第一編「ナイス・カオス!-鉄っちゃんの構造主義居酒屋-」
すすきの の片隅、赤提灯が風に揺れる居酒屋『はなればなれ』。 店内の空気は、ホッケの焼ける香ばしい煙と、人生に詰んだ男たちの溜息でどんよりと濁っていた。
「……ダメだ、ショータ。一言目が『どうもー!』の次が出てこねぇ」
タイチは、使い古したネタ帳に頭を打ち付けた。ボケ担当の彼は、来月の賞レースに向けて一世一代の「革命的ツカミ」を探していた。だが、目の前にあるのは、真っ白なページと、冷めきったお通しの枝豆だけ。
「『最近、彼女が欲しくてね』はベタすぎるし、『宇宙人に誘拐されまして』はシュールすぎて客が引く。俺たちに必要なのは、圧倒的な『差異』なんだよ!」
ツッコミのショータは、ジョッキのビールを煽りながら毒づいた。
「差異、差異って……。お前、最近変な本読みすぎなんだよ。もっと分かりやすく行こうぜ、分かりやすく」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。 そこへ店員が、「特製ポテトサラダ」を運んできた。
それは、まさに芸術品だった。 北海道産のキタアカリを、あえて粗く潰してホクホク感を残した土台。その頂上には、箸を入れるのを躊躇わせるほど完璧な、オレンジ色の黄身がとろけ出す半熟の味付け玉子が鎮座している。マヨネーズの芳醇な香りと、散らされた黒胡椒の刺激的な匂いが、空腹の限界を迎えていた二人の鼻腔を容赦なく蹂躙した。
「……これは絶対うまい。とりあえず、食ってから考えようぜ」
ショータが箸を伸ばした、その時。
「あんたらちょっと待ちなさいっての!!」
鼓膜を突き破るような、強烈な濁音。 隣の席から、ヨレヨレのジャイアンツ帽を被り、度が強すぎて目がラクダのように巨大化した男――素蔵 鉄が、身を乗り出してきた。
「あんたら、そったら無垢なシニフィアンみたいな面してこれ食おうってのかい? わやだわ、わや! それじゃあ、ただの『ジャガイモの墓場』だべさ!ね~。な~にをそったら、実在論的な安心感にどっぷり浸かってさ。要は、ただの芋だべ!?」
「な、なんですか急に!」ショータが椅子を引く。
「誰だ、このおじさん……」タイチは呆然と見上げる。
鉄さんはビールの泡を口の横につけながら、「ヒヒッ、ヒヒヒヒ!」と不気味に笑うと、卓上のウスターソースをひったくった。
「いいかい、あんたら。言葉と物体の結びつきなんてのは、あらかじめ決まってるわけじゃねぇんだわ。ソシュール先生も言ってるべさ! 記号の恣意性、ラルビトラレールでしょや! 既定の概念をソースで塗りつぶして、世界を再分節してやらなきゃ、ポテサラの真理は見えてこないんだわ!」
「は? ソシュ……何?」
鉄さんは、有無を言わせぬスピードで、その黄金色のポテトサラダにドバドバと真っ黒なソースをぶっかけた。さらに、セカンドバッグから赤ペンを取り出し、皿の縁に謎の幾何学模様を書き込み始めた。
「ほれ見れ! ソースをかけられた瞬間、これは既存の『ポテサラ』という固定された共時的体系から脱落し、未定義の『黒いカオス』へと変貌しました! ナ~~~イス! カオス!! ヌフフフフ! 味が濃くなって酒が進むべさ!!」
「何すんだよ! 俺たちのポテサラが真っ黒じゃねーか!」 ショータが立ち上がるが、ボケのタイチは違った。彼は、ソースで汚れた皿と、鉄さんの狂気に満ちた眼光を交互に見て、震える手でネタ帳を開いた。
「……これだ。これだよ、ショータ! 『記号の恣意性』! このおじさん、ボケの質が次元を超えてる!」
「バカ言えタイチ! ただの酔っ払いだろ!」
鉄さんは二人の反応など無視し、ソースまみれのポテサラをスプーンで掬うと、強引にタイチの口にねじ込んだ。
