第91話:『悠揚の抱懐』と『傀儡の熾火』
洞窟内に入ったような寒さと湿気があって、どこからか木の香りが漂い、音が忘却されている七翼教会の大聖堂の1階部分には、彼らが信仰している神様を祭祀するための純白の祭壇が最奥にあって、その前には説教台があり、建物を支えている柱や信徒たちのための長椅子などが、建物の中心部に密集していました。
また純白の祭壇近くには、歌い子が《賛美歌》を歌うための武具が飾られているところや、《懺悔室》に繋がっているんだろう、木の扉なども発見できます。
入り口と一体化をして扉を通り抜けた舞人が、大聖堂内の寂寞な空気とも溶け込んで姿を掻き消す中で、聖堂内の壁沿いを薄暗い5つの炎が、漂っていました。
手にランタンを持った信徒が、内部の見回りをしているのかもしれません。
いくら姿と気配を隠していても、あまりにも近づかれすぎれば、ボロは出ます。
入り口の扉へと背を付けている舞人たちにとっては、斜め45度ほど右前から1人の《巡回者》が迫り来るので、舞人と惟花さんは音もなく前進を行いました。
どさくさ紛れに目の前の神に祈りながら、長椅子の列を3つほど抜けると、自分の心音と巡回者の足音が大きくなるのを感じながら、息を潜めて石化します。
3秒間でした。3秒間ほど呼吸はもちろん、心臓の動きさえも止めてしまいたくなる、時が流れます。でも特に異変は起こらずに、今まで通り炎は流れました。
どうやら七翼教会の神様は、舞人たちに微笑んでくれたようです。
『……何あれ、惟花。どうしてあの人たちはさ、メリーゴーランドみたいに壁の近くを歩いているの? 前の人との距離が、詰まったり離れたりしてないよね?』
『……そうだねぇ。あんなに規則的ってなると、少し人間さんっぽくないかな?』
何らかの儀式でもするように、炎の動きは一定でした。
しかしここまで来て引き返したらただの腑抜けなので、舞人も踵は返しません。
地下に繋がる扉です。
地下に繋がる扉が、炎が廻る大聖堂内の北西部と北東部に、あるようでした。
長椅子の間に舞人と惟花さんは並びながら、幻石のステンドグラスから漏れている月明かりを使い、教会の鐘のように舞人たちの事情にはお構いなく鳴り響く足音を耳に入れて、瑞葉くんからもらった地図と実際の大聖堂内を見比べると、どうやらかまくらのように石が積み重なっているところに、その扉はあるようでした。
風がステンドグラスを殴りつけ、巡回者の炎が目の前を横切る中で、その地下扉の方へと目を向けると、それぞれの扉で2人の守護者が舞人の瞳を侵犯しました。
しかし彼らは一定周期で内部を見回る巡回者とは違って、完全に漬物石です。
『困ったねぇ惟花。地下に入る扉の入り口の前には――石像さんが2人もいるよ』
『……う~ん。どうしようね? 変に舞人くんの力を使って、あそこをどいてもらっても、あの子たちの仲間の人には気付かれちゃうかもしれないし――』
瑞葉くんが渡してくれた魔法書には、基本的な魔法陣は全て記されていました。
それをどう使うかが、舞人と惟花さん次第なのです。
舞人の右手を優しく温めてくれている惟花さんは、視界内に入っている周囲の状況を改めて捉え直してから、わずかに黙考をして、こう結論付けてくれました。
「「……」」
巡回者たちは神へと“供物”を捧げるように周り続け、扉の守護者たちは神に忠誠を誓うように瞬き1つせずに職務を全うする中で、北東部の地下の入り口をみつめ続ける舞人の左斜め前の巡回者の角灯の光が、突如として消え去りました。
神の息吹に吹かれたように、ランタン内の蝋燭の炎が燃え尽きたのです。
でもこれはもともと寿命が近かった蝋燭を、誤差の範囲で早く殺しただけです。
しかし今は、瞬き1つのこの《誤差の範囲》が、何よりも大切なのでした。
音が止まったのです。
1人の巡回者の歩行の停止が、ほかの4人の巡回者たちにも波紋をして。
今までは渦のように回っていた橙色の炎が、一定の場所で静止しました。
