第105話:『雲表の僭主』と『残花の暁鐘』
当初から群雄割拠に等しき状況だった岐阜県は、それぞれの宗派がそれぞれの思いを抱き、他者を滅したり併合するために、全土で内戦が行われていたのです。
もしもここで隣県の愛知県を支配した宿葉教会のように《英雄的な存在》が現わたなら岐阜県の未来も大きく変わったのでしょうが、現実は非情なのでした。
神に愛された豪傑は召還されずに、情勢はただただ泥沼になったのですから。
されど岐阜県内の各派閥もお互いに引き際が見つからずに、これ以上戦えないところまで疲弊すれば自然と戦も流れ、互いに当たらず触らずの状態になりましたが、数年後に水準以上の神の愛を入手した宗派が、当時の因縁を蒸し返しました。
奏麗寺院は手始めとして、隣接する宗派たちを相手取ります。
勝算があったのは確かですが、楽勝はないと心を戒めていたのも、事実でした。
でも彼らの謙抑さはよい意味で働き、初陣から“快感の快勝”をもたらします。
奏麗寺院はこの戦いで勝利の美酒を飲み干し、かつての自信も取り戻しました。
《時の勢いに任せ、一気に岐阜県を統一する》という我意で一致します。
当時の奏麗寺院が岐阜県内で最大級の神の愛を所有していたのは事実ですし、彼らが上手く先手を取って、宿望に押された勢いのまま岐阜県を荒らせば、他宗教たちは遅れを取るどころか、無血開城にまで追い込まれる宗派まで誕生しました。
されど岐阜県には、《英雄を喰らう魔物》がいるようです。
主観的にも客観的にも、当時の岐阜県では古今無双の強さを発揮していた奏麗寺院が、同県の北東部に位置していた最小規模の雪花寺院へと軍勢を送り、その雪花寺院さえも凄烈なる勢いで支配下に置こうとした時でしょうか?
両者の間には、虎と猫が喧嘩をするような悲劇的なまでの力量差があったはずなのに、最終的に相手を地獄へと叩き落としたのは、猫の雪花寺院なのでした。
有形的な戦力である《兵数》という点から分析してみても、奏麗寺院の龍人が1200人で、歌い子が6000人という、当時の岐阜県の神に愛された人々を半数近く有する一方で、雪花寺院は龍人が100名で、歌い子が500名です。
雪花寺院は奏麗寺院の10分の1の兵数しか、自由が利かなかったのでした。
でも最終的に雪花寺院は、この惨憺たる戦力の壁をぶち壊したのです。
条件は《夜襲》ということにこだわって、さらには徹底した《諜報活動》と、長い間隠蔽されていた《本当の自軍》と、何よりもその《自軍の士気》によって。
結論からいえば、弱小と思われていた雪花寺院は、弱小ではなかったのでした。
彼らは岐阜県の北東部に位置していたからこそ、隣接をする石川県や富山県を巧みに使用することによって、地元ではなく県外の宗教へと、自分たちの手足である人々を《亡命者》として派遣して、彼らの鍛錬を行っていたからです。
でもこれも雪花寺院が《小さな宗教》なりに生き残る、ひとつの方法でしょう。
卑怯でも姑息でも下劣でもありません。立派な戦術でした。
拡散せし信徒たちの総数は、龍人が50人ほどで、歌い子が300名ほどです。
しかしこれでも奏麗寺院には、兵数が拮抗するどころか、足元にも及びません。
なのに歴史上、このような希望なき戦力差を覆す戦いは、幾度も行われました。
今回もそのような先例にならって、《夜襲》が全てのキーポイントになります。
でも雪花寺院の場合は、自然の夜ではなく人工の夜でした。
なんといっても今の日本は、魔法の世界なのですから。
《反撃の鐘》が鳴ったのは、奏麗寺院が雪花寺院の支配へと乗り出した時でした。
迎え撃つ側の雪花寺院は全ての始まりとして、奏麗寺院から一時的に派兵されてきた400人の龍人と1500名の歌い子へと、抵抗の狼煙を上げていきます。
司教が座する大寺院が陥落させられたら、岐阜内のどの寺院よりも長く温めた計画も崩壊するので、彼らは市内の中心部にある大寺院への接近だけは阻みました。
でも雪花寺院の司教としてはまだ現段階では、全力での激突を命じていません。
不自然でない程度の敗走をするようにと、あくまでも彼は命じていたのです。
奏麗寺院の部隊を大寺院の周りへと誘致することも、作戦の1つでしたから。
攻め入る奏麗寺院にとっては、《力の過信》こそが、天寿の尽きだったのです。
なぜなら大寺院の一帯には篭城戦のための魔法陣が、保存されていましたから。
やられたと思った時にはすでに彼らは、《鼠取りにかかった、無力の鼠》です。
雪花寺院側は激甚たる魔法の嵐で、奏麗寺院の部隊を慈悲なく殺戮しました。
敗走なんて允許せずに、1人も残らずに殲滅してしまいます。
でもこれは客観的にみれば後先なんて考えていない、短絡的な行動でしょう。
雪花寺院が滅したのは、あくまでも奏麗寺院にとっては下級戦力でしかないのに、このような過ぎたまねをすれば、奏麗寺院の本隊による報復を招きますから。
でも雪花寺院にとっては、その展開さえも予定調和なのでした。
自分たちこそが岐阜県の支配者だと勢い付く奏麗寺院は、稀世の無礼に黙っているはずがなく、可能な限りの教徒たちを雪花寺院へと進軍させてきます。
龍人が800名で、歌い子が4000名でした。
これで雪花寺院にとっては――、
《無血開城をされるか》、《全滅をさせられるか》、の二択になったも同然でしょう。
また最初期に雪花寺院へと送り込まれてきた部隊だって無駄死にを晒したわけではなく、こうしてあとから報復してくれるだろう仲間たちへと《魔法陣の対処法》を残していたようなので、二匹目のどじょうは捕まえるようなことはできません。
隙なき対処を施されて、頼みの綱の魔法陣まで消し炭とされてしまいました。
こうなると雪花寺院は、最後の手段を取るしかありません。
自らの龍人や歌い子を差し向けて、玉砕戦をさせたのです。
ここでは今までのように敗走をしたり、魔法陣に助けてもらうこともできないので、負傷者や死者が数多く出てしまうのは、戦場に出る誰もが覚悟していました。
でもこの現実に誰よりも心が割れていたのは、雪花寺院の司教でしょう。
自らの目の届く範囲で、憎むべき侵略者に信徒たちが殺されるのですから。
彼女は何度も何度も、《奥の手》を使ってしまいたいと考えたはずです。
でも腹心の少女からは、「まだ時は満ちていません」という旨で諭されます。
今回の作戦を確実に成功させるには、《敵軍の疲弊》が最低条件だからです。
そして最終的には、傍で支え続けてくれた龍人や歌い子の8割が撃破され、奏麗寺院の本隊が雪花寺院の大寺院まで、残り数百メートルに迫った時でしょうか?
神によって勝利が誓われた瞬間が、ついに訪れたのです。