第95話:『途轍の闕漏』と『舟艇の帆影』
全てが消えたクレーターで1人虚空に佇む“悪魔”は、何かを言葉にします。
骨髄の奥底まで染み渡ってくるような、奇奇怪怪な言語でした。
どこかでぼんやりと聞いたことはありますが、意味までは聞き取れません。
先に動いたのは、悪魔司教でした。
瞬間移動したような素早さで舞人の眼前を塞ぐと、真紅の刀を争乱させます。
眩暈を覚えるようなスピードで殴りかかってきた真紅の刀を、舞人は左の5本の指に納める白き刀に紙一重で受け止めてもらうと、甲高い音を鳴り響かせます。
刃と刃が殺し合いました。
でもその瞬間に舞人の身体は轟々しく渦状に回転し、眼下に叩き落とされます。
舞人は無抵抗のまま、建物へと背中を打ち当てしまい、痛撃を与えられます。
一棟の倉庫がみるも無残に倒壊しました。これが衝撃の威力を物語るでしょう。
どうやらあの刀には――、
《触れたものを螺旋回転させ、猛牛に撥ねられたように吹き飛ばす》
という力が秘められているようでした。
呼吸さえも忘れてしまうような痛みです。
でもすでに舞人は、痛みを感じることさえありません。
白き血が死んでしまったからではなく、生き返ったからです。
業火が廻るかのように、体中が熱したかと思うと――、
惟花さんを守るという使命以外は、全て《体内の鬼》が食い殺したのでした。
二度目の攻撃が来る寸前に、舞人の感情は限界突破します。
感情を失った悪魔同士の戦いは、新たに化け物の産声を上げた舞人が圧倒をしましたが、感情だけで動いていたからこそ、一瞬の隙を悪魔司教に突かれます。
舞人の上半身が、螺旋状に引きちぎられてしまいました。
右腕に抱く惟花さんを守った時に攻撃を受けた左肺が、基点となってしまって。
大量出血です。白き血を全ての燃料にしているからこそ、これは致命傷でした。
舞人の意識が朦朧すれば、体内を巣食う鬼の気配だって、例外ではありません。
しかしこれでやっと惟花さんからの言葉も、舞人の耳へと届いてくれます。
惟花さんからの心配と愛情に対し、「大丈夫だよ」と舞人が微笑むと――、
惟花さんも一応は安心してくれて、勝利への一筋の光りまで授けてくれました。
舞人は惟花さんの助言のままに、続けて放たれた悪魔の一太刀に粉砕されます。
肉片どころか一滴の血飛沫さえも黒刀の餌食にされ、螺旋状に飛び散りました。
惟花さんと白い刀だけを残して、舞人は存在を失ってしまいます。
勝ち誇った悪魔が、瓦礫に伏せる惟花さんへと、悠々と歩み始めた瞬間に――、
「!」
油断しか溢れていなかった悪魔司教の心臓を、背後から白刀が突き刺しました。
幻覚のような素早さで身体を再構築した舞人の左腕が、起因となって。
あえて舞人は紅刀の螺旋攻撃に殺され、白き刀の中に《魂》を隠したのです。
灯台下暗しは世の常識ですし、もともと舞人の残力自体もわずかでしたから。
惟花さんの作戦は勝ち星を恵んで、悪魔司教の息の根もついに止まります。
強引に彼の手によって赤黒き心臓内に埋められて、悪魔司教の胸の中で苦しそうに叫び続けていた赤き宝石も、安慰したように微笑んでくれました。
魂を失う存在が、みな自分に何か希望を見い出して消え去ることに、理由もわからずに舞人が胸に鋭痛を覚える中で、胸に刀が巣食う司教の雰囲気が変わります。
あえてたとえるなら、死者が生者に変わったような空気の変貌ぶりでした。
舞人は馬乗り状態をやめて、惟花さんを伴ったまま、彼の傍に膝付きます。
誰かに操られていたというよりは、乗っ取られていたのかもしれません。
時おり悪魔司教が精神的に苦しげにした理由も、それなら納得できますし。
でも司教の身体に2つの魂が宿っていようと、生命は1つだけなのです。
悪魔が死せば、本来の主である七翼教会の司教の生命にも、それは影響します。
鬼の心を持つはずの舞人が、確かに人間的な感情から胸を痛める中で――、
「……ありがとう、2人とも。君たちのおかげで、やっと僕たちは救われた……」
