第90話:『瀰漫の燃犀』と『魑魅の霊域』
エアコンの穏やかな呼吸音が聞こえる中で舞人は、惟花さんと一緒にお布団の中を温めていて、枕もとで光る蜜柑色のライトを使い、本に視線を流していました。
いくら眠ることが大好きな舞人だって、午後8時30分頃に眠気に負けてしまうわけではありませんが、今日は特別です。深夜帯に活動する必要がありますから。
あと3時間ほど舞人は、お布団という天国の中で、自由を享受できました。
でも舞人は飛び切りの馬鹿だからこそ、いきなりまぶたを閉じてしまうことは隣に寄り添ってくれている惟花さんに止められて、今日も本を開いていたのです。
小中学生向けのファンタジーの本でした。
本を読むぐらいなら、スーパーボールを部屋の中で流星状態にしてその軌道をみている方がよほど楽しそうな舞人が唯一興味を示すのが、幻想的な本なのです。
《ウィールベル》という空飛ぶ街で生活している主人公の少年が、ピエピエ伯爵なんていうふざけた名前の伯爵から、自分の宝物の妹を連れ去られてしまうところから物語は始まるのですが、「素朴で優しくて、とりあえず人のことを信じてしまう主人公の少年」と、「大金持ちだからか一般常識に欠けていながらも、人情味は深いピエピエ伯爵」を中心に展開する、面白くて感動する話しには、舞人も眩しいほどに目を輝かせながら恋風を吹かせていたので、舞人がすぐに眠ってしまわない本を時間をかけて探した惟花さん的には、これ以上ないお返しだったのかもしれません。
でも舞人だって、惟花さんの香りと温もりを感じながら、ふかふかの枕に後頭部をつけて本を読んでいると、1時間ほど立った頃にはさすがに子供らしい寝息をたてていたので、惟花さんは本の《しおり》を入れ直してあげると、枕元の電気にも眠ってもらい、自分も数時間の睡眠に入ることにしました。
惟花さん的にもこちらの方が自分も落ち着くし、寝相が悪い舞人が布団の外に逃げ出してしまわないように抱き寄せてあげながら、まどろみに落ちていきます。
自分の腕の中に抱いているからか、夢の中にも舞人が三遷と登場した惟花さんは、正確な体内目覚まし時計を修得しているからこそ、二度寝の常習犯である舞人とは違い、希求していた11時20分頃にも、ぴたりっと目を覚まします。
舞人は惟花さんの傍で大人しくしてくれていたようですが、どこかに惟花さんがいってしまわないように舞人本人からも、洋服を掴んでくれていたようでした。
舞人の無意識からの仕草をみた惟花さんは、典雅な微笑を浮かべてしまいます。
惟花さんは柔らかくて優しい微笑みを浮かべたまま、柔らかくて白い右手を使って、柔らかくてふわふわの舞人の髪の毛を撫で、目覚めの幇助をしてあげました。
でも舞人は芋虫のようにもぞもぞしても、宇宙人のような言語で生返事をするだけで、一回で起床する素振りはなく、当然のように二度寝をしてしまいました。
普段なら惟花さんも頬を突いて起こしますが、今日だけは舞人の背中を撫でながら二度寝を認めてあげ、10分ほど立ったあとに、また頭を撫でてあげます。
さすがに今回は舞人も、重いまぶたを開いてくれました。
でもまぶたをこする舞人はまだ寝ぼけていて、熱っぽい息で頬を濡らすような距離で惟花さんがささやいてくれても、うんという返事しか行うことができません。
舞人はお人形状態だったのです。
だから惟花さんは舞人を布団内から出してしまうと、お着替えさせました。
蝋燭が揺れるような暖風が流れている部屋の中は温かくても、すぐ窓の外は鳥肌が立って身体が震えるような寒気に満ちているからこそ、舞人だって長袖一枚では風邪を引いてしまうので、黒のダッフルコートを着させられたということです。
そして惟花さんは自分も同じコートを上着として羽織ると、下半身はロングスカートで包みました。色は闇夜に紛れるように黒です。やはり舞人と同色でした。
惟花さんの洋服と肌が触れ合う音が聞こえる中で舞人も、さすがに意識が覚醒していて、惟花さんがお洋服を取り出したばかりの黒革のバックを布団の上へと引き寄せると、自分と惟花さんにとって最低限必要な荷物を縮小化させてポケットに入れ込み、明日までこの部屋にいて、翌朝には民宿から出てくれる《変わり身》を、瑞葉くんの魔法陣と白き血の力を合わせて、生み出しておきました。
