怨念
………ギリギリセーフ…いや、アウトね。
宿の女将さんの身体は派手に切り刻まれていて、既に呪いが走ってきているのがわかる。
それでもまだ息をしていられるのは、単に呪いが身体を強化し始めているからだろう。しかし、それは喜ぶべきことではない。
呪いは傷を治すわけではなく、身体に活力を与えるだけ。現に女将さんの脂汗は止まらず、息も整うことがない。
今は間に合わなかった自分を責める時では無いと必死に自身に言い聞かせて崩れそうになる膝に力を入れる。
「あ…あんた…」
「話をしている暇なんてないわ…今あなたは選択を迫られている」
リルルが懇願するような表情で私を見つめてくるが、私はその視線に応えられない。
「まず前提として言っておくわ。この町の人の中で生きているのはもうあなた達だけよ」
「………やっぱり、そうかい。みんなあいつらに…」
「いえ、それは違うわ」
女将さんが、は?という顔をする。
「確かに『邪悪なもの』は遠因ではあるけれど、直接の原因ではない」
「………まさか、あんた……」
「これも前提として話すわ。といっても知っているでしょう?『邪悪なもの』に攻撃されればその傷口から徐々に奴らの仲間になっていく……ここまで言えばわかるでしょう?」
女将さんが私に掴みかかってくる。しかし失血気味のその身体では力なんて出るはずもなく、結果私に縋り付く形になった。
「………ギンジは」
「ギンジ君が、どうしたのかしら」
「…あんたに!慈悲ってもんは無いのかい!!」
私の態度に全て察したのだろう。先程よりも強い力で私にしがみついてくる。少し痛かったので、その手を振り払った。
「この事態を止められなかった罪悪感ならあるわ。でも、『邪悪なもの』を殺すことにいちいち罪悪を覚えていたら心が持たないわよ」
「…このっ、外ど……」
「それともう一つ言うと、もちろんあなたの身体も既に呪われているわ。これ以上私に攻撃行動を取るのならば私も感染しないようにそれなりの対応をしなければならないわ。わかってくれるわよね?」
「…………悪魔!悪魔!あんたなんか『邪悪なもの』なんかよりもよっぽど質が悪いよ!死んじまえ!あんたなんか今すぐに死んじまえ!」
「それでもいいけど、少しだけ提案を聞いてくれないかしらね?」
「あんたの提案なんてだれが聞くか!この腐れ外道!あんたがこの町に来たせいであいつらもここに来たんだ!」
「……一つ目。このまま貴方の娘と共にこの場で『邪悪なもの』となる道」
女将さんの呪詛が、止まった。
「な……何を…」
「この場合のメリットは簡単。貴方は正気を失うまでずっと娘と一緒にいられる。それにもしも理性のあるものに変われたらそれからもずっと一緒よ…その関係が娘と母になるのかは置いておいて、ね」
「…………………」
女将さんは動かない。考えているのだろうが、実際に血が足りないのだろう。先程は叫んでいたし。
「特にデメリットはないわ。私は貴方がその選択をするならばすぐにこの街を出て行くし、意識の無い『邪悪なもの』が人間を襲うのは感染者を増やすためだから貴方の娘さんも死なない。意識があればなおさら貴方は娘さんを守るでしょうしね」
「第二の選択肢は貴方を今ここで私が殺す道……ま、この場合のメリットは簡単よね。自分を失わずに済む。自身の魂の尊厳を踏みにじられずに済む」
「…デメリットは」
「貴方にはないわ。強いて言うのなら貴方の娘さんに保護者がいなくなることかしらね…まあ貴方が望むのであれば私が大きい町の孤児院なんかに連れていってもいい。そこは安心して頂戴」
女将さんは必死で頭を動かしているように見える。本当に、すごい胆力を持った人だと感心する。
「私としては一つ目がお勧めね。形はどうあれ、貴方と娘さんがずっと一緒にいられるのだから。死に別れるよりはその子のトラウマも少なくて済むだろうし」
「………あんたは馬鹿かい?例えそれがどういう結果になろうと、子供を襲いたい親なんて居るわけがないじゃないかい?」