扉の守護者たちも、蝋燭の命を散らしたランタンの主へと、視線をぶつけます。
光りを失った青年は、ローブのフードで覆われた顔を申し訳なさそうに下げながら、一度歩行通路の内側へと入って、ほかの巡回者の周回の邪魔立てを防ぐと、ローブのポケットへと入れておいた予備の蝋燭を手にし、新たな生命を与えます。
でも今の舞人と惟花さんにとっては、そんな情報はすでに価値がありません。
2人はすでに長椅子の間から離れて、目的の扉の中へと入っていたのですから。
地下扉の守護者たちが、例の角灯の主を視線で撫でた―――その瞬間です。
瑞葉くんの魔法によって、弾丸サイズに身体を縮小化させた舞人たちが、自然と彼らの間に出来た“虚なる時”を縫って、氷のように冷たい石床の上を滑るように瞬間移動して、扉の守護者たちの足元も、軽々と通り過ぎてしまったのは。
地下へと繋がる扉の中に潜入したというのに、むっというカビ臭さもなく、むしろ綺麗な空気があって、空気の温度としても1階部分の礼拝堂内よりも暖かく感じる中で、さすがに舞人と惟花さんは安堵の吐息を1つだけ漏らしてしまいました。
そして2人はすぐ後ろにある扉に背中をつけたまま、お互いに微笑み合うと、敵の心臓部へと繋がる階段を、姿と気配を透明化させたまま下っていきました。
蝋燭はところどころ置かれていますが、それは飾りにも等しいので、舞人の夜目がなければ階段を踏み外してしまうほど薄暗い階段でした。七翼教会の人は蝋燭を持ち歩いているのでしょうか? それとも彼らが歩くと、自動で蝋燭の灯りが強まる仕組みなんでしょうか? 詳しいことはわかりません。でも舞人はただ惟花さんの左手だけは強く握りながら、自分が先頭になって進んでいきました。
いくら毒気がないといっても、正直にいってそこまで体内に取り込みたくないと思ってしまう空気に包まれている地下領域は、全てで3階もあるようでした。
階段を下り終えても相変わらず蝋燭が弱々しく、鼠と遭遇しても納得をできる薄暗さの地下内では、どこにどんな部屋があるのかということは、瑞葉くんの地図のおかげで把握できていますが、実際にその部屋で何が行われているのかは不透明です。《龍人と歌い子の憩いの間》で、悪事が練られている可能性もありますから。
しかし地下はさすがに敵の本丸だけあり、巡回者の足音だけではありません。
そもそもとして地下の構造自体がアリの巣のように複雑で、侵入者の自由を防ぐのはもちろん、“資格無き者”の侵入を防ぐための仕掛けも、至る所にあります。
巡回者から逃げるのは全て舞人が担い、罠の確認は全て惟花さんに任せました。
2人の間には絶対的な信頼関係があるからこそ成り立つ、役割分担でしょう。
人工的で味気ない空気を、仕方がなく胸の中へと取り込む中で、《特殊な靴を装着した人しか踏むのを認められていない廊下》や、《指定されたコンタクトを瞳に入れていないと道に迷って、『?』な部屋に繋がってしまう廊下》や、《特殊な宝石が開閉に必要な、不可侵の扉》を攻略して、地上から離れていきます。
どこの部屋にどれほどの神の愛が眠っているのかは、与えられていた地図上に随時示されていったので、怪しいと思われる所の最低限の目星はつけられました。
それぞれの部屋の中の情報だって、舞人の“白き血の力”を間接的に譲り受けている惟花さんが石壁に右手を触れさせてくれれば、外側からでも掌握できます。
こうして舞人と惟花さんが、人工的で温かい空気にもいつの間にか慣れてしまっていて、巡回者の足音さえもBGMの一種として聞こえるようになってきた頃には、地下1階と2階にあった、《龍人や歌い子のための空間》も調べ終わり、続けて重役者たちの居住地である地下3階へと向かって、《歴史の広間》と呼ばれている、世界中の知識を秘める本たちが保管された資料室を、覗いた時でしょうか?
地下への潜入から30分ほど立ち、さすがに疲労がみえ始めた舞人に神様が微笑んだように、終わりのみえなかった事態へと、満堂を揺らす風が吹き始めたのは。