庇護はいりませんので隣に住みます、ただし夕食のお誘いは歓迎です
のみの刃が、伯母の指先で止まった。
「女の子が持つには危ないわ」
危ないのは刃ではない。刃を持った私が、自分で稼ぐことだ。
父が死んだのは、私が十九歳の冬だった。建物を測り、図面へ縮め、さらに木と紙と布で小さな家へ戻す。父の仕事を手伝っていた私は、親切な伯母に引き取られた。
屋根をいただくと、だいたい鍵が減ります。二軒で学びました。
一軒目の伯母宅では、まず刃物箱が戸棚の上段へ移った。次に定規とコンパスが伯母の寝室へ入り、私の外出には帰宅時刻がついた。
「あなたを守るためよ」
たいへん頼もしい。翌月には作業台へ近づける時間まで守られ、一日のうち二時間しか仕事ができなくなった。
模型の中の住人たちなら、ここで壁を抜く。台所と外を直結させ、伯母役の人形が茶を飲んでいる隙に脱出だ。残念ながら実物の私は縮尺一分の一。壁を抜けば大工代が発生する。
私は三か月かけて手道具を一つずつ自室へ戻し、伯母が買い物へ出た午前に荷をまとめた。
「恩知らず」
玄関でそう言われたので、食費と寝具代を記した紙を渡した。多めに置いた硬貨は受け取られた。恩は貨幣に換えると、ずいぶん静かになる。
返してもらえなかった大きな道具は、そのままにした。
模型の家なら屋根を外して回収できるのに。実物の親族には、持ち手がついていない。
* * *
二軒目では、従兄が私の模型をよく褒めた。
「アメリには才能がある。仕事は僕が取ってきてやるよ」
ありがたい話だった。仕事は来た。代金は来なかった。
従兄は私を住まわせているのだから、依頼人との交渉も材料の購入も自分の仕事だと言った。ゆえに代金も自分が管理する。私の名は注文書から消え、完成品は「従兄の工房製」として運ばれていった。
なるほど。模型の屋根に自分の名札を置けば、建てた人間になれるらしい。では王城の屋根へ私の名札を置いてこよう。明日から私は国王陛下だ。戴冠式には接着剤を持参したい。
「次は商家の大邸宅だ。奥の作業台を使え。逃げないよう材料も運んでおく」
半年目、従兄が私の財布から材料費を数えている横で、私は手道具を布に包んだ。
「どこへ行く」
「住む場所を変えます」
「仕事はどうする。おまえ一人では依頼も取れないぞ」
「一人で取れない仕事なら、今の私にも来ていません」
奥の作業台には、切りかけの階段があった。三十六段。依頼人は一段ごとの高さまで指定したのに、私の名はどこにも残らない。
従兄が階段へ手を伸ばした。
私は作業台との間に立った。
「ここから先へは入れません」
持ち出したのは手道具だけだった。階段も、完成間近の屋敷も、受け取れなかった代金も置いていった。
返してほしいものを数え始めると、足が止まる。
だから数えなかった。三軒目を探す足は二本。手荷物は一箱。それで足りる。
* * *
「屋敷に部屋を用意する」
初対面の伯爵様は、挨拶の次に壁を立てた。
ティボーが紹介してくれた仕事は、領内の集会所を修繕するための大模型作りだった。亡父と城壁修繕の隊で働いたという老大工は、私の道具箱を片手で持ち上げ、もう片方の手で若い伯爵を指した。
「こいつが施主だ。口数は板より少ない」
「ティボー」
「ほら、一枚鳴った」
ゴーティエ伯爵、二十八歳。領主。背が高い。黒い上着には糸くず一つなく、眉間には住人募集を打ち切った狭い谷がある。
その伯爵様が、私の経歴と腕前を確認し、屋敷の一室を工房にすると言った。材料も食事も使用人も用意する。仕事に集中できる環境を与えたい、と。
庇護という名の家具は、見た目が立派だ。たいてい扉の前に置かれる。
「住み込みはいたしません」
「なぜだ」
「仕事と寝床の持ち主が同じですと、仕事を断った日に寝床もなくなります」
伯爵様の眉間に、二人目の住人が越してきた。
「契約を結ぶ」
「契約があっても、廊下の端で夕食をいただく身では強く言えません。私は食事に弱いので」
「では、どうする」
「屋敷の隣に空き家があると聞きました。あちらを借ります。こちらからは仕事だけいただきます」
