた。
◇
碁盤上に整えられた都の外れに、その屋敷はあった。
某とかいう貴族が所有していたその邸宅は、主人が政争に敗れて都を追われると、瞬く間に廃れていった。人気は失せ、屋敷は草木の海に沈み、物寂しげな雰囲気に狐狸さえも寄り付かなかった。
けれど、ただひとつ、まるで主の帰りを待つように一本の桜だけが毎年、荒れた庭先に色を添えていた。その左半身は数年前の落雷によって腐っていたけれど、それでも桜は咲き続けた。
だが、今年一番の春の嵐を前に、とうとうその生命は力尽きたらしい。
地鳴りのような大きな音を響かせて、大木は倒れた。桜の木としてはまだ若く、その寿命は六十年にも満たないと思われた。
彼の亡骸を、夥しいほどの桜花が埋めていく。
その中で、一際目立つ小さな苔色があった。それは、一羽の幼い鶯の子供だった。
春の雨に打たれても、強い風に晒されても、鶯はいつまでもその傍を離れようとはしなかった。すっかり色褪せた花びらを啄ばみ、舌足らずな声を上げては苔むした羽を震わせる。そうして、鶯は、いつまでも、いつまでも桜に寄り添うかに思われた。
けれど、春もやがては終わりを告げる。
そして、その最期の一片が土に還る頃、鶯の子は哀しげな声を響かせながら飛んで行った。
――ホキョ、ホキョキョキョキョ……。
鳴き声は尾を引いて、遠い空の彼方へと消えて行く。
あとにはただ、訪れた初夏の風と、耳鳴りのするような静けさだけが取り残された。
※感想で指摘されてから知りましたが、鶯は本来、オスしか鳴かないそうです。が、内容としては気に入ってる作品でもあるため、そのまま掲載させて頂きました。悪しからず。