第80話:『熱誠の慈愛』と『慨歎の戦雲』
「……あなた私に怒らないの……?」
顎が外れるほどに呆れるというよりは、罰が悪そうでした。
月葉ちゃんは冬音ちゃんに対し、罪の意識があるのでしょう。
直接的にはでなくても、間接的に下半身の自由を奪ったのは確かですから。
でもあの冬音ちゃんに能天気さと温厚さで、右に出るものはいません。
月葉ちゃんが瞳を伏せる理由が、冬音ちゃんはいまいちわからないのでした。
「どうして怒るんですか、月葉ちゃん。怒る必要がありません。いつも怒ってるのが智夏で、優しいのが私です。顔は似ているけど、間違えちゃったら困ります」
「……あなたは私のせいで、痛い思いをしたのよ……?」
「――あっ。それですか。それならぜんぜん気にしないでくださいよ。別に私は怒ってなんていませんから。月葉ちゃんは何も悪くありません。――だけどそれは瑞葉お兄ちゃんと奈季くんだって一緒です。お父様に意地悪するのは悲しいですけど、瑞葉お兄ちゃんや奈季くんは悪い人じゃないから怒らないんです。優しい人が意地悪をするのは、その人のことが好きだからってお父様は教えてくれましたから――たぶん瑞葉お兄ちゃんや奈季くんも、お父様が大好きなんですよ!」
冬音ちゃんはおちゃらけているのではなく、本心からこう思っていました。
猛牛の勢いの冬音ちゃんには、桜雪ちゃんと月葉ちゃんだって圧倒されます。
「だから月葉ちゃん! わたしも月葉ちゃんのことが大好きです! 月葉ちゃんもお父様の事が大好きだから意地悪してるって、わたしは知ってますから! お父様とお母様を大好きな人は、わたしも大好きなんです! もう理由もわからないぐらいに月葉ちゃんが大好きだから、ムラムラじゃなくて――恋をしてます!」
場の空気を一変させてしまうほどに、冬音ちゃんは発情していました。
上半身だけで這いつくばっても、月葉ちゃんの豊艶な肢体に触れようとします。
月葉ちゃんを警戒する桜雪ちゃんが彼女を抱きとめなければ、誰にも触れさせていない乙女な部分を、冬音ちゃんに一番乗りされていたのかもしれません。
この時ばかりは月葉ちゃんも、彼女に足かせがあってよかったと思いました。
しかし月葉ちゃんは、この場にふざけるために訪れたわけではありません。
今度は瑞葉くんからのお見舞いを届けるのと同時に――桜雪ちゃんでした。
「――ねぇ。どうしてあなたはさ、舞人や惟花と一緒にいるの?」
嫉妬の炎というよりは疑念の炎が、月葉ちゃんの双眸から燃え上がります。
実は桜雪ちゃんも舞人と同じく、自分が大切に紡いできた《記憶の一部》を何かの拍子に手放してしまったらしいとは、漠然とですが気付き始めていました。
舞人と出会った頃の記憶が、なぜか島流しにあっているのです。
だから今回の月葉ちゃんからの問いかけにも、根拠を伴って言い返せません。
しかしどこの馬の骨とも知れぬ少女に、あんな風にいわれて微笑んでいるほど、桜雪ちゃんはお淑やかではないので、表情と言葉に怒りの感情を乗せました。
「どうしてって……貴女は阿呆ですか。――それはわたくしが、お兄様の妹だからですが? 妹が兄や兄の思い人と一緒にいて、何か問題がありますか?」
「うそつき。私はそれがうそだってわかってるから」
「……何がいいたいんですか、貴女は?」
「別に。ただ私はあなたのことが嫌いよって伝えたかっただけ。――まぁでも私は智夏のことも好きじゃないから、あなただけが気にする必要もないけどね」
空間に亀裂を生じさせるような視線の煮えたぎりが、2人の中で再発しました。
視線の狭間にいた冬音ちゃんは、また暗殺ごっこが始まったんだと思います。
まるで本気のような殺意のぶつけ合いに、2人とも役者だなぁと感心しました。
そしてそんな中で――、
「遅れて悪いわね、冬音と桜雪。少し鈴穂たちと話していたらって――あなた誰?」
智夏ちゃんです。
飲み物とお菓子が入った木箱を左手に持つ智夏ちゃんが、戻ってくれました。
智夏ちゃんと月葉ちゃんは、初対面です。
勝手にテリトリーを犯した不審者紛いに対し、眉をひそめました。
「奈季くんの傍にいた人ですよ、智夏ちゃん。うわさの月葉ちゃんです」
桜雪ちゃんによるこの言葉だけで智夏ちゃんは、彼女の正体を理解しました。
惟花さんを一度奪われた苛立ちと、彼女に対する疑念から、敵意を向けます。
「何をしに来たの、あなた? またお母さんにちょっかいを出しに来たわけ?」
「――だったら?」
「なんかむしゃくしゃしてるから、あなたをここで叩いて、全て吐かせるわ」
なぜか智夏ちゃんはいつにも増して、感情に火炎が宿っていました。
鬼でさえ背中をみせて逃げ惑ってしまうような、鋭利な眼光をみせます。
怠惰に満ち溢れる月葉ちゃんも珍しく、好戦的な瞳で受け立ちました。
智夏ちゃんまで暗殺ごっこに混ざっていたんだと、冬音ちゃんは解釈します。
迫真の演技の連続に、思わず冬音ちゃんは、手に汗を握ってしまいました。
桜雪ちゃんも調停者側に回るというより、訝しさが深まるばかりの月葉ちゃんの化けの皮を、智夏ちゃんと力を合わせ、さすがに剥がそうかと考えると―ー、
「ちょっとちょっと! 何をしてるのよ、あなたたち! どうして智夏と月葉が一触即発なムードなのよ! あなたたち2人で喧嘩するのはやめなさいってば!」
あれほど食べてもまだ食べたりなかったのか、調理場に篭りフレンチトーストを作っていた美夢ちゃんが、智夏ちゃんと月葉ちゃんに文字通り割って入ります。
冬音ちゃんの瞳には美夢ちゃんが、戦隊物のヒーローのように映りました。
「お腹がすいた美夢は最強です、桜雪ちゃん。ブルドーザーみたいな強さです」
美夢ちゃんをブルドーザーとは、親子揃って思うことは同じようでした。
しかし冬音ちゃん以外は、まったくもって笑える空気ではありませんでしたが。