第99話:『桎梏の鋒鋩』と『衷心の欣快』
悪気などはないのでしょうが、顎を撃墜せんとする拳が、舞人に届いてきます。
ぎりぎりまで頭部を後退させることによって、舞人は紙一重でかわせました。
とはいえ当の少年は、そんな舞人の努力を知る術もなく、自分の真正面に映る新幹線の座席を3秒間ほど凝視して、「?」になってから、小さな首を左右に向けてより「?」を強めてしまいました。寝起きで霞む視界を紺色のコートの袖で拭ってから、再度周囲の状況を確認しても、少年の視界には新幹線内の光景です。
少年の眠気は微粒子ほども残らずに、宇宙の彼方へと飛び立ったでしょう。
もっとも身近にいる舞人と惟花さんに助けを求めるのは、当然の反応でした。
生まれたての天使のような、一滴の穢れさえもない瞳で――、
《お兄ちゃんとお姉ちゃんは誰なの?》
という想いを奏楽してくれたのです。
でもこれは塵1つの突っ込みどころがないほどに、正論でしょう。
間近には初見の怪しい2人組がいて、まったく覚えのない新幹線内ですから。
舞人は近くの席の人たちに声が聞こえてしまわないように配慮してあげながらも、惟花さんから促されていた通りの事を、少年の耳元にささやいてあげます。
「急に驚かせちゃってごめんね、奏大くん? ぼくたちは奏大くんのお父さんたちのお友達だよ。――実は奏大くんのお父さんたちがさ、ほんの少しだけ急な用事が出来ちゃったから、その間奏大くんをお願いできるかなって、頼まれたんだ」
これが今の舞人たちの精一杯だとはいえ、随分と《穴》がある説明でした。
でも奏大くんは疑問を吹鳴したりせずに、うんと純粋に頷いてくれます。
勢いに任せて舞人が、自分と惟花さんの自己紹介までしてしまうと――、
『舞人お兄ちゃんと、惟花お姉ちゃん?』
奏大くんはこう復唱してくれて、舞人と惟花さんの方を振り帰ったまま、自分の名前まで教えてくれます。瑞葉くんから伺っていた通りに、露橋奏大くんでした。
何はともあれ奏大くんは、舞人と惟花さんを胡散臭くは思っていないようです。
もしも何か不信感があるなら、すでに多少なりとも警戒するはずですから。
勝手に領域へと侵入してきている明らかな“闖入者”である舞人たちにも、こうも信頼を寄せてくれている理由は不明ですが、第一印象が好感触なのは僥倖です。
でもそんな奏大くんも間もなくすると、瞳に澄んだ雫を浮かべながら――、
「……でもさ、舞人お兄ちゃんと惟花お姉ちゃん?」
「『?』」
「……ぼくのお父さんたちは、どこにいっちゃったの?」
舞人と惟花さんの心は、死罪の判決でも受けたように、震えてしまいました。
もともと準備は出来ていた質問ですし、その時に返すべき言葉だって舞人は惟花さんと考えていたのに、いざ本番になると、声が喉元で氷結してしまいます。
あまりにも奏大くんの瞳が純粋すぎて、舞人には有毒だったのかもしれません。
3人の間に蕩けていた時が、ぴたりっと止まってしまいます。
時が色彩を失ってしまったようにして。
それでも新幹線の窓に描かれる光景だけは、幻のように変わり続け――、
舞人の身体の心音は、豪雨が身体を打ちつける時よりも大きくなる中で――、
「じゃあさっきのは、夢じゃなかったのかもしれない」
胸の中に通せん坊していた思いを、奏大くんが越境させてきてくれました。
「……お父さんやお兄ちゃんやお姉ちゃんや――お母さんまで一緒にね、僕にごめんねって謝ってくれたの……。……『少しだけお出かけをしないといけない所が出来ちゃったから、今は僕の傍にいれないよ』って。……でもまた絶対に会えるから、今は舞人お兄ちゃんと惟花お姉ちゃんと一緒に居てっていってた……」
ぎゅっと舞人のカーディガンを掴んでくる奏大くんは、健気に涙は流しません。
お父さんたちを心配させないためなのか、舞人たちを心配させないためなのか、はたまたその両方かは不明ですが、彼が涙を堪えているのだけは確かでしょう。
舞人は思いました。
奏大くんはとても心が強くて、とても心が優しいのかもしれないと。
こんな時でも自分のことよりも、ほかの誰かのことを考えられるのですから。
舞人の胸中で、奏大くんの父親たちを守りきれなかった罪悪感が、再燃します。
でも今はまだ真実を話すには早いので、そのことで謝罪することはできません。
ただ奏大くんのことを抱き締めて、黒髪を撫でてあげるだけでした。
そしてそんな中で膝の上に座る奏大くんが、舞人に感謝をしてくれます。
お父さんたちやぼくのことを守ってくれてありがとう、舞人お兄ちゃんと。
奏大くんが父親たちからどのようなことを聞いたのかは不明ですが、舞人としては『最悪の中で最低の結果』を残せただけなので、誇らしさなんて覚えません。
でも自分の目の前にいる少年が、感謝をしてくれているのは事実でしょう。
舞人は夢を壊さないように、どういたしましてと返してあげながらも――、
「……でもごめん。お父さんたちと分かれさせちゃってさ。たぶんそれにはぼくにも原因があるよ。……だからこれからは、遠慮なくぼくのことを頼ってくれ。奏大くんのお父さんたちとばくは、奏大くんを守るって約束をしているからさ」
と誓約して上げると、奏大くんは微笑みながら感謝の言葉を伝えてくれました。
舞人の《白き血の湖水》の中に、一滴の雫が落ちます。
この不可思議な反応は、舞人が好意的に感じた人への、一種の反射反応でした。
舞人本人でさえもその理由は、霧の中ですが――、
その反応が起こった人が、より自分を慕ってくれるのは、確かだったでしょう。
でもそんな中で奏大くんが、舞人たちにとっては通路を挟んで右向かいに座る青きローブの教会に属する青年のサンドイッチに羨望の眼差しを向けたので、舞人は誰も座っていない窓際の席に座する荷物を、左手で取ってあげました。
奏大くんはパンが好きらしいことを、瑞葉くんは調べてくれていたので、あらかじめ舞人たちは例のパン屋で、食べきれぬほどのパンを購入しておいたのです。
パンの山には奏大くんも感動してくれるので、舞人も嬉しくなりました。
そして奏大くんは、五感と声帯を失う惟花さんのことも、恐れずに――、
「たぶん惟花お姉ちゃんは恥ずかしがり屋さんなんだよ。だからみんな隠れちゃったの。――でも舞人お兄ちゃんの事は大好きだから、みんな隠れないんだよね?」
と驚きの超解釈をして、初対面では薄気味悪そうにする人がいる中でも、優駿な適応力をみせました。優しさと聡明さが融合した結果でしょうか?
また奏大くんは司教の息子だといっても、他の宗教の跡継ぎたちのようにどこか歪なわけではなく、真っ直ぐ育っていたので――趣味嗜好は年相応です。
ゲームや玩具遊びが趣味で、戦隊物のテレビ番組が大好きなようですから。
舞人や惟花さんも奏大くんとは、すぐに意気投合できました。
奏大くんは舞人が白き血の力で、《変装》していることを知ると――、
「! すげぇ。舞人お兄ちゃん。変身できるの、変身!?」
と撒き餌が撒かれたお魚さんのように、食いついてくれたわけです。
この頃から奏大くんは舞人の事を、ヒーローとして慕ってくれていたのでした。