第106話:『燎原の濛濛』と『外寇の繋縛』
神によって勝利が誓われた瞬間が、ついに訪れたのです。
司教の号令とともに、今まで眠り続けていた窈窕たる虎たちが暴れ狂いました。
奏麗寺院にとっては“終焉”、そして雪花寺院にとっては“原初”の開幕です。
全ての始まりに暗雲の中の夕陽が、誰もが熟知するその尊顔を消失させました。
瞳を黒い絵具で塗り潰されたような暗闇が、市街地を包み込んだのです。
強制的にこの状況に汚染された奏麗寺院の龍人や歌い子たちは、すぐ手の届く範囲にいる味方さえも確認できないような常闇に視力を奪われて、さらには落雷の如き轟音に集中力を乱されてしまう中で、混沌よりも黒き世界だからこそ目立つ《雪色の法衣》に身を包む、彼らの知らない龍人や歌い子が出現しました。
雪花寺院が秘術として隠し続けていた、“神に愛された人々”です。
まず彼らは唯一の理念として、《攻撃は最大の防御》を貫きました。
自らの身を守るという考えを消散させ、徹底的に殺戮だけに特化したのです。
雪花寺院の秘術たちが戦場を縦横無尽に暴れ回り、大吹雪が吹き荒れました。
処女よりも尊き人命が、夢幻のように儚く散っていきます。
しかも雪花寺院の秘術たちは、これだけでは攻勢の手を緩めずに、比較的立ち直りの早かった敵の部隊まで、自軍の勝利のために心無く利用していきました。
奏麗寺院同士での命の取り合いです。奏麗寺院にとっては敵であるとイメージさせた白き衣装を彼らの味方に装飾させ、自宗派同士で相打ちをさせたのです。
さらに雪花寺院は、白き法衣を着衣させた大量の人形を戦場で暴れさせます。
実際の戦闘力はどうあれ、秘術である龍人や歌い子の人数を大きく偽り、奏麗寺院の信徒の戦意を奈落の底に突き落とすだけで、巍然たる効果がありました。
とどめとして雪花寺院は、仇敵である奏麗寺院の中心的な部隊も徹底した諜報活動から把握していたので、遠慮なくそこを握り潰し、《敵兵の25パーセント近く》を数分で壊滅させた時は、すでに勝負の大勢は決まっているようなものでした。
天下分け目の戦いでみせた雪花寺院の戦法は、お互いに兄を支えるために戦術を熟知する桜雪ちゃんや風歌ちゃんも、感嘆をするほどに見事なものでした。
しかしこのような雪花寺院も、天命に逆らうことはできないようです。
奏麗寺院を打ち破った雪花寺院が新たな岐阜県の支配者に名乗り出て、今まで他県で鍛錬を積んでいた秘術たちを中心に軍を再編し、岐阜県内を震撼させる勢いで各地の制圧を進めたのですが、雪花寺院の主軍が他宗教への遠征に出た時でしょうか? 『岐阜県の争いはまだまだ終わらせない』とばかりに、《どれほど結界を連結しても勢いを封印できない、最強の矛の雷撃の嵐》が襲ったのです。
神の鉄槌が雪花寺院に下ったせいで目ぼしき覇権者が再び消え、自分こそが岐阜県の頂点になろうとする宗派たちが争いましたが、三度目の奇跡はありません。
それでも幸いなのは隣接する愛知県が鎹の木を所有者なので心理的余裕があり、岐阜県を侵略対象ではなく、友好対象としてみてくれていたことでしょうか?
愛知県(宿葉寺院)は岐阜県に対し、《自分たちの隷下になる(自治権は岐阜県にある)》という血盟を結ばせてから、鎹の木の恩恵を受け渡すようになったのです。
こうして岐阜県内も安定期を迎えましたが、あくまでも他者の介入で植え付けられた平和だからこそ、岐阜県内では思うことがあり、騒動の火種が再燃します。
愛知県内の宿葉寺院としても今となっては自分の《子供たち》ともいえる存在が争おうと、自らに火の粉が降り注がない限りは静観なので、内戦は激化しました。
それでも宿葉寺院としては、平和から蹴落とされた難民者たちを救済する一方で、岐阜県内での内戦中は《神の愛》の供給ももちろん取りやめ、《自らの傀儡》的な存在を岐阜県の内部に立てるために、秘密裏の神の愛の供給も行いません。
一貫してこのような態度の宿葉寺院の思惑が《どこにあるのか?》という事は誰も俗言できない中で、渦中の岐阜県についに歴史を変える存在が現われます。
英雄の生誕でした。