「………そう、貴方はそれを選ぶのね」
今迄あえて無視を決め込んでいたリルルを見ると、顔を真っ青にして茫然自失といった様子だった。ブツブツと小声であり得ない、あり得ない、と呟いている。
「……貴方の傷口から見て、あと持って五分。余裕を持って、3分にはこの街を出るわ。その後にこの町を証拠隠滅を兼ねて貴方ごと消し飛ばす…いいわね?」
「…待ちな」
「何かしら?」
また呪詛を吐かれるのか。そう思ってドアに向けていた視線を戻すと、必死に残った力を振り絞りながら、女将さんが私に土下座をしていた。
傷口が痛んで背中を曲げられなくても。
もう力が入らずに足を一本しか畳めなくても。
その肩が、私への怒りと屈辱で細かく震えていても。
彼女は母親として、町人を殺して回った私に対して頭を下げていた。
「…リルルを、頼みます…!」
「安心して頂戴。この子が人間である限り、私はこの子を守るわ」
「…最後まで…よくわかんない女だよ…」
「女は謎が多いものなのよ」
そう言って、二人を残して建物を出る。
後は、私の出る幕ではない。
「リルル…こっちへおいで」
自分の、行儀が良くて利口な一人娘を呼び寄せる。
「お母さん…お母さんっ!!」
娘は私にすがりついて泣き叫ぶが、私はそれを宥めることもせずに話し出す。
この子なら、きっと聞いてくれるはずだ。
「いいかい…私はあの女のことをよく知らないからなんとも言えないが、決して旅の途中でお前を放り出したりはしないはずだから。あんたはしっかりあいつの後をついて行くんだよ」
私はこんな職業をしているだけあって、人を見る目には自信がある。でも、これはそんなものに頼る必要もなく、少し冷静さを取り戻せばすぐにわかることだった。
あの女は、顔が白かった。
色白だとかそういう意味じゃなく、完全に血の気が引いて蒼白な顔を私達に晒していた。
あの女の、体が震えていた。
特に笑う膝を止めるためか、膝周辺に自分でつけたのだろう小さな刺し傷がたくさんあった。歯ががちがちと音を鳴らさないように食いしばっていた。
あの女から、吐瀉物の匂いがした。
おそらくここに来るまでに吐いたのだろう。それも何度も。それがわかるほどに女の顔はやつれていた。
女の顔からは、涙が流れていた。
女はここに来るまでに拭ったのだろうが、どす黒い血まみれの顔に二筋だけ綺麗な場所があった。
しかし、女はそれを態度に出さない。あくまで人殺しを平気で行う女として、私の恨むべき対象としてそこにいた。それが、どれだけ辛いことか。
「い…いや…嫌…」
「リルル…頑張んな…」
ぶるぶると震える手を持ち上げ、その頭をゆっくりと撫でる。リルルが大きくなってからはずっとしていなかった事。
私はリルルが落ち着くまでずっとそうしていた。
背中から来る寒気と嫌悪感には目を瞑って。
帰ってくると、リルルが眠りに落ちていた。女将さんも落ち着いているようだ。
「町の真ん中に大きめの時限式爆破方陣を置いて来たわ。こんな物騒なものを送り火にしてごめんなさい」
「全くだよ。生まれ変わったら絶対嬲り殺してやるからね」
「………もうひとつ謝ることがあるわ」
「ふん、私をその手で殺したいんだろう?」
その言葉に思考が停止する。
「な…何故?」
「この街にも大きめの魔物が来た時用に攻撃系の方陣は何枚か置いてあったんだ。でもそれじゃああいつらは死ななかった。つまりそういうことだろ?」
私は、黙ってナイフを構える。
それはつまり、肯定の証。
「一息に頼むよ。痛みも感じないほどに」
「私はよく殺されるけど、頭を突かれれば一瞬よ。だから安心していいわ」
安心できないよ、と女将さんが笑う。
「ああ、最後に一つ言ってもいいかい?」
「……どうぞ」
「死んじまえ」
「………………………ごめんなさい」
本来ならこの回でリルルが怪物になったギンジか女将さんに殺されるはずでした。
でも最後の女将さんとマゼンタの遣り取りがしたかったのでこうなりました。