伯爵様は私を説得しなかった。
机に置かれていた契約書を引き寄せ、住居提供の一文へ線を引いた。家令を呼び、空き家の賃貸契約を別に作らせた。模型制作の報酬を受け取る欄には、私の名だけを書かせた。
早い。屋敷模型なら、今の三呼吸で壁が一枚撤去された。実物の貴族も、やればできる。
「ほかに条件は」
「夕食のお誘いは歓迎です」
「住むのは嫌だが、食べには来るのか」
「住居と食堂は別室ですので」
伯爵様はしばらく私を見た。
「わかった」
ティボーが鼻を鳴らした。
「梁より融通が利いたな」
こうして私は屋敷の隣に住んだ。
自分で家賃を払い、朝、自分で扉を開ける。夜、自分の都合で閉める。たったそれだけのことで、床板が毎日よく働く。私をどこにも運ばず、踏んだ場所にいてくれる。優秀。
集会所の模型は大きかった。長机を外せば診療所に、仕切りを動かせば冬の共同作業場になる構造を見せるため、内部を可動式にした。屋根は四分割。壁の一部は蝶番で開く。完成すれば大人四人でも運搬に苦労する。
私は縮尺を決め、伯爵様に告げた。
「制作中は、私の工房へ入らないでください。部品の位置が変わると困ります」
「必要な確認はどうする」
「戸口でお声がけください」
「わかった」
翌日、伯爵様は戸口に立った。
「集会所の北壁を測り直したい。同行を頼めるか」
「はい」
次の日も戸口に立った。
「樫材の見本を持ってきた。中へ置いていいか」
「右の棚へお願いします」
「右の棚に触れていいか」
その次も立った。
「運搬箱の寸法を確認したい」
「どうぞ」
「入っていいか」
「どうぞと申しました」
「箱に対してか、私に対してかわからない」
面倒な伯爵様である。丁寧に縄を編んでいるのかもしれない。一周目は柔らかく、二周目で手首にかかり、三周目には屋敷の客室が完成する。油断は禁物だ。
模型の伯爵様はもう三回求婚しました。実物はまだ玄関で黙っています。
制作には屋敷中が参加した。
伯爵様、伯爵様。危ない危ない。呼称の壁を勝手に壊すところだった。
伯爵様の母君は、見本に作った小部屋を手に取り、「この窓辺には椅子が要るわ」と率直に言った。
二人の妹君はさらに速い。
「長椅子がいいですわ」
「棚も置けます」
「暖炉は?」
「この縮尺で暖炉を足すと、部屋が暖炉になります」
「では実物の家具を動かしましょう!」
なぜ。
止める前に妹君たちは集会所へ走り、実物の長椅子を窓辺へ移し始めた。母君まで指示を出す。模型はまだ床板だけなのに、実物が先に改築されている。順序! 縮尺模型の面目!
村の木工職人は小さな蝶番を削り、針仕事の得意な侍女は仕切り幕を縫った。料理人は「作業員の指を保つ」と称して焼き菓子を寄越した。指より先に腹が保護された。よい庇護です。追加を希望します。
私は一人でできる部分まで手を出されるたび、机の上の部品を抱え込んだ。
ティボーは運搬箱を肩に担いだ。
「家は一人で建てん。模型も同じだ」
「これは私の仕事です」
「だからおまえが棟梁だ。棟梁は全部の釘を自分で打つ阿呆じゃない」
阿呆の家は、少しずつ手狭になった。
公開の日、四人で屋根を持ち上げた。壁を開く。小さな長机が現れる。仕切りを滑らせると診療用の寝台が見え、さらに床板を返せば冬の炉を置く印が出た。
「動いた!」
「こっちの扉も開くぞ」
「椅子まで同じだわ」
母君が私の手をつかみ、妹君たちは模型の小部屋を左右から指した。
「これは私の部屋に」
「いいえ、私が先に見つけました」
「集会所です。お二人とも住めません」
村人たちが笑った。
修繕案への注文も、近隣からの模型依頼も、その日のうちに来た。家令は注文書を一枚ずつ私へ渡した。翌朝には、伯爵様が追加報酬の入った封筒を持ってきた。
「公開分だ。確認してくれ」
「屋敷の会計へ預けていただいても」
「契約相手は君だ」
封筒は私の手に置かれた。
誰の指も、上から重ならなかった。
* * *
評判というものは、窓より先に他人が入ってくる。
公開から十日後、王都に大屋敷を持つロベール公爵が、私の工房を訪れた。
先触れはあった。返事はしていない。それでも公爵は馬車を屋敷前へ止め、従者を連れて隣家まで来た。工房の扉が開いているのを見ると、挨拶より先に足を向ける。
「王都の屋敷を模型にしてもらう。現地で採寸が必要だ。部屋を用意させる」
住み込みという家具が、また扉を塞ぎに来た。今度は金箔つき。
「王都へ住む予定はございません」
「完成まででよい。以後は専属として別邸の仕事も任せる」
「お受けいたしません」
「報酬はこの領地で得る額の三倍出そう」
「住み込みはいたしません」
「五倍なら不満もあるまい」
私の拒絶は、値札ではない。けれど公爵には、桁の足りない請求書に見えたらしい。
「工房を見れば必要な設備もわかる。話は中で——」
そのとき、模型箱が横から滑り込んだ。
担いでいるのはティボーだ。その隣へ洗濯物を干す台を持った侍女が立ち、反対側には焼き菓子の籠を抱えた料理人が詰まった。さらに木材を抱えた職人、布を持った妹君たち、なぜか椅子を持った母君まで並ぶ。
「通れんな」
ティボーが言った。
「模型箱が繊細なもので」
「洗濯物も繊細です」
「焼き菓子はもっと繊細です。押されると私が食べます」
玄関前は、家具の配置を誤った模型の食堂になった。人間が一人増える余地もない。というより母君、その椅子はどこから。
「何の騒ぎだ」
ロベール公爵の声に、模型箱の角がわずかに下がった。
その隙間へ伯爵様が入った。
大声は出さなかった。公爵の前に立ち、工房の扉を背にした。
「彼女は断りました」
「領主が職人の依頼を妨げるのか」
「依頼なら、返事を待つものです」
「私は中を確認するだけだ」
伯爵様の靴が、敷居の手前で止まった。
「ここから先へは入れません」
公爵は伯爵様を見た。次に、模型箱、物干し台、焼き菓子、椅子の順に見た。最後の椅子が効いたのかもしれない。あれはどう見ても防衛用ではない。だからこそ、相手にはこちらの本気が読めない。
「報酬の話は改めて使いを出す」
「返事は同じです」
私が言うと、公爵は踵を返した。
馬車の音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。
「焼き菓子は無事です」
料理人が籠を掲げた。
勝った。
しかも私の工房は無傷、住み込み契約は不成立、焼き菓子まで残った。完全勝利である。模型の屋根に旗を立てたい。旗竿は爪楊枝でよい。
妹君たちが一度に息を吐き、母君は持ってきた椅子へ座った。やはり自分用だった。
「では、お茶にしましょう」
強い。
皆は屋敷へ戻っていった。ティボーも模型箱を担ぎ直し、戸口を空けた。
伯爵様だけが残った。
けれど、工房には入らなかった。
「伯爵様」
「なんだ」
「入らないのですか」
「招かれていませんから」
私の口の中で、さっきまでの焼き菓子の甘さが消えた。
伯爵様はいつも、ここに立っていた。採寸を頼むときも、木材を運ぶときも、箱の寸法を見るときも。
丁寧に囲われているのだと思っていた。縄の一周目を数え、二周目に備え、三周目が来る前に切れるよう、ずっと刃を握っていた。
縄など、どこにもなかった。
「なぜ、そこまで離れるのですか」
「近づけば、君は退くだろう」
「退いたのは、住み込みからです」
「私からもだ」
「伯爵様が私を屋敷へ置こうとなさったからです」
「あれは撤回した」
「次の提案が来ると思っていました」
「しなかった」
「その代わり、何をするにも許可をお求めになりました」
「嫌だったか」
「……囲い込みの準備かと」
伯爵様の眉間に住んでいた二人が、とうとう壁を壊した。
「私まで三軒目に数えるな」
床板が、一度だけ鳴った。
「数えない方法が、わからなかったのです」
伯爵様の靴は動かない。
「伯母は道具を預かると言いました。従兄は仕事を取ってくると言いました。お二人とも、最初は私のためだと」
「私は何をすれば、違うとわかる」
「もう、なさっています」
「なら、なぜ逃げる」
「伯爵様が何もおっしゃらないからです」
「住居を押しつけるなと言われた」
「住居以外まで引き取られるとは思いませんでした」
「何を言えばいい」
「それを私に決めさせるのですか」
「君の許可なく決めると怒るだろう」
「怒ります」
「では聞く」
伯爵様は一度、口を閉じた。
工房の中では、作りかけの玄関扉が倒れた。糊が乾く前だったらしい。模型の住人が空気を読んで退場した。見事な判断だ。実物の私は逃げられない。
「屋敷へ住ませたいのではない。君の仕事を管理したいのでもない。夕食に来ない日は、理由を知りたい。新しい模型を見せる相手に、私も入れてほしい」
「それは、依頼人としてですか」
「依頼人としてなら、契約書に書く」
「隣人として?」
「それでは足りない」
伯爵様は敷居の外に立ったままだ。
「君と恋人になりたい。家は別でいい。仕事も別だ。食事も毎回でなくていい。断る日があっても、寝床も報酬も取り上げない」
ずいぶん条件の多い申し出だった。
けれど、一つも私から奪う条件ではなかった。
「それは求婚ですか」
「違う。順序を飛ばすと、また退くだろう」
「退くかもしれません」
「そのときは待つ」
「いつまで」
「返事が出るまで」
伯爵様は上着の内側から、小さな金属を取り出した。
裏の物置を工房へ直したいと、私が頼んだのはひと月前だ。私の図面で、私が選んだ職人が修繕した。伯爵様は家主として工事を認めただけで、完成確認にも私を呼ぶと言っていた。
「改装が終わった。職人から預かった」
鍵を私の掌へ置き、指を離す。
「中を見ないのですか」
「君の工房だ」
伯爵様は一歩退いた。
私は握った金属を差し込み、回した。
新しい扉が開く。白い壁。広い作業台。北向きの窓。棚はまだ空で、誰の道具も誰の名札もない。
私の場所だった。
伯爵様は入ってこない。
「伯爵様」
「なんだ」
「お入りください」
「仕事の確認か」
「いいえ。客としてです」
敷居をまたいだのは、私が頷いたあとだった。
「お返事をしても?」
「ああ」
「家は別です」
「ああ」
「仕事の口出しは、依頼した模型だけ」
「わかった」
「夕食は毎日とは限りません」
「わかった」
「私も、理由を聞くことがあります」
伯爵様がこちらを見た。
「何の理由を」
「夕食へ来ない日の理由です。模型を最初に見せても、黙って立っている理由です。ほかにも、その都度」
「許可を取って聞くのか」
「そこまで真似しません」
私は手の中の鍵を作業台へ置いた。
「よろしくお願いいたします、ゴーティエ様」
眉間の家が、ようやく空き家になった。
* * *
工房の公開日、私の家には定員の二倍が入った。
村の職人が作業台を囲み、使用人たちは壁際に並び、妹君たちは新しい棚へ模型家具を置きたがった。母君は最初から椅子を確保している。経験者は強い。
ティボーが大模型の箱を運び入れると、全員が半歩ずつ詰めた。
「家は一人で建てんが、もう少し広く建てるべきだったな」
「借家ですので、壁を押さないでください」
「模型なら広げられるぞ」
「実物の皆様を縮めるほうが早そうです」
夕食もこちらで取ることになり、長机には鶏の香草焼き、豆の煮込み、硬いパン、山盛りの焼き菓子が並んだ。私の家の食堂は、模型より窮屈だった。肘を動かせば隣の皿へ入り、椅子を引けば背後の人が立つ。すばらしく迷惑な間取りである。
私は食卓の端に残しておいた椅子を引いた。
「ゴーティエ様、こちらへ」
「私の席か」
「食堂の席です」
彼が座る。私は隣へ自分の椅子を寄せた。
「香草焼きと豆の煮込み、どちらがお好きですか」
「君が作ったのは?」
「豆です」
「では豆を」
「お世辞で選ぶと、今後ずっと出ますよ」
「毎回、招かれるなら構わない」
危うく匙を落とした。模型職人の指先を夕食で破壊しにくるとは、伯爵もなかなか恐ろしい。
「今夜の客室はありません。食堂の席なら、ひとつ空いています」
「今、座っている」
「明日の話です」
ゴーティエ様は豆を口に運び、少しだけ笑った。
食後、私は作業台の模型を皆に見せた。
小さな家には、誰かが所有するための部屋を作らなかった。寝室も客室もない。代わりに、正面へよく動く玄関扉を一つ足した。
外から小さな人形を置く。
内側から、扉を開けた。