「食え! 理屈を食ってみなさいっての! 差異、ディフェランスの衝撃を喉越しで感じるのさ! 意味の連鎖から逃れるべ!! ほら、ブルドックソースの味がするべ!! ヌヒヒヒヒヒ。」
口の中に広がるのは、ジャガイモの素朴な甘みと、ソースの酸味、そして玉子のコクが複雑に絡み合った、未体験の衝撃。
「……う、美味い。ガチで美味い……」
「だべ!? 名前なんてのは、ただの空虚な記号なんだわ! 大事なのは、そこに何が『書かさってる』かでしょや!? マヨネーズとソースが混ざれば最強だって、義務教育で習わなかったんかい!?」
鉄さんは満足げに頷くと、自分のセカンドバッグから、なぜか新品同様のフランス語の原書を取り出し、パンパンと叩いた。 その瞬間、タイチの目には、鉄さんの背後に一瞬だけ、数式が明滅する宇宙のようなビジョンが見えた気がした。
「おじさん……あんた、何者なんだ?」
「私かい? 私は素蔵鉄といいます!よっ!!ナイスカオス!!ただの、時空の隙間に挟まったホッケの骨みたいなもんさ。ヒヒッ!」
鉄さんの通信機が、チャカチャカと奇妙な音を立てて光る。 それが、タイチ&ショータの運命を、そして宇宙の法則を、少しずつ歪ませ始める合図だとは、まだ誰も気づいていなかった。
「『記号の恣意性』……これだ、これしかない。ショータ、次のネタのツカミはこれで行くぞ」 タイチは興奮で鼻息を荒くし、真っ黒に染まったポテサラを凝視しながらペンを走らせる。
「正気かよ!? 客がポカンとするだけだろ! 大体、そのおじさん、勝手にソースぶっかけただけだぞ!」 ショータのまっとうなツッコミも、今のタイチには「旧時代のラング」にしか聞こえない。
そこへ、店員が巨大な皿を運んできた。本日のメインディッシュ、「真ホッケの開き」だ。
そのデカさは、もはやちょっとした小型船舶のようだった。 脂の乗り切った身は、炭火でじっくりと炙られ、表面は飴色に輝いている。箸を入れれば、パチパチと音を立てて熱い脂が噴き出し、立ち上がる煙には濃厚な磯の香りと、熟成された旨味が凝縮されていた。これぞ「飯テロ」の最終兵器。
「おっ、きたきた。これだわ。これこそが構造主義の権化だべさ!ね~!」 鉄さんは、待ってましたとばかりに自分の割り箸を割り、勝手にホッケの真ん中に箸を突き立てた。
「ちょっと! それ俺たちのホッケ!」
「なんもだ~! このホッケを見てみれ。頭があって、背骨があって、尾っぽがあるべ? な? この厳格な二項対立の骨組みがあるからこそ、我々はこの物体を『ホッケ』と呼べるわけだわ。そうでしょ!? 要は、プラモデルと一緒だべさ!!」
鉄さんは、熟練の手つきで背骨をベリベリと剥がし取った。
「この背骨を抜いた瞬間、ホッケの不自由な言語体系、ラングは崩壊し、ただの『脂の乗った肉の塊』という自由なパロールへと解き放たれるのさ! よっ!! ナイス!! カオス!! 骨の周りの身が一番旨いんだわ!! ヌフフフフ!」
「おじさん、謎の専門用語はいいから、身をボロボロにするのやめてよ!」 ショータが悲鳴を上げるが、鉄さんの動きは止まらない。彼は剥がした背骨を手に持ち、指揮者のタクトのように振り回した。
「あんたらの漫才も同じなんだわ~。ね~、ちょっと考えたらわかるっしょ。前振りと、ボケと、ツッコミ。その中心主義的な構造に縛られてるから、あんたらの笑いは羽ばたけねぇんだわ。な~にをそったら、型にハマって。わやだわ! わや! 焼きすぎて身が固くなったホッケみたいな漫才しやがって!!」
「……型に、ハマってる……」 タイチの目が、深淵を覗く者のそれに変わった。
「そうか。俺たちは『漫才』という構造に閉じ込められていたんだ。ショータ、背骨を抜くんだ。俺たちの漫才から、背骨というツッコミを抜くんだよ!」
「抜くな! 俺の仕事を奪うな! 漫才じゃなくなるだろ!」
