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一片桜

作者: 白藤宵霞

この作品は、Web企画「桜アンソロジー」参加作品です。

 あなたの生命が、一片(ひとひら)になっても。

 その最後の一片さえも、わたしは愛するでしょう。



 東風(こち)を孕んだ薄紅が、音もなく舞い上がる。

 その軌跡を追いながら、男はそっと眼差しを細めた。

 あたたかな春の陽射しと、澄み渡った空の青の下、満開を迎えた花びらが風に散る。


「若君」


 その光景に溶け込むように、舌足らずな声が耳朶を撫でる。

 ふわりと、男の穏やかな容貌が綻んだ。


「笹」


 青と白の結い紐でまとめられた、幼髪。

 切り揃えられた前髪から覗く、大きな濡れた双眸。

 幼い風貌には到底、似合わない苔色の細長を身に纏うのは、十歳ほどの少女である。名を、笹と言った。

 主人である男の声に、少女もまた口許に花を咲かせる。


「ごらん下さいませ、若君。あそこに、こぶしが咲いておりますわ」


 小さな指先が、東を指差す。

 誘われるまま視線を巡らせれば、なるほど、白い花木が目に入った。

 まるで嬰児が手を握りしめたような形は、薄紅と若草で賑わう景色の中でひどく鮮やかだった。


 都の外れに位置するその屋敷は、人気が絶えて久しい。

 すっかり乾いた建物はただの木材と化し、はこびる蔦の深緑が絡まる。穏やかな光の中で、青年と笹のふたりだけがそこに佇んでいた。


「笹は、昔からわたしにいろんなものを見せてくれたね」


 少女の横髪を一房掬いながら、青年は語りかける。

 えぇ、と笹はくすぐったそうに笑った。


「笹も、若君にたくさんのことを教えて頂きましたわ……幼いわたしを肩に乗せて、いろんな景色を見せて下さいました」


 だから、これはそのお返しなのです。

 丸みを残した頬を淡紅色に染め、少女は笑顔を揺らす。目許に差した影も、その色も、幼いとばかり思っていた少女を、少しだけ大人びて見せた。


「けれど、わたしが与えた以上に、笹は様々な世界を教えてくれていたよ」


 少女の成長に、青年は再び目を細める。

 浮かんだ表情には、溢れんばかりの愛情と、微かな寂しさが滲んでいた。


「ここから動くことの出来ない、わたしとは違って。何処までも飛んでいける君は、わたしに、世界の広さを教えてくれた……」


 右手で彼は少女の手を取る。

 そして、懇願するように己の額へと寄せた。息づく生命のあたたかさに、言葉にならない思いがぐっと込み上げる。


「そのことを、わたしは、何よりも感謝しているのだ」

「若君……」


 主が見せた儚げな雰囲気に、少女の胸が慄く。

 優しげな口許に浮かんだ甘い笑みも、今はただ不安だけを引き起こさせた。


「っ、これからだって、笹が教えて差し上げますわ。夏も、秋も、冬も……次の春も。いつだって、笹が、外の楽しい世界を教えて差し上げます」


 縋りつくように、ここに引き留めるように、笹は青年の動かなくなった左腕に身を寄せた。空恐ろしいほどの静寂が、ふたりを包み込む。

 その静けさに、このまま時が永遠に続くような気さえした。そして、笹はそれを切に望んだ。

 けれど、それが錯覚だということは、もう幼くはない彼女にも分かっていた。


「笹」


 青年の口から、少女の名前が落ちる。

 耳を塞ぐ代わりに、笹はより強く、彼の腕に四肢を絡ませた。だが、その口から言葉が途切れることはなかった。


「君も、早く、行きなさい」


 その言葉の重みに、笹は小さな両肩を震わせた。

 苔色の袖から零れた掌が、ぎゅっと握りしめられる。聞き分けのない子供のように、いいえ、いいえ、と少女は(かぶり)を振った。


「笹は、何処にも参りませぬ」


 下唇を噛み、笹は上目がちに青年を見つめる。

 その瞳には、いじらしい恨みが見え隠れしていた。


「母亡きあと、わたしを育てて下さったのは若君でございます。どうして、そのご恩も返せないまま、置いて行くことなどできましょう」


