第1話:『知らない世界』と『記憶の喪失』
小さな教会の一室だったのかもしれません。部屋の窓際の日に焼けた寝台へと人形座りの青年が背中を預けていました。優しい色合いのまぶたを閉じながら。
もしかしたら青年は悪い夢をみていたのかもしれません。
何千回と心の中で紡がれ続けた悪い夢が“最後の鐘”を待ち望んでいたために。
でもどんな時だって悪夢はいつか終わりがくるからこそ悪夢なのです。
酷く荒い呼吸を落ち着けるように淀んだ部屋の空気を胸一杯に吸い込んだ青年は割れるような痛みの頭痛を押さえながらも、煤けたカレンダーが床に落ちて机の上の生け花は完全に枯れた荒廃的な寝室へと、未だに震えが残る瞳を配ります。
でも青年にとってはここがどこなのかわかりません。
舞人が世界を忘れたように、世界も舞人のことを忘れたようでした。
呆然とする舞人の瞳へと“雪色の刀”が映り込みます。
あれは過去に舞人が自らの左手のように愛していた刀のはずでした。
埃が落ちる絨毯を外套が汚れることさえも厭わずに四肢で這うと、終わりなき永久の砂漠の中で一滴の水にすがるようにしてその白き刀を手に取ろうとします。
でもこれが舞人にとっては終わりの始まりでした。
世界を闇で包もうとする漆黒の軍勢。
刀に触れた瞬間、“世界を闇で包もうとする漆黒の軍勢”が心を染めたのです。
彼らは舞人にとっての畏怖の対象でした。
“そのまま永遠に眠っていなよ舞人。だって君がいる世界はあまりにも舞人にとって悲しすぎるからさ。舞人はみんなに嫌われて1人ぼっちなんだ。もちろん舞人は一番大好きな人にだって嫌われちゃう。舞人はとても悪いうそつきだからね。
もしかしたら自らが何よりも恐れていたのかもしれない未来を舞人は不思議な少年から予言されてしまい、“心の闇”から生まれた影に飲まれかけた中で――、
“もうっ。ダメだよ舞人くん。そうやって私から逃げると抱っこしちゃうよ?”
“少しじゃなくてずっと手を繋いでいてあげる。それなら恐くないもんね?”
“舞人くんは泣いてくれるの? もしも私が隣からいなくなっちゃったらさ?”
舞人にとっては誰よりも愛していたはずの“少女の白い声”が胸に響きました。
「それはそれで悪くなさそうだよ。この世界への未練もやっとなくなりそうでさ」
絨毯に膝付く舞人が白き刀を一閃します。まるで悪夢を祓い去るように。
空中へと美しい弧を描いた白き刀からは桜吹雪が零れ落ちました。
そしてそれが引き金だったように舞人の全身には“何か”が流れ込みます。
暴力的としかいえないような命の波動でした。まるで数千の悪鬼に体内が食い破られているようです。気持ちが悪いというより気味が悪かったかもしれません。
なのに舞人は微笑んでしまいます。
狂気の類を感じさせるような微笑みではなく父性を感じさせる微笑みでしたが。
白き刀を左手に握り込むことによって舞人の記憶の一部も甦ってきました。
この一室にかすかな残り香を感じる大切な妹の名前もそこには存在しています。
桜雪ちゃんでした。
桜と雪というものは2つとも空中を“舞”うものですから。
これが舞人にとっては最後の宣戦布告でした。
世界を支配する負なる者と呼ばれた“何千万にも及んだ漆黒の軍勢”への。