その時、鉄さんが突然、ホッケの大きな身を口に放り込んだ。 直後。鉄さんの顔が、一瞬で紫色のナスのような色に変貌した。
「カハッ……ッ、ガハッ……!!」
「おじさん!? どうしたの!?」
鉄さんは喉を押さえ、白目を剥いてのたうち回った。メガネがズレ、巨大な目がさらに飛び出しそうになっている。
「……こ、構造の……拘束……っ! 超越論的シニフィエが……差異を……拒絶して……!」
「骨が刺さったんだろ! ほら、水! 水飲んで!」
ショータが慌てて水を差し出すが、鉄さんはそれを跳ね除け、パンパンに膨らんだセカンドバッグから「新品同様のフランス語原書」を取り出し、それを自分の喉に強く押し当てた。
「エ、エポケー……! ヌヒィィィィィッ!!」
凄まじい叫び声と共に、鉄さんの口から「シュパァン!」と乾いた音を立ててホッケの骨が射出された。骨は放物線を描き、壁に貼られた『本日のおすすめ:もつ煮込み』の短冊に見事に突き刺さった。
「……ふぅ。危なかった~。一瞬、高次元の観測データが書き換わるところだったわ。皆様!!鉄っちゃん復活でございます!!ナイス!!カオス!!骨はちゃんとよく噛んで食わなきゃダメだべさ!!」
鉄さんは、何事もなかったかのように鼻をかむと、また不気味に笑い始めた。
「な、なあタイチ。今、骨が抜けた時……居酒屋の照明、一瞬だけ青く光らなかったか?」 ショータが震える声で尋ねるが、タイチはそれどころではない。
「見たかショータ。あの骨の射出……あれこそが『概念の飛躍』だ。次のネタ、ツカミは『ホッケの骨を喉に詰まらせる』で行くぞ」
「死ぬわ! 誰がやるんだよそんな命がけのボケ!」
鉄さんの通信機が、再び「ピピピ……サッポロ……カンソク……」と、電子合成音声のような音を漏らした。 居酒屋『はなればなれ』の外では、すすきのの空に、見たこともない色の星が一つ、怪しく瞬いていた。
「ホッケの骨を射出するツカミなんて、客が引くどころか警察が来るわ!」 ショータの必死の抗弁を、タイチは「ノイズだな」と切り捨てた。その目は、刺さった骨の角度から黄金比を導き出そうとしている。
そこへ、店内の空気を一変させる派手な足音が響いた。
「おや、タイチにショータじゃん。こんな薄汚い店で何してんの?」
現れたのは、同期の売れっ子コンビ『シャンパン・シャワー』のツルギだった。テレビで見る通りのテカテカしたスーツに、完璧にセットされた髪。彼は二人のテーブルにある無残なホッケの残骸を見て、露骨に鼻を鳴らした。
「来月の大会、まだネタに悩んでるわけ? 悪いけど、俺たちはもう『完成』しちゃったよ。時代は共感とスピード。お前らみたいな古臭い漫才、誰も見てないって」
ショータが悔しさに奥歯を噛み締めたその時、隣の「怪人」が動いた。
「……ね~、あんた。今の言葉、なまらロゴス中心主義だべさ。わやだわ~」
鉄さんが、ビールのジョッキを置く音で店内の会話を遮った。
「だれ、このおじさん……不潔なんだけど」 ツルギが眉をひそめる。
「私かい? 私は素蔵鉄! よっ!! ナイス!! カオス!! あんた、今『完成』って言ったっしょ? それが一番の差異、ディフェランスの欠如だってわかんないのかい? 二項対立のドロ沼にハマっちゃってね~可哀そうに。完成した瞬間に、笑いは死ぬんだわ。そうでしょ!? 要は、セイコマートのあれでしょ?ホットモットのお弁当!!賞味期限切れたお弁当とはもう販売できね~べや!!そういうことでしょ!!ね~、わやだわ~」鉄さんは、店員が持ってきたばかりの「特製ザンギ」を、ツルギの鼻先に突きつけた。
それは、もはや「唐揚げ」という言葉では括れない暴力的ボリュームだった。 一つ一つが赤ちゃんの拳ほどもあり、醤油とニンニク、そして隠し味の生姜の香りが、熱い蒸気と共に店全体を制圧する。カリッと揚げられた衣の隙間から、鶏の脂がジュワリと滲み出し、見ているだけで喉が鳴る。
