第93話:『漸次の照破』と『緋桃の耿耿』
七翼教会の司教は、さすがに地下が崩壊している影響を受けているかのように左右に揺れるシャンデリアの下でも、古びた木製の椅子に優雅に腰掛けながら、突然の訪問者である舞人のことも驚きなく受け入れ、悠然とした態度を貫いてきます。
手の中で踊らされているなぁと、舞人は思いました。
司教の前には彼を守護するように、青年と少女もいます。
でも舞人が2人の詳細を調べる前に、鼓膜へと嫌な音が触ってきました。
廃墟を連想させるような薄暗い蝋燭の炎に照らされる部屋の片隅では、血肉が刻まれた床へと、死ぬ間際の人間が投げ捨てられていて――一体の食人鬼です。
視界が赤くなり、砕け散るほどに奥歯を噛んだ舞人は、瞬間移動をしました。
死にかけの人々の怨嗟に包まれながら、醜い背中を舞人には向け、脳味噌が半分ほど滲み出た幼い少女を貪っていた4足歩行の化け物に、白き鉄槌が下ります。
左腕が不自由だった舞人は、流星の如き回し蹴りを叩き込みました。
しかし化け物は岩山の如き皮膚の硬さをしていたために、首は弾き飛びません。
にやりとして、大口を開きながら背後を振り向くと――、
軸足だった舞人の右足へと、毒々しく濁った牙を立てようとしてきました。
舞人は左足だけをバネにして、飛竜の如く後方へと飛び下がります。
攻撃が空振りした化け物は、食べかけの幼女の頭部を、全て噛み砕くと――、
赤黒く滲んだ口許を拭うことさえなく、這い迫ってきました。
狂った虎の如き俊敏さで地を滑る奇人の攻撃を、舞人は上に跳んでかわします。
でもこのジャンプの直後から舞人の頼りの左足に、異変が生じ始めました。
化け物の首に触れた左足首が、焼け付くような腫れと痛みを持ち始めたのです。
骨の変わりに溶岩を流し込まれてしまったような、耐え難ぎ痛みでした。
左足に《特殊なウイルス》を仕込まれたらしい、とはわかりましたが――、
舞人がそう感じた時にはすでに惟花さんが、有効な手を打ってくれていました。
右手に握る魔法書から治癒系を選び、唱えてくれたのです。
惟花さんの通常時の《神の歌声》とともに、癒しの歌声まで耳朶に触れました。
左足が回復すると同時に、化け物の牙が迫ったので、間一髪でかわします。
ダッフルコートの裾の部分が避けたので、腹を食いちぎられるところでした。
しかし一転して攻勢には出られません。
神の加護が付加された、白き刀の《天姫》を操れるならまだしも――、
体の攻撃で化け物と相対していては、先ほどの二の舞になるだけだからです。
4足歩行のくせに化け物は、脳神経がいかれているとしか思えないスピードで這い回るだけではなく、4足歩行という特性から、予想外の動きまでしてきました。虎や馬と違い、直線的に動くだけではなく、突発的に斜めに動いたりしたのです。
さすがの舞人たちも、化け物の災厄の前では、息継ぎさえ自由にできません。
惟花さんが攻撃魔法をひしめかせ、時間稼ぎをしてくれていなければ――、
今ごろは舞人たちも、化け物の胃袋の中で、消化されていたことでしょう。
狂気しか感じさせない化け物の連撃には、舞人も劣勢に沈み始める中で――、
「……!」
石化でもしたように沈黙していた左腕に、ついに感覚が戻ってくれました。
白き刀ならウイルスにも穢されずに攻撃できるので、一転して攻勢に出れます。
白き発光をけたたましく振るう舞人も、目も当てられないほどには阿呆ではないので、先ほどまでの戦いで、化け物の攻撃パターンぐらいは見定めていました。
途切れなく攻撃する側が、正反対になったのです。
虚空に白き刀を乱舞させながらも、化け物の様子を全て見抜いていた舞人は、ここぞで猛攻を仕掛け、《悪夢》の対象だった化け物の首も刎ね飛ばしました。
しかしここで舞人は、手を休めません。
刀を振るった勢いを利用したまま、南東部へと身体の正面を向けたのです。
今まで無視せざるおえなかった七翼教会の関係者たちが、視野に入りました。
言葉さえもなく舞人が感情のまま、彼らにも制裁を加えようとすると――、
「「……!」」
白き心臓が、霹靂にでも怯えたように、大きく高鳴ってしまいます。
赤き宝石でした。
崩壊寸前だったというよりも、すでに崩壊しただろう歴史の間の中でも、ずっとそこに浮いていたはずの赤き宝石が、七翼教会の司教の手に渡っていたのです。
人間にとっては胸の鼓動が速まるようにして赤き光りの明滅を強め、苦しげに喘いでいる“彼”は羞恥なき強引さで、神秘なる力を引き出されていました。
赤き宝石から何千の人間の怨嗟が零れ落ち、空気が恐慌して震え始めます。
《白き血》が死んでしまいました。
比喩でもなく虚偽でもなく、舞人の《白き血》が死んでしまったのです。
予想外の事態になすすべのなかった舞人は、その場へと膝付くしかありません。
時が凍ってしまったかのように、蝋燭の炎やシャンデリアが絵画のように静止する中で、部屋の中に舞っている“真紅の粉雪”は、四肢のいずれかを食いちぎられて、苦しみ悶えている瀕死者のもとへと、満遍なく降り注いでいきました。
地獄の象徴の“赤き吹雪”に体を染められた人々は、骨の髄まで染みてくるような呻き声をあげなげら、四足歩行の化け物へと退化していってしまいます。
いったいぜんたい何が起きているというのでしょう。
唐突が唐突を呼び、さらなる唐突を呼び起こしていました。
でも白き血が死んでしまった舞人には、何も届きません。
死人のような空ろな瞳が、ただそこにあるです。
でもこのような場合でも舞人は惟花さんの歌声さえあれば、白き血の再生を促すことも出来たはずですが、今は惟花さんも何かに怯えるように震えるだけでした。
絶体絶命です。
救世の女神を失った少年へと”最後の一瞬”が、刻一刻と迫ってきていました。