第121話:『駘蕩の牧場』と『白妙の氷菓』
出発の前に智夏ちゃんは惟花さんに外出の旨を話すと、もちろん惟花さんは優しい笑顔で了承してくれたので、「でもさお母さん? 今から行くと少し遅くなっちゃうかもしれないけど、必ず連絡だけはするから」という約束をしたあとに、暑さでゾンビのようにうだる人間たちが根城にする大聖堂内を爽やかに退出すると、市内の中心部にある宇都宮駅へと向かい、県北に繋がる列車に乗車しました。
またちょうどこんな時期だからこそ列車内では夏休み中の学生たちが談笑していてある意味では“夏”らしい空間になっていたのですが、何がそんなに楽しいのか冬音ちゃんは左隣に座るロザリアと右隣に座る智夏ちゃんに引っ切り無しに話しかけていて、実はそんな列車の中には2人組みの不審者もいました。
舞人と瑞葉くんです。
2人揃って目も当てられないほどに貧乏だからこそ、いい青年が財布をひっくり返しても朝刊新聞を一部しか購入できずに、『一杯の掛けそばではなく、一部の新聞』で自分たちの顔を守る2人は、《I love milk!》というTシャツを着て、『顔は隠しても性欲は隠さず』という変態の鏡のような事をやってのけていました。
でもなぜに舞人と瑞葉くんが冬音ちゃんご一行を追跡してきてしまったのかというと、お手洗いへと男2人で連れ立ってから舞人の部屋に戻る時に木の扉越しに、「おっぱい」という冬音ちゃんの単語が透過してきたので、何か卑猥なイベントがある事を確信した2人は、狭苦しい廊下の中で有権者に握手する政治家のように手を握り合うと、餓えた虎さえ怖気づくような行動力を発揮したのでした。
しかし現実は非情というか変態たちに下されるべき当然の結末というか、冬音ちゃんたちは温泉街にいくわけではなく、那須の牧場に到着をして大喜びです。
海のような青さをする蒼天。見渡す限りの原っぱ。山地特有の心地よい風の冷たさ。ただその場に立っているだけでも草の香り。もぉという牛のなき声は、のどかな雰囲気にとっては、これ以上ない音楽隊でした。
おっぱいの意味を舞人も瑞葉くんもさすがに察します。
でも2人はおっぱいなら人でも牛さんでも大歓迎なので、いざ喜んで乳絞りをさせてもらおうとすると、呆れの瞳をする智夏ちゃんもこう誘ってはくれました。
「はぁ。せっかくあなた達も来たなら、乳絞りぐらいは手伝っていきなさいよね」
「なになにちなっちゃん。Eカップだから、おっぱいも揉んでEじゃんってこと?」
「うんっ。別にいいわよ、舞人。――もしもこの手で揉めるならね?」
髪を風になびかせながら樹木の下で向かいあうというなんともお洒落な状況で、御目付け役の惟花さんがいない舞人は大自然に本能を解放していました。
舞人の舌は牛乳の味です。牛さんの乳も飲んでいないのに牛乳の味です。
ビチッと音がしました。
激怒した智夏ちゃんの血管が切れてしまった音ではありません。
舞人の右手がくるっと回転したのです。今となっては舌の上に血の味でした。
折檻を行った智夏ちゃんが長寿の大木のように厳かな面持ちをする中で、舞人は愛すべき惟花さんのもとまで届いてしまうような大絶叫をあげていて、全ての現場を見届けた瑞葉くんは顔色を真っ青にしながら智夏ちゃんに敬礼しています。
弱きは見捨て、強きは見逃すとは、小物の鏡でしょう。
もしも瑞葉くんが走れメロスのメロスになったら、内気な妹の結婚式に行くことさえも途中でお手洗いばかり探して間に合わなさそうだなぁと思っていましたが、この小物振りをみる限りは邪智暴虐の王に身分不相応の発言をした挙句、自らが処刑されるとなったら竹馬の友の舞人の事を身代わりに差し出し、可愛い自分は遥か遠くに高飛びをしてしまうという畜生味に溢れる未来さえ想像できました。
木陰の芝生の湿っぽい肌触りを頬に感じながらのたうち回る舞人が瑞葉くんへと恨み辛みをぶつけるも、媚売りしか考えていない瑞葉くんは自分の飲みかけの林檎ジュースを智夏ちゃんへと謙譲していて、当然智夏ちゃんからはその林檎ジュースを遥か遠くへと遠投されてしまう中で、ペンギンシェルファちゃんはどんまいとでもいいたげに舞人の左肩を叩いてくれて、牧場の美人なお姉さんから牛さんの色々を説明をされている冬音ちゃんとロザリアは、いちいち「えぇ!?」とテレビ番組のリポーターのような素晴らしい反応をしていました。
友人に話しかけるような気安さで舞人に鳴き声を届けてくれる牛さんたちの前で、代表をして舞人が事情を説明すると、牛さんのように大きなおっぱいの牧場のお姉さんも快く了承してくれて、いっこうに懲りない舞人が牧場のお姉さんにもEカップネタを使おうとすると、可愛らしく嫉妬した智夏ちゃんから右足を踏まれる中で、ログハウスの建物を往復した牧場のお姉さんは、“いろいろ準備をするからそれまで待っていてね?”と、バニラアイスを差し出してくれました。
開始早々バニラアイスを食べさせてもらえて狂喜乱舞するロザリアと、そんなロザリアに触発されたのかいきなり芝生上で盆踊りをし始めた瑞葉くんの首根っこを掴みながらも、深緑に満ちた頭部を爽やかな夏風に揺らす樹木の下のベンチで、《新雪のように色濃く香りだけでも甘いアイス》を舌の上で転がし、馬鹿5人と1頭が歓喜していると、「お父様と瑞葉お兄ちゃん! お父様と瑞葉お兄ちゃんはいつから付いてきていたんですか! ――忍者ですか、忍者?」と少し考えれば誰でもわかりそうな事を、難しい事は考えない冬音ちゃんに尋ねられていました。
そんな中で牧場の看板犬である雑種ちゃん(雌)が森の中から現われると、舞人たちの来訪に感激するように駆け寄ってくれましたので、この頃から犬さんのことが大好きだった冬音ちゃんが犬さんと一緒に海のように広い芝生上を駆ける姿を温かい瞳で眺める中で、ズボンの右ポケットが震えました。電話の着信です。
木陰では太陽のように目立つ携帯を確認すると、桜雪ちゃんからの電話でした。
なんだか嫌な予感しかなかった舞人は、あっさりと着信を拒否します。
臆病者の鏡でした。
しまいには終わりなく鳴り響く電話を恐れ、電源まで切ってしまう中で――、
「舞人くんと冬音ちゃんと智夏ちゃんとロザリアちゃんとシェルファちゃん! このアイスは風歌たちにも買っていってあげようよ! でも僕と舞人くんはお金がないから智夏ちゃんが出してね? 僕と舞人くんはお土産を運んでいくから!」
と貧乏丸出しの発言をする瑞葉くんは、いつの間にか蚊(美少女)に一目惚れされてしまっていたのですが、なぜか吸血する時に唾液注入を忘れられてしまったために、無駄に上手いセミの鳴き真似をしながら風歌ちゃんにメールを打っていた瑞葉くんの右脚には針を刺した時の痛みがそっくりそのまま響いたので、「いたっ!」と瑞葉くんは酸っぱい梅干でも食べた時のような顔をみせてきました。
左隣に座る舞人がさっきのお返しとばかりにお腹を抱えて爆笑すると、牧場のお姉さんも準備が終わったようなので、舞人たちもいざ牛さんの乳絞りでした。