「ほれ、このザンギ。衣と肉の間に、明確な境界線はあるっけ? ないでしょ! これこそが脱構築、デコンストラクションなんだわ!わらるしょ~?衣のサクサクシニフィアンと肉のジューシーシニフィエが、渾然一体となって宇宙を生成してるんだわ!! ね~これがなまらすごいんだわ!!ヌヒヒヒヒ!!」
鉄さんはザンギを豪快に一口齧った。熱い肉汁がツルギの高級スーツに一滴、飛び散る。 「ああっ! 俺のイタリア製スーツが!」
「な~にをそったら、ちっこいこと言ってんの。形式が内容を侵食し、肉が衣を突き破る。 この不確定なせめぎ合いこそが、真のエネルギーだべさ! あんたの漫才は、パターナリズムが厚すぎて中身がスカスカなんだわ。ね~! そうだべ!? 要は、揚げすぎて固くなった皮ばっかり食わされてる気分だわ!!」
「な、なんだよこのなまり! 意味わかんねぇよ!」 ツルギがたじろぐが、鉄さんは止まらない。彼はセカンドバッグから「新品同様のフランス語原書」を取り出すと、それをザンギの皿の横に並べた。
「あんたの『完成』なんてのはな、この本の一行目も読めない奴の戯言だべ。ヒヒッ、ヒヒヒヒ!よっ!! ナイス!! カオス!! ザンギにレモンかけるか かけないかで悩んでる次元の男にはわかんねぇべさ!!」」
突然、鉄さんのメガネの奥が、あり得ない角度で回転した。 と同時に、居酒屋のテレビに映っていたツルギの出演番組の映像が、ザザザーッと砂嵐に変わる。
「……ピピ……観測対象、変動。……低次元ロゴスの崩壊を確認……」 鉄さんの首元の通信機が、冷徹な機械音を吐き出した。
「え、今、なんて……?」 ショータが呆然とする中、ツルギは顔を真っ青にして後ずさりした。
「……わ、わかったよ! 行くよ! 気味が悪いな、もう!」
嵐が去った後のように、タイチはノートに殴り書きをしていた。 「ショータ……聞いたか。『ザンギの脱構築』だ。次のネタ、ボケの俺が衣を脱ぎ捨てて、肉体そのものになる。これだ。これが『本質』だ!」
「服を脱ぐな! 公然わいせつで捕まるわ!」
鉄さんは、ツルギが残していった高級なライターを勝手に使い、自分のタバコに火をつけようとしていた。
「ヌフフフフ。今日は、いいデータが取れたわ~。皆様!!これからはザンギの時代なんだわ~!!よっ!!ナイス!!ナイス鉄っちゃん!!はい!よ~~~し観測完了だべさ!!」
窓の外では、すすきののネオンが幾何学模様に歪み、一瞬だけ、夜空に巨大な「ソシュールの顔」に似た雲が浮かんでいた。
「……おいタイチ。もう書くのやめろ。ザンギの衣を脱ぎ捨てるボケなんて、もう漫才じゃなくてただの変質者だろ」
ショータは、真っ黒なポテサラ、骨を抜かれたホッケ、そして肉汁まみれのザンギの残骸を見て、深い絶望に沈んでいた。
だが、真の絶望はこれからだった。
「さてと……。いいデータも取れたし、そろそろお暇するべかね~♪」
鉄さんが、満足げに腹を叩いた。その首元では、例の通信機が「……キョウカイ、テイテイ……」と不穏なノイズを出し続けている。
「そうですね。僕もこの『脱構築ネタ』を早く形にしないと。すみませーん、お会計!」 タイチの呼びかけに、店員が伝票を持って現れた。
「えーと、合計で……1万8千円になります」
「高っ!!」ショータが叫ぶ。「おじさんが勝手に頼んだ分が半分以上だろ!」
鉄さんは、パンパンに膨らんだセカンドバッグをガサゴソと探り始めた。中からは、フランス語の本、大量の赤ペン、謎の配線コード、そして、なぜか凍ったままのジンギスカンが出てきた。
「……あら~。ないわ~財布。時空の彼方、アウト・オブ・コンテクストに置いてきちゃったかな~。あちゃ~~~ヌヒヒヒヒどんまいだべさ!!ヌヒ!」