 唯一の肉親であった母親を亡くし、野山に彷徨うしかなかった彼女を掬い上げてくれたのは、他ならぬ彼だった。

 既に屋敷は寂れ、親しい仲間内もいなかったけれど、穏やかな愛情に包まれた笹は、一度として「淋しい」と思ったことなどなかった。

 それは、彼が与えてくれた世界だ。そして、笹が返したいと願う世界だった。


「笹は、笹だけは傍におります。いつまでも、いつまでも、若君のお傍に……」


 いつでも彼が隣にいて、優しい眼差しを注いでくれた。

 だから、彼女もまた、彼の傍を離れようとは思わなかった。何処までも、共に行きたいと願った。


「だから、どうか、笹も連れていって下さいませ……」


 それが、たとえ死出の旅だとしても。彼と共に行けるのならば、何も怖くはなかった。

 それなのに。


「――それは、出来ない」


 少女の想いとは裏腹に、彼は首を横に振った。


「っ、どうして……」

「そんなこと、絶対に許してなんか、あげないよ」


 穏やかな笑みが、彼女を咎める。その優しさが、このときばかりは残酷に思えた。

 いつだって味方でいてくれた双眸が、初めて彼女を裏切る。胸が、痛んだ。


「……さぁ、時間だ」


 轟々と、地鳴りのような音がふたりを引き裂く。

 春の嵐が、別れのときを告げた。


「……っ、若君……」


 少女は、大粒の涙で頬を濡らした。

 ぽろりぽろりと、悲しみは途絶えることを知らない。だが、その涙を目にしても、もう、彼が優しい言葉をかけてくれることはなかった。

 その沈黙が、全ての答えだとでも言うように。少女に、拒否権はなかった。


「さようなら。若君、……」


 恨めしげな背中が、後ろ髪を引かれながらも遠ざかっていく。

 彼女の苔色が翻り、青年の鼻先を掠めた。春の陽射しに似た匂いが、甘くたゆたう。


「さようなら、笹……」


 去っていく後姿に、心惹かれるように手を伸ばす。

 その視界を、さらさらと名残惜しむような薄紅が染めた。


(……笹、愛しい笹。……君の未来が、どうか、明るくありますよう……に……――)


 軋むような祈りを抱いて、重たい身体がゆっくりと傾いでいく。

 そして、男の意識は永遠に途切れた。



 碁盤上に整えられた都の外れに、その屋敷はあった。

 某とかいう貴族が所有していたその邸宅は、主人が政争に敗れて都を追われると、瞬く間に廃れていった。人気は失せ、屋敷は草木の海に沈み、物寂しげな雰囲気に狐狸さえも寄り付かなかった。

 けれど、ただひとつ、まるで主の帰りを待つように一本の桜だけが毎年、荒れた庭先に色を添えていた。その左半身は数年前の落雷によって腐っていたけれど、それでも桜は咲き続けた。

 だが、今年一番の春の嵐を前に、とうとうその生命は力尽きたらしい。

 地鳴りのような大きな音を響かせて、大木は倒れた。桜の木としてはまだ若く、その寿命は六十年にも満たないと思われた。


 ()の亡骸を、夥しいほどの桜花(さくらばな)(うず)めていく。

 その中で、一際目立つ小さな苔色があった。それは、一羽の幼い鶯の子供だった。


 春の雨に打たれても、強い風に晒されても、鶯はいつまでもその傍を離れようとはしなかった。すっかり色褪せた花びらを啄ばみ、舌足らずな声を上げては苔むした羽を震わせる。そうして、鶯は、いつまでも、いつまでも桜に寄り添うかに思われた。


 けれど、春もやがては終わりを告げる。

 そして、その最期の一片が土に還る頃、鶯の子は哀しげな声を響かせながら飛んで行った。



――ホキョ、ホキョキョキョキョ……。



 鳴き声は尾を引いて、遠い空の彼方へと消えて行く。

 あとにはただ、訪れた初夏の風と、耳鳴りのするような静けさだけが取り残された。


 

※感想で指摘されてから知りましたが、鶯は本来、オスしか鳴かないそうです。が、内容としては気に入ってる作品でもあるため、そのまま掲載させて頂きました。悪しからず。

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