第84話:『慊焉の胸奥』と『黄昏の睦物語』
危険な任務を行うと承知していても舞人は、1人でご機嫌でした。まだ精神的に幼いのはもちろん、惟花さんと出かけられる事が、何よりも嬉しいのでしょう。
あくまでも舞人たちは一般市民として移動するために、新幹線を利用しました。
新幹線は都合上何十回も乗っているので、さすがに景色には感動しません。
お母さんのような惟花さんと2人で出かけられることが、嬉しいだけです。
惟花さんも同じ心中なのか、途切れなく話しかけていく舞人にも、いつも通り返事をしてくれるだけではなく、子猫でも扱うように髪を撫で続けてくれました。
そしてそんな舞人たちは2時間30分ほどで、異国の地へと足を踏み入れます。
静岡県といえば、教会の中心地である東京都に近いこともあり、枢機卿を排出するほどの派閥が、最大宗派でした。その宗派は、聖音教会と呼ばれています。
聖音教会の司教である、高宮という青年は――、
「僕は人間が大好きなんだよ、舞人くん。天使のような皮を被って、悪魔のように振舞う人間がね。だから僕は、どこまでも人間でいたいって思うんだ」
まるでそよ風に詠うような口振りで、こんなことを語ってくる人物でした。
静岡県の雰囲気としては、やはり音です。聖なる「音」の教会なのですから。
県内全域に優しく響き渡る教会の鐘の音が洗練されているのはもちろん、オルゴールやバイオリンの音色も街中には漂い、高貴と哀愁を感情に刻んできました。
また静岡県の街並みは、基本的に平屋となっています。
場所を制限されずに富士山がみえるようにという、高宮氏による配慮でした。
静岡市の中心にある神殿のような大聖堂もそれに倣っていて、《背はとても低く、横にはとても長い》という、大聖堂ではとても珍しい形を誇っていました。
新幹線で到着をしたのは静岡市ですが、2人が用事があるのは御前崎市です。
観光に来たわけでもありませんから、静岡市内で時間を潰したりしません。
静岡市から御前崎市までは総移動距離で、南南西に64キロでした。
さすがに歩いていけるような距離ではありません。
当然サポートはありました。
中部地方で諜報を担当している女性に、瑞葉くんは連絡を行っていたのです。
お互いが顔を合わせる予定の場所は、静岡駅からも十分に徒歩圏内でした。
しかしこんな時間帯に、舞人のような年頃の少年が出歩いていたらさすがに不自然なので、新幹線の中からずっと舞人は、幼稚園児の外見になっていました。
白き血の効果で惟花さんも大人びていたので、若妻にみえたでしょう。
低身長の「飲食店」や「雑貨屋」や「衣服店」が立ち並んでいる静岡県のメインストリートを、2人は南南西へと1キロメートルほど歩み進めたでしょうか?
甘い食べ物の看板に舞人は興味を示しますが、約束までの時間に余裕がないために、『帰りに買ってあげるから今は我慢ね、舞人くん?』と手を引かれながら。
駅前から1キロメートルという距離を進んでも、発展度は駅前と変わりません。
建物の身長が低いために、多くのエリアが均等に発展している証拠でしょう。
街路樹として起立する満開の桜を見上げる惟花さんは、心の中へと感動の嵐を吹き荒らしていたようなので、舞人の心の中でも桜が開花してしまいました。
各季節の代表的な《桜花や花火や紅葉や降雪》を、惟花さんは好んだのです。
でも現在まで惟花さんは、「雪」というものをみたことがありません。
神の愛が空から降り落ちたせいで、地球は雪を失ってしまいましたから。
静岡駅前の《五番街》にある、赤色の看板のパン屋さんの前が集合場所でした。
時刻も正午をわずかに過ぎていたので、そこで昼食の調達までしてしまいます。
幼児期の姿形の舞人は、惟花さんに叱られないことを知っているからこそ――、
「ねぇねぇ、お母さん?」
『?』
「お母さんはさ――またフレンチトーストを十個食べるの? 十個?」
腰元へと纏わり付きながら、わざと店内のみんなに聞こえるように煽りました。
惟花さんは麗容で冷水な微笑みを浮かべますが、舞人は何も恐くありません。
でも惟花さんは、舞人にからかわれたからと本当に機嫌を悪くしてしまうようなことはなく、舞人が食べるだろう山盛りのパンをトレーへと乗せてくれました。
パンを入れてもらった3つの大きな紙袋を右手に持つ惟花さんと一緒に、舞人は外に出ます。歩いて数歩のところに、尊い立ち姿の桜が見受けられました。
舞人と惟花さんはその桜の木の下で、迎えの到着を待つことにします。
『いまは12時15分だし、そろそろかな? でももう少しだけお昼ご飯は待ってね――舞人くん? 舞人くんはお腹が空くと、すぐにいじけちゃうでしょ?』
『別にいじけないよ。そんなに子供じゃないもん。牛さん惟花じゃないんだし』
『あぁ。舞人くんはお子様だからさ、もうおへそを曲げてるんでしょ?』
『違いますから。意味わかんない。しかもおへそは曲がんないでしょ』
黒革のバックと惟花さんの左手で両手が埋まっていた舞人は、惟花さんの身体の前へと自分の身体を立地させると、彼女のおへそへとおでこを当てていきます。
惟花さんはくすぐったそうにしながらも、何よりも嬉しそうにしてくれました。
あくまでも親子だと考えれば、とても微笑ましいやり取りでしょう。
でもそんな2人の世界にノックをする存在が、間もなく現われてくれました。
セダンタイプの黒い乗用車です。一般的な大衆車でしょう。
運転席から微笑み顔を覗かせてくれた女性のお顔を、2人は知っています。
でも舞人たちは容貌を変更しているので、外見だけでは判断できません。
瑞葉くんから教示されていた通りに、惟花さんが――、
《可憐なお姫様と、可憐な王子様》
という暗号を口許の動きで伝えると、本人たちだと認定してくれました。
まずは乗ってという瞳が向けられたので、2人は後部座席にお邪魔します。
運転手兼舞人たちのサポート役は、二十歳前後のお姉さんでした。
初対面ではありません。
各地方に諜報役で送り込まれている人とは、さすがに面識がありましたから。