呼吸するということさえも苦しいのか、口許から鮮血を逆流させながら、穴が空いた心臓部からは赤黒い血を溢れさせる中年司教が、お礼をいってくれました。
恨みや辛みなんてない、2人への思いやりだけが篭った笑顔のまま。
とても残念なことに舞人の治癒魔法は、白き血を流す存在にしかききませんし、だからといって白き血の輸血だって現実的ではありません。白き血の残量がどうこうというよりも、白き血は《選ばれた者》しか受け付けることがないからです。
結末に気付いた舞人と惟花さんの顔色が、悲しみに染まってしまう中で――、
「……君たちの名前は……?」
2人を励ますように自分の苦しさを隠す彼が、柔らかく微笑んでくれました。
「……こっちが惟花で、ぼくは舞人だよ。星宮舞人だ……」
「……舞人と惟花か。いい名前だね。それに星宮って苗字はどこかで――」
心臓を失ったなら、たった一語話すだけでも、五蘊が震える苦しさでしょう。
舞人は自分の左手によって、彼の冷えた左手を力強く握り締めながら――、
「――何が起こっていたんだ、あなたたちに?」
おそらく彼にとって最善だろう最後の問いかけを、耳元に囁いてあげました。
七翼教会が、《何らか》の存在に乗っ取られていたのは、間違いないのです。
そして七翼教会の中心者たちは、隠蔽され続けた事実の伝聞を望んでいました。
舞人が顔を近づけると、司教は苦しげにしながらも、唇を震わせてくれます。
最後の抵抗としてか、悪魔が釘打ちしてくる生々しき痛みを、乗り越えながら。
「……僕たちだけじゃない……。……人類全体に危機が迫っているんだ……。……でも君たちは、そんな僕たちの最後の希望なのかもしれない。……その可能性は十分に見させてもらった。……もしかしたら君は人間じゃないのかい……?」
「……ぼくもよくわからない。でも白い血が流れていることだけは確かだ……」
「……そうか。でもそんな悲しい瞳をする必要はないよ。君はもしも人間じゃなくても、心は優しい。瞳でわかる。だから何も恥じ入ることなんてない。胸を張って生きなさい。誰かのために生きれる人は、それだけで誰よりも美しいから……」
司教はすでに力なんてない左手で、舞人の冷えた左手を握り返してくれました。
本当は苦痛に歪めたいだろう容貌を、思いやりの色で染めてくれながら。
黒き髪で顔を覆っている舞人の横顔が、暗く儚い色に染まってしまいます。
決して人前ではみせることのない、今にも泣き出しそうな表情になったのです。
「……もうあんたは、全てを終わりにしたいか……?」
「……どうだろう。まだ僕にだってこの世界に未練はある。恥ずかしいけどね」
「……何も恥ずかしくはないだろ。最後の一瞬まで優しい顔でそういえるなんて、ぼくはあんたが羨ましいよ。……だからそんなあんたの大切なものは、ぼくが一端だけ預かっておく。今は何も心配したりせずに、少しだけ休んでおけよ……」
初対面にも等しい相手に、こんなにも舞人が素直にもなるのは希少でしょう。
本当はとても臆病な舞人が、自分をさらけ出す相手は、決まっていましたから。
舞人はこの司教のことを、なぜか他人事に思えなかったのかもしれません。
情が移ってしまったのでしょうか?
所詮自分なんて《神》に裁かれるべき、どうしようもない悪人だというのに。
舞人が自分に対して吐き気を覚える中でも、司教は最後まで微笑んでくれます。
惟花さんの微笑みとはまた違った温かみを、彼の微笑みからは感じ取れました。
舞人は黙したまま、彼の手を握り続けます。今の自分に出来る精一杯として。
彼の手が冷たくなっても、汲汲したように力を弱めません。
舞人は母性を求める一方で、同じく父性を求めていたのでしょう。
理性ではそれを否定しますが、本能は何よりも忠実でした。
惟花さんは舞人が自ら動こうとするまで、ずっと傍にい続けてくれます。
言葉なんて紡がずに、ただ右手を握ってくれながら。舞人の心を温めるように。