本物の舞人と惟花さんが息を飲みながら横に並んで布団上に正座をする中で、舞人と惟花さんの分身は白い魔法陣の中から、白い霧とともに登場をしてくれます。
相変わらず枕もとの電気しかつけていないせいでいかにも密談風になる中で、何かの拍子に自分の存在を乗っ取られそうな分身舞人に、諸々(もろもろ)の説明をしました。
「了解!」とばかりに敬礼してきた舞人(分身)は、舞人(本物)が言葉をかけ終わると同時に、右隣でお膝を折る惟花さんの洋服を引っ張って、早く一緒に寝ようと訴えます。分身惟花さんは本物惟花さんと同じ苦笑いの表情をしながらも、やはり舞人のいうことは聞いてくれて、一緒に眠ってあげてくれるようでした。
……お前本当に大丈夫かよ……と、自分の分身ながらも舞人は酷く心配になってしまいましたが、『すご~い、舞人くん。本当に舞人くんのそっくりさんなんだね?』と、舞人たちのやり取りを一部始終みてくれていた本物惟花さんは、殊更に感心をするので、惟花さんからはこうも子供っぽくみられているようでした。
拗ねたように頬を膨らませる舞人も、そんな両頬を楽しそうに両手で押してくる惟花さんにはなされるがままになってしまい、部屋に設置されている窓を使って、髪が揺れるような寒風が吹く月明かりの世界を、歩み進めることになりました。
世界から人が消えてしまったように誰もいず、夜桜の煌きもうそだったように灯りのない寒々しい街中では、2人の足音だけが唯一世界に刻まれていくものです。
4足歩行の化け物は、街の大聖堂内に入ったきり、息を潜め続けていました。
今回の件に七翼教会関係者が、何らかの理由で関わっているのはほぼ決定的になりましたが、まだ何か《裏》があるはずだと、舞人と惟花さんは信じ続けます。
廃村のような荒涼とした雰囲気に満ちているために、五感でも第六感でも悟られないように、白き血のベールで存在を懸隔していた舞人と惟花さんも、御前崎市内の中心部にある大聖堂へと、自然と到着することができました。
別世界の建物のようです。匂いも空気も音も何も今までとさして変わらないのに、あの建物だけは別世界の建物のように思えたのです。あの建物の中だけ時が止まっている。そんな感覚を、舞人は円形の大聖堂をみた時に思いました。
この大聖堂は1階部分が、礼拝堂的な役割をしているのに対し、地下1階から地下3階までは、七翼教会の政務者や龍人の《居住地》となっているようでした。
七翼教会の聖堂内の地図は、瑞葉くんから渡されています。
でも路地に足音を落としているだけで、不審者と見紛われてしまうような深夜帯ではさすがに聖堂内も開放されていないので、不法侵入するしかありません。
海の音が今にも聞こえてきそうな幻石が彩られている、幻想的な建物の外観の入り口に立っている舞人と惟花さんは、入り口の扉をすり抜けていこうとしました。
でも無用心に白き血の力だけで通過せずに、瑞葉くんの魔法も使用します。
七翼教会だって本拠地には、何らかの仕掛けをしているはずですし――、
それを白き血の力だけで対処するのは、さすがに気が引けるということでした。
舞人が大聖堂の扉に触れていくと、暗号としか思えない数字や文字の羅列が白き血の中に収納されていって、白き血も白き血でそれらの分析を自動で始めます。
自分の身体が大聖堂の扉に溶けていく現実と舞人は直面しながらも、右手で触れている惟花さんの手触りだけは手離さない中で、惟花さんは瑞葉くんの魔法書を使って、聖堂の結界情報の隙がある領域を使い、新たな情報を書き換えました。
数秒間だけ白き血の感知に目を瞑るようにと、幾千の命令内に加えたのです。
結界を消失させてしまえば訝しがられるでしょうが、幾千もある結界内の命令に、こんな単独の情報を数秒間だけ生み出しても、即座に怪訝は呼ばないでしょう。
七翼教会の大聖堂の1階部分は、神様を礼拝するための場所になっていました。