「時空の彼方じゃなくて家に忘れたんだろ! 食い逃げかよ!」
ショータのツッコミが店内に響き渡る。だが、鉄さんは動じない。むしろ、巨大な目をさらに見開いて、ニヤリと笑った。
「あんた、な~にをそったら、狭い世界で生きてんの?これは『財布がない』んじゃなくて、我々のパラディグマの中から『支払う』という項目が一時的に消失しただけだべや。そうでしょ!?ヌフフフフ。」
「屁理屈言うな! 払わないと店から出られないんだよ!」
「ヌフフフフ! じゃあ、これを見れ。これこそが、この宇宙の最終的なル・サンセなんだわ!ね~。」
鉄さんがテーブルの上にドン!と置いたのは、追加注文していた「特製すじこおにぎり」だった。
それは、炊き立ての道産米『ゆめぴりか』が放つ、眩いばかりの白光を纏っていた。 ふっくらと結ばれた米の隙間から、ルビーのように輝く大粒のすじこが、今にも溢れんばかりに顔を覗かせている。一口齧れば、米の甘みと、弾けるすじこの濃厚な塩気が口内で核融合を起こし、すべての理性を消し飛ばす。
「いいかい。このすじこ一粒一粒が、並行世界、ユニヴェール・パラレルなんだわ~わかるしょ~。バラバラの個体が、米というラングによって一つに結ばれている。でもな、このおにぎりを食っちまえば、すべては絶対的なル・ネアン。借金も、未払いの会計も、あんたらの売れない芸人人生もな!腹に入れば一緒なの!!わかるっしょ?ね?ナイス!カオス!!」
鉄さんは、すじこおにぎりを真っ二つに割り、タイチとショータの口に強引に押し込んだ。 「食え! シンギュラリティを飲み込め!!喉つまらせるなよ、わやだぞ!!」
その瞬間。 二人の口の中で、すじこが弾けた。 同時に、居酒屋の空間がグニャリと歪んだ。
「……え、待て。店員さんが……止まってないか?」
ショータが周囲を見渡す。伝票を持った店員も、他の客も、焼台の煙までもが、まるで高解像度の静止画のように固まっている。
鉄さんだけが、スローモーションの中で、セカンドバッグから「見たこともない形状の通信機」を取り出し、アンテナを伸ばした。
「……こちら鉄っちゃんです!よっ!!第148観測地点、パラディグマの変換に成功。未払いの負債を、並行世界のエネルギーに転換しました~。よろしくどうぞ~は~い、は~い、どうもね~、は~い……ああ、この若造二人? 面白いから、少しだけ『差異』を書き換えてやったわ。ヌヒヒヒ!将来なまら売れるように細工したからよ。あとはそっちよろしくやっといてね~、はい、はい!!は~いよろしくどうぞ~、はい、はいはいはいどうも~おばんでした~。」
「おじさん……あなた、本当に……」 タイチの意識が遠のく。すじこの旨味が脳の受容体をパンクさせ、宇宙の真理が流れ込んでくる。
「皆様!!夜明けは近い!!よっ!!ナ~イスカオス!!明日は明日の風が吹くべ!!ね~!!」
鉄さんの声が、遠く、高く響いた。 次の瞬間、二人の意識は深い闇へと飲み込まれていった。
「……う、うう……」
タイチが目を覚ましたのは、大通公園のベンチの上だった。 視界を刺すような朝日。春が近いとはいえ、札幌の朝の空気はまだ容赦なく冷たい。
「……ショータ、起きろ。朝だぞ」 隣で丸まっていたショータを揺り起こす。ショータは「もう食えねぇよ、すじこ……並行世界が…喉につまる…」とうわ言を漏らしながら、顔を上げた。
「……あれ? 俺たち、居酒屋にいたよな? 会計は? あの変なおじさんは?」 二人は呆然と周囲を見渡したが、そこにはカラスの鳴き声と、ジョギング中の市民がいるだけだ。鉄さんの姿はどこにもない。
「夢……だったのか?」
