第164話:『黒夢の飛沫』と『長夜の現実』
もしかしたら瑞葉は愚かな道化だったのかもしれません。嫌な胸騒ぎはあったのはずなのに、風歌ちゃんの気配を感じるからと闇の誘いに乗ってしまったなら。
でも瑞葉の胸にあったのは“風歌ちゃんがそこにいるかもしれない”という事実だけでした。そんな予感だけで瑞葉はこの部屋まで走ってきてしまったのです。
それでも扉の奥には瑞葉の優しさを弄びこの場へと誘ってきた少女だけでした。
風歌ちゃんの姿なんてどこにもありません。
まるで世界中が心優しい瑞葉のことを嘲笑っているかのようでした。
黒髪の少女は先ほどまで紡いでいた言葉をやはり魔法詠唱の1つとして黒き魔法書から闇色の魔法陣を描く中で、瑞葉はいったい何を感じていたのでしょう。
悲しみでしょうか? 無力感でしょうか? 後悔でしょうか?
いいえ。息を切らしたために前屈みになった状態でも瑞葉は笑っていたのです。
だって瑞葉には届いていましたから。
“瑞葉お兄ちゃん?”というずっと探し求め続けていた少女からの呼びかけが。
風歌ちゃんの優しげな声が響いた瞬間に白き魔法書にも本来の力が回帰します。
黒き髪の少女は漆黒の魔法陣から“火薬のような鱗粉を撒き散らしながら、黒炎の翅に引火させることで、大爆発を引き起こす漆黒の蝶の軍勢”を召喚して、黒き鱗粉はすぐに部屋全体にも行き渡ったために大爆発を起こしかけていましたが、その直前に瑞葉が“氷結の薔薇の守護結界”を立体的に展開して攻防を制しました。
「本当に愚かな子ね。あまりにも綺麗過ぎる心はただその身を滅ぼすだけなのに」
それでも不思議な黒髪の少女は風歌ちゃんからの妨害にも動揺せずに、“慈しみの白き薔薇と憎しみの赤き薔薇を共存させたような美しき本来の姿”を現す中で、少女の雰囲気を改めて感じた瑞葉としてはなんだかとても嫌な予感を覚えました。
でも気高く楽しげに笑う彼女は黒き王の派閥とはまた別の存在だったのです。
あえて言えば彼女は黒き夢を紡ぐ者たちでした。
「風歌のことはどうしたの?」
「本当は気付いているんでしょう? とても賢い瑞葉お兄ちゃんなら」
守護結界としての役割を果たして砕け散った氷結の薔薇は“黒炎の蝶の力を吸収した7つの水晶”となって瑞葉の意のままに黒き少女へと流星のように突攻していく中で、黒髪の少女は“相手の攻撃を的確に防御する人工知能が宿った光の羽衣”を纏って粉塵と爆発を防ぎながらも、続けざまに龍の血で紡がれた魔法陣を発動することで“触れたものに死の呪いを与える花吹雪”を咲かしたので、瑞葉は自身が包み込まれる前に右側の壁を爆破してエントランスへと飛翔しました。
「戯れ代わりの冗談にも付き合ってくれないの優しい貴方なのに?」
瑞葉としてもおそらくこの建物内には風歌ちゃんの思念はあっても姿はなく、そして何よりもこの空間は明らかに“少女にとって有利な領域”となっていることを肌で感じていたので、なんとかこの建物から逃げ出せる方法を模索しようとしましたが、すでにこの建物は複雑な多重結界によって閉じられているようです。
瑞葉なら決して結界の解除が出来ないわけでもないでしょうが、自身と同等かそれ以上の強さがある少女を相手にしている現状では、その選択肢も選べません。
「僕は人を悲しめるだけの冗談はあまり好きじゃないからね」
覚悟を決めた瑞葉が少女と向かい合うと、大広間の2階部分の廊下まで歩んで来ていた少女は先ほどの“人工知能の光の法衣”を槍の形へと変化させて――、
「生まれた世界を間違えたのよ。やっぱり貴方のように心が綺麗過ぎる人間はね」
今度は人工知能に“瑞葉を逃がさずに確実に攻撃すること”を命じて、吹き抜けである大広間の1階部分に着地していた瑞葉へと光の槍を投擲してきました。
光速の軌跡を空中に描いた光の槍は一瞬は瑞葉を散華させたかと想いましたが、光の槍によって殺されていたのは瑞葉ではなく、大広間にある階段の支柱の方です。
瑞葉は移し身を行うことでぎりぎりのところで光の槍をやり過ごしたのでした。
そしてこの瞬間に瑞葉は少女の背後を奪って精霊の血濡れに生まれた真紅の太刀から“万物の生命を支配できる衝撃波”を放って反撃していたのですが、黒髪の少女は自身の周囲に展開させた美しき泉から“武具を媒介にした攻撃を完全に無効化してしまう双子の女神”を降臨させることで瑞葉の攻撃を防いできます。
「だって残念ながらこの世界は人々が与え合って優しい気持ちになれる世界ではなくて、人々が奪い合って悲しみ合う世界だもん。そんな世界では優しい人が救われるのも幻想でしょ? 悲しみが正しい世界では優しさも誤りになってしまうから」
それでも今回の瑞葉の魔法陣は2重連鎖であったからこそ、“必ず相手の予想を上回ることができる常勝不敗の魔神の雷撃”が続けざまに少女を追撃しましたが、瑞葉にとっても理解不能な現象が起きることで少女を包んだ雷撃は霧散します。
「それにそんな汚れた世界では息をすればするほど心は穢れてしまうから、誰もこの世界を変えることなんてできずに、ただこの世界に呪われていってしまうの」
これで瑞葉が少女に攻撃を封じられたのも3度目でした。さすがに瑞葉も悟ります。どうやらこの空間は“少女にとっての絶対的な守護領域”であるようだと。だから瑞葉がどんな攻撃を行おうとも黒き魔法陣は連鎖的に反応してくるのです。
「それでも本当に貴方はこの世界でその綺麗な心を捨てないままでいられるの?」
という言葉のあとに黒髪の少女は、さすがに現実を教えられた瑞葉へと――。