タイチが自分のポケットに手を入れると、一冊のノートが指に触れた。 昨夜、鉄さんの暴論を必死にメモしたネタ帳だ。開いてみると、そこにはタイチの筆跡ではない、洗練された、しかしどこか機械的な美しさを持つ数式と、フランス語の走り書きがページを埋め尽くしていた。
「夢じゃねぇ……。見てくれショータ、このノート」
「なんだよこれ……全然読めねぇけど、見てるだけで頭が痛くなる……。なあ、タイチ。俺たち、とんでもないことに巻き込まれたんじゃねーか?」
その時だった。 ショータのスマホに、一通の通知が届く。来月の賞レース、M-1級の大舞台の出番順が確定したという知らせだ。
「……やるしかないんだな、あのネタを」 ショータが青い顔で呟く。 「ああ。鉄さんが教えてくれた『差異』と『脱構築』。そして、あのホッケの骨の射出……。あれを完璧に再現できれば、俺たちは歴史を…いや世界のパラグディマを変えられる」
一ヶ月後。 会場は熱狂に包まれていた。数千人の観客と、数百万人の視聴者が注目する中、タイチ&ショータの名前が呼ばれる。
「どうもー! タイチ&ショータです! お願いしまーす!」
ステージに飛び出した二人。だが、タイチの様子がおかしい。彼は「どうもー!」の次の一言を発する代わりに、懐から**「本物の真ホッケ(焼き立て)」**を取り出した。
「ちょ、ちょっとタイチ君!? 何それ! 舞台にホッケ持ってきたらダメだよ!」 ショータのツッコミが冴え渡る。だが、タイチは無言でホッケの背骨をベリベリと剥がし取った。
「……皆様。これこそが『構造』の崩壊です。よっ!!ナイス!!カオス!!」
客席が静まり返る。審査員たちがペンを止める。 タイチは剥き出しのホッケの身を口に放り込み、一ヶ月前の鉄さんそのままに、顔を紫色に変貌させた。
「カハッ……ッ、ガハッ……!!」 「タイチ君! 喉に詰まってるよ! 死ぬよ!超越論的仮死状態だ!! 誰か水持ってきて!」
阿鼻叫喚のステージ。しかし、タイチが喉元に「新品同様のフランス語原書」を押し当てた瞬間、口からホッケの骨が弾丸のようなスピードで射出され、マイクスタンドを直撃した。
「シュパァン!!」
その乾いた音が会場に響き渡った瞬間。 観客全員の脳内に、直接「ホッケ」の旨味と「記号の恣意性」が流れ込んだ。 爆笑ではない。それは、宇宙の真理に触れた人間が漏らす、根源的な「歓喜の叫び」だった。会場は見たこともないような熱狂?の渦に飲み込まれ、照明が、あの日居酒屋で見たのと同じ「青色」に激しく明滅し、観客たちはロゴスの呪縛から解き放たれて狂喜乱舞した。
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同時刻。 すすきのの裏通りを、一人の男が鼻歌交じりに歩いていた。 ヨレヨレのジャイアンツ帽、ラクダのような巨大な目。素蔵鉄――こと、観測員・鉄っちゃんである。
彼の首元の通信機が、チャカチャカと音を立てる。
「……はい、はい、鉄ちゃんです。 ええ、今回の個体『タイチ&ショータ』、笑いの閾値を突破して、見事に第3種言語文明へ移行しました~。成功です、成功! ヌヒヒヒヒ!」
「ね~、わかったっしょ!? 言葉なんてのはね、宇宙をバグらせるためのノイズなんだわ! ただの独り言なの!!ヌヒヒヒヒ! ナイス!!カオス!!」
鉄さんはセカンドバッグから一本のコーラを取り出すと、それを一気に飲み干した。 「やっぱり、北海道のザンギは、宇宙のガソリンなんだ~。ね~、皆様!! 次の観測地点でお会いしましょう!! よっ!! ナイス!! ナイス鉄っちゃん!! はい! よ~~~し、ナ~~~イスカオス!!」
鉄さんが指をパチンと鳴らすと、彼の姿はネオンの光に溶けるようにして消え去った。 後に残されたのは、ウスターソースの香りと、一粒のすじこだけだった